第8番 陰と陽のカンタータ
昼間だというのに薄暗い。
オカムロを従えたフーマン法師が酒場に入ると、カウンターでグラスを磨く巨漢がぎろりと睨みつけた。
「ここは酒場だぜ? 真っ昼間から出すモンはねぇよ」
フーマン法師は応えず臆せず、深い闇色の瞳で店内を見回す。長い白髭が顎下で揺れた。
店内には、店主らしき巨漢と法師と童女しかいない。
「爺さんよ、聞いてんのか?」
答えの代わりにフーマン法師は紙切れを取り出し、ふぅーっと息を吹きかけた。紙片は宙を舞い、巨漢の顔面にひらりと張り付く。
「おい? なんだこれ」
陰陽術のお札である。法師は委細かまわず、なにやら唱えた。
「儂の知りたいことを話せい急急如律令」
「な、なに言ってんだ? なんの話だ?」
強面の巨漢が、ただの紙切れと老人に怯えている。汗が、止まらない。
「ここに、バーゼンデー伯爵の従者とやらが来たのじゃろう?」
法師は長い白髭を撫でながら訊いた。
「なななな、なんの、ことかかか、わわわわか、らねぇななな」
百ドル金貨の重みで答えは決まっている。だのに、うまく言葉にならない。嘘ひとつつくのに心臓が破裂しそうだった。
「無駄なのじゃ! もう逆らっても無駄じゃ! お前には法師さまの術がしっかりどっぷり入っておるぞよ! さすがは法師さまにござりまする!」
きゃいきゃいとはしゃぐおかっぱ頭の童女、オカムロ。
「ここに伯爵の従者が来たのじゃな?」
「は、ははは、はい、きましたきましたきました」
歯をがちがちと鳴らしながら酒場の店主は答えた。答えるしかなかった。肉体も精神も目の前の老人、フーマン法師に逆らうことができなくなっているのだ。彼には理由もわからない。
「で?」
さらに問いかける法師の瞳は、底なしの闇を抱いていた。
「そやつはどうしたのじゃ?」
街路の騒ぎに気づいた酒場の店主が店を飛びしたときには、紅い装束の剣士が大統領親衛隊の黒衣防毒面の兵卒をひとり斬り伏せていた。
炭田共和国に知らぬ者なき孤高の叛逆者“血刀イクソ”である。
「我が愛剣は今日も貴様ら圧政者の血に餓えておるぞ」
軽やかな剣捌きに反して、つばの広い羽付帽子の下から聞こえる声音は老練な渋さ。
「ち、ち、ち、血刀イクソぉ!?」
「左様だ、圧政者諸君」
狼狽さえする親衛隊のクリュッヒ大佐に対して、超然たる態度のイクソ。
「こ、こ、こ、こんな真っ昼間から現れるとは!」
「虐げられし民と叛逆の同志あるところ、いつなんどきも我が戦さ場よ」
「えぇい! 殺しても構わん! イクソを撃て!」
クリュッヒ大佐の号令一下、防毒面たちが一斉に小銃を構えた。だが、響き渡ったのは彼らの銃声ではなかった。
右手で長剣を構えたまま、イクソは左手でドライゼ拳銃を早撃ち。六連発で六人の敵を撃ち殺してみせた。紅いマントが翻る、ほんの一瞬の出来事であった。
「なッ!?」
大佐などは撃たれてもいないのに倒れそうになるほど驚いている。
「飛び道具ならば勝てると思うたか?」
イクソは紅き眼帯で素顔を隠しているが、不敵さを醸し出す。白混じりの灰色の口髭は高貴さも伺わせていた。
「かっけぇ……」
真横でイクソをガン見していたトラスケが少年のように瞳を輝かせた。
「あんた、かっけぇな!」
まるで縁日の童である。
「この程度、紳士たる者の嗜みだよ、青年」
そんなイクソの一言ひとこと、一挙手一投足が堂に入っていた。
「うわー、ホンモノの血刀イクソだぁ」
「有名なので?」
ぽかんと口を開けて呟くキリッカにエンゲルジが問う。
「うん、炭田共和国の専制政治にたったひとりで逆らい続けてるんだって」
「孤軍奮闘ってか!? そいつァ、マブな話かい!?」
「この国のひとならみんな知ってる義賊ってやつかな」
キリッカの話を聞いてトラスケは一層きらきらと瞳を輝かせた。
先ほどまで大統領親衛隊に怯えきっていた貧民の一家もトラスケとおなじ目をしている。彼らにとって血刀イクソがどういう存在かわかろうというものだ。
「さぁて、血刀の義賊さんよ! 助太刀感謝するぜ!」
「なに、叛逆者として当然のことをしたまでだよ」
意気投合とでも言うのだろうか。さっと抜刀したトラスケは当然のようにイクソに肩を並べた。共に戦う気満々である。
「だが、君らは空賊だな?」
「いんや、俺はサムラ」
「うん、そうだけど」
イクソの問いかけにキリッカが答えた。もはや、トラスケは誰が見ても空賊“酔いどれウサギ号”の一味だ。
「ならば、空港に急ぎたまえ。船を押さえられる前に」
「おいおいおいおい! 野暮は言いっこなしだぜ、血刀の旦那ァ! 俺らでこいつらみぃんな叩ッ斬ってやろうぜ!」
トラスケはやる気だ。ずずいと前に出て、白刃を日輪に晒す。その殺気に応えた防毒面たちも銃剣の切っ先を向けた。
「退けよ、猿」
鉄腕の執事、エンゲルジの冷静な指摘。
「クイーンが無事でもキングを取られたら負けなんだからな」
トラスケはもちろん、チェスの駒もルールも知らない。だが、察しは悪くない。ここらが潮時だ。
