第3番 スマラグドス碑文
「いいか、馬の骨」
「へいっ」
熊と巌を足して煮詰めて煮込んだような掌帆長とかいう大男がトラスケに念を押した。
「我らがうら若き可憐