第6番 鉄腕の執事エンゲルジ
昼間だというのに薄暗い。
トラスケを従えたキリッカが酒場に入ると、カウンターでグラスを磨く巨漢がぎろりと睨みつけた。
「ここは酒場だぜ? 真っ昼間から出すモンはねぇよ」
キリッカは応えず臆せず、黒縁眼鏡で店内を見回す。くすんだブロンドの三つ編みが背中で揺れた。
店内には、店主らしき巨漢とキリッカとトラスケしかいない。
「お客さんよ、聞いてんのか?」
答えの代わりにキリッカは格好良く銀貨を指で弾いてみせた。基軸通貨の十上海ドル銀貨であり、ちょいと粋なチップであった。
だが、ぴーん、こつん、ころころころ。
カウンターまで届かず床に転がった。ちょっと恥ずかしい。否、だいぶ恥ずかしい。笑いをこらえる巨漢、顔を真っ赤に動けなくなるキリッカ。
薄暗い店内は沈黙に震えた。
「さ、サムラーイ!」
「へ、へいっ!?」
急に呼びつけられてもトラスケにはわからない。
「んっ! んっ!」
キリッカは顔面の熱気を振り払うかのようにきびきびと、まずは床に落ちた銀貨を、次にカウンターの店主らしき男を指差した。
「あ! ああ!」
ぽんと手を打ち、トラスケも理解。
「合点承知の助!」
とてとてと床の銀貨に歩み寄り、どっこいせっと拾い上げ、またとてとてとカウンターへ向かい、男に銀貨をほいと渡した。
まったくもって粋じゃなくなった。
「あ、ありがとよ」
何も悪くない店主も気恥ずかしそうに受け取るしかない。
「あ、あんたが“酔いどれウサギ”かい?」
「う、うん。そうだけど」
「お、奥でお待ちだ」
「あ、ありがと」
店主とキリッカは最後まで目を合わせようとはしなかった。
カウンターの奥、店の厨房で男は待っていた。
「お前さんが伯爵さまで?」
「ちがう、みたいね」
厨房は客席よりさらに暗く、男は半身に陰を背負っていた。
すらりとした長身に上品だが華美ではない三つ揃えの燕尾服。これは、貴族ではなく従者の装い。
「ええ、わたくしはバーゼンデー伯爵の執事」
小さな縁なし眼鏡を右手の白手袋でくいと押し上げた。
「エンゲルジと申します」
そう慇懃に名乗った男だが、頭は下げなかった。
黒人特有の褐色の肌に、三十路手前の若さに似合わぬ総白髪。執事らしい丁寧な言葉遣いに、無礼なまでに鋭い剃刀のような眼光。
六尺を超える身の丈をさりげなく半身に構えている。こちらを警戒しているのだ。
「あなたが“酔いどれウサギ号”のキリッカ船長ですね?」
「そうだけど?」
疑心暗鬼。なぜ、約束通りバーゼンデー伯爵はここに来ていないのか。
「……思ったよりお若い」
少し残念そうに執事、エンゲルジはぽつりと呟いた。
「ちなみにといっちゃなんだがよ! 名乗られて名乗らねぇのも座りがわりぃや! 俺の名はト」
「それで、伯爵はどこ?」
威勢のいいトラスケのことはさておいて、話を進めるキリッカ。
「お約束の品は? スマラグドス碑文は、どちらに?」
質問に質問を返すエンゲルジ。ちらりと、トラスケが小脇に抱える麻袋を見遣った。
「手に入ったようですね?」
「だから、約束通り、ここに来たの」
「私はお館様の……我が主、バーゼンデー伯爵閣下の名代です」
キリッカは気づいた。雲行きが怪しいことに。
「さぁ……スマラグドス碑文を、お渡しください」
陰からずいと、エンゲルジは今まで隠されていた左腕を差し出した。
「え!?」
キリッカはその腕に驚いた。
エンゲルジの左腕は、肩から先が鋼鉄製だった。細身の身体、しなやかな四肢に不釣り合いな無骨な鉄の塊。掌に五指がついているから腕とわかるが、それも鋼鉄で造られており、常人の手とは比べ物にならないほど大きい。
トラスケも感嘆を漏らす。
「まさに、鉄腕ってか」
燃え盛る欧風の屋敷。
血塗れの伯爵と使用人たち。
炎に照らされた太ったピエロ。
自身の左腕を拾い上げるエンゲルジ。
比喩ではない鋼鉄の義手。
ぎりぎりと歯車を軋ませて鉄腕に宝物を求めるエンゲルジの瞳は、鬼気迫るものがあった。冷厳な表情の下から炎さえ吐かんばかりに。
「伯爵閣下は、スマラグドス碑文を奪われた“結社”に……殺されたのです」
その事実よりも、エンゲルジの気迫にキリッカは息を飲んだ。隠しても隠しきれない怒りと悲しみと何か。おそらくは、悔しさ。
「錬金術のわからないわたくしには理由など知る由もありません。ですが、お館様はそのエメラルドの塊を結社に渡してはならぬと仰せでした」
真剣に語るエンゲルジを尻目に、トラスケは麻袋をひょいと覗き込んでみた。文字の刻まれた翠玉の板は妖しげに輝いているようにも見える。