「左様、ここは我輩が引き受けよう」
「大丈夫なの?」
キリッカの心配にイクソはグレーの口髭を不敵に歪ませた。
「我輩を誰だと思っているのかね?」
拳銃を納めたイクソがさっと取り出したるは一見して古風な擲弾だった。彼がそれをすぐさま地面へと叩きつけると、しゅうしゅうと煙を吐き出した。
煙幕だ。
「く、く、く、糞ッ! に、に、に、逃すなァ!」
突然の煙幕に慌てふためくクリュッヒ大佐。
「さらばだ、同志諸君」
煙に消えゆく一瞬、イクソは空賊一味にそれだけ告げると、さっと駆け出した。
「紅き叛逆者“血刀イクソ”はここにおるぞ! 足ある者は追うてみせよ!」
その大音声を頼りに大統領親衛隊の将校も防毒面もわらわらと、煙幕の中イクソを追った。警笛がぴいぴいと、軍靴はどかどかと。
「ささっ、野郎ども! ズラかるよ!」
小声で、しかし、血気盛んな誰かさんに向けて力強くキリッカは呼びかけた。言われたトラスケもざっと走り出そうとするが、ひとつだけやり残したことがある。
この混乱の中、両親と共に逃げ出そうとする貧民の少女。彼女の耳に、ちゃきちゃきの東洋人の声が届いた。
「地べたに這い蹲ろうが、靴舐めようが、あんな歌だけァ歌うモンじゃあねぇぞ?」
煙幕が晴れた頃、そこには酒場の店主しかいなかった。
「まるでお祭り騒ぎじゃな」
店主から話を聞き出し、フーマン法師は呆れ果てた。
「巷を騒がす義賊に、バーゼンデー伯爵の執事に、若き女空賊に、ジパングのサムライじゃと?」
烏帽子を脱ぎ、掌をおでこに当て、首を振るしかない。
「まったく、世界はどうなっとるのじゃ」
白髭からため息が漏れる。
「法師さま、法師さま」
まだまだ背の小さなオカムロが、法師の足元から呼ぶ。
「なんじゃ?」
「こやつは禿が始末しまするか?」
童女が無邪気に訊く。彼女の言う「こやつ」とは、酒場の店主である。「始末」の意味は推して知るべし。
「必要あるまいて」
本人の意思もお構い無しに、ただただ命令に従う術を施したのだ。店主の心も体も、抵抗虚しくすでに壊れてしまっている。
目は見開いたまま虚空を見つめ、口は半開きのままよだれを垂らすがままである。
「もはや廃人よ」
昼間だというのに薄暗い。
炭田共和国空港当局の否やを無視して酔いどれウサギ号は勝手に出港。針路は南東に一直線。逃げ足の速さはさすがの空賊だ。
「それにしても世界は広ぇなぁ!」
白襷、白頭巾にすっかり馴染んだトラスケがデッキブラシで廊下を掃除している。
「たったひとりで国と戦う男がいるなんてなぁ! 偉れぇモンだぜ!」
相も変わらず独り言の激しい男である。鉄骨を伝わるごうんごうんというエンジンの駆動音にも負けていない。
「おい、猿」
「なんでぇ、鉄腕の」
エンゲルジの猿扱いもすっかり受け入れてしまったトラスケだった。
「これが、掃除か?」
「おうよ、お船のお掃除が俺のお役目だかんな!」
誇り高き戦士、サムライともあろう者が胸を張った。
「ほう? お前が掃除係、か」
エンゲルジの小さな縁なし眼鏡がぎらりと光る。
「だ、だったらなんでぇ?」
口を尖らせるトラスケをよそに、エンゲルジは鋼鉄の腕の鋼鉄の指を器用に使って右手の白手袋をすっと脱いだ。しなやかな褐色の人差し指で、廊下を伝うパイプに触れる。
つつつーっと、指先がパイプをなぞった。
「これが、掃除か?」
エンゲルジは指先についた埃を見せつけた。
「ぐ、ぐぬぅ!」
何も言い返せないトラスケ。
「ほんと、サムラーイは誰とでもすぐ仲良しだね?」
ブリッジから自室へと向かうキリッカが通りがかりに声をかけた。彼女にはそう見えているらしい。
「これはこれはお嬢様、ご機嫌麗しゅう」
長身を滑らかに折り曲げて挨拶するエンゲルジ。トラスケ相手の態度とは著しい差である。
「この者にお掃除の指導をしておりました」
「うんうん! 結構結構! 労働って大事だもんね!」
「へ、へいっ!」
指導かいびりか悩むところだが、悲しいかな埃が積もっていたのは事実であり、トラスケは平身低頭するしかなかった。サムライたる者、お役目とあってはおそろかにできないのだ。
「そいで、オカシラ? いま、お船はどちらに向かってるんだい?」
スマラグドス碑文を渡すべき相手、バーゼンデー伯爵はもういない。そのうえ、炭田共和国ではお尋ね者になってしまった。
次の行き先は何処だろうか。
「とりあえず補給と、スマラグドス碑文のことも知りたいし情報収拾しないとね」
賊である彼らが世界で唯一安心して補給を受けられる街。空を自由に飛び交う彼らが集う情報の交差点。
エンゲルジはすぐに察した。
「では、空賊ギルド本部へ向かっているのですね」
「なぁるへそ!」
巨大塩湖に浮かぶ人工の積層都市に空賊たちの楽園があることは、ユーラシヤ大陸に暮らす誰もが知っている。
「そう、空賊の街“リベルタリヤ”にね!」
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