「うーん、いや、まぁ、これを渡すのはやぶさかじゃないけど……」
キリッカはちょっと困ってしまった。
「あなた、お金は、あるの?」
地獄の沙汰も金次第とはよく言ったものである。
「バーゼンデー伯爵からはまだ前金しかもらってないんだよね」
恐ろしげな鉄腕を前にしてキリッカは首を傾げた。
そろばん勘定が合うのか合わぬのか、それは天体の運行とどっこいどっこいのこの世の動かさざる摂理。彼女はそう信じて疑わない。
「そ、それが……」
あれほどの感情を飲み込んでいた執事エンゲルジが鋭い瞳をどこかへ向けて、言い淀んでしまった。
「お屋敷は焼かれ、お館様にはお身寄りもなく、使用人はわたくしひとり生き残り……」
「お金、ないの?」
「……ございません」
ちょっとはエンゲルジの身の上や、下手人である“結社”とやらのことを気にしてもよさそうなものだが、キリッカはあくまでも銭金にこだわった。
「じゃあ、渡せないかな」
きっぱり。
「だって、約束だし」
キリッカとは別の理屈と思想で、主君を重んじるエンゲルジもそう言われては折れざるを得ない。なにせ、契約を結んだ今は亡き主の名誉に関わる。
「ならば……復讐を」
その声は微かに震えていた。
「わたくしめに主と、この左腕の復讐の機会をお与えください」
スマラグドス碑文を求めて差し出していた鋼鉄の左腕をすっと引いた。
「ふたりと持たぬと誓った主君ではございますが、誓いを曲げ、主従を改め……」
優美なまでの動作で、エンゲルジはキリッカの前に傅いた。
「キリッカ船長、あなた様にお仕えいたしますゆえ……どうか」
膝を屈し、こうべを垂れる。
「どうか」
繰り返された言葉は、どこか弱々しくさえあった。
遥か彼方、シルクロードの先、ノイエ楼蘭から命からがら落ち延びて、主君の仇を討とうという気魂。片腕を失うほどの大怪我を負い、それでもまだ復讐を諦めない強さと、たったひとり味方もいない、弱さ。
異郷の貧民街の小さな酒場の厨房で、そのふたつが交差した。
「かぁー! とんだ浪花節じゃあねぇかい!」
トラスケは他人ながらに胸を打たれた。やたらとでっかい声で喚き始めた。
「オカシラ! こいつぁ引き受けなきゃなんねぇよ!」
目に涙さえ浮かべてキリッカに詰め寄った。
「ここで退いたら男が廃るってもんだぜ!」
「私、男じゃないし」
「おいおいおいおい! オカシラともあろう御人が野暮は言いっこなしだぜ!」
エンゲルジの苦労話に、まったくの他人のトラスケがなにやら勝手に盛り上がっている。こういう気持ちは理屈じゃないのだと言わんばかりだ。
勝手な男である。
「んー」
一方のキリッカもまた思い切りがいいのはご承知の通り。
「いいよ? とりあえず、うちの船においでよ」
さらりと快諾した。
「あ……ありがとうございます、お嬢様」
空賊の若き女船長と貴族の執事という珍しい主従関係がここに成立した。すぐ隣にはどんな関係か判然としないサムライの青年もいる。
奇妙な取り合わせである。
今までキリッカに傅いていたエンゲルジだが、立ち上がると短身のトラスケを見下ろす形となる。それだけでなく、彼にとって主君以外は大した価値を持たない。
「それで、お前は誰なんだ?」
あれだけ慇懃だった執事も、東洋人の若造相手にはこれである。もしかしたら、こちらの方がエンゲルジという男の本性なのかも知れない。
「おうよ! よくぞ訊いてくだすった! 俺の名はト」
割愛。
昼間だというのに薄暗い。
サムライと執事を従えたキリッカが店を後にしようとすると、カウンターでグラスを磨く巨漢がぎろりと睨みつけた。
「今の内緒話、俺は忘れちまった方がいいんだよな?」
キリッカは応えず臆せず、黒縁眼鏡で店内を見回す。くすんだブロンドの三つ編みが背中で揺れた。
店内には、店主らしき巨漢の他にはキリッカとトラスケとエンゲルジしかいない。
「ウサギさんよ、聞いてんのか?」
答えの代わりにキリッカは格好良く金貨を指で弾いてみせた。基軸通貨の百上海ドル金貨であり、ちょいと粋なチップであった。
だが、ぴーん、こつん、ころころころ。
カウンターまで届かず床に転がった。一度ならず二度までも。かなり恥ずかしい。笑いをこらえる巨漢、顔を真っ赤に動けなくなるキリッカ。
薄暗い店内は沈黙に震えた。
しかし、主君への忠義に篤い執事は気の利かないトラスケなんぞとは違った。
キリッカが指示をするまでもなく、エンゲルジはすっと金貨を拾い上げ、てきてきぱきぱきと店主に金貨を握らせた。
「我が主からだ、取っておけ」
左腕は不自由だというのに大したものである。
さすが執事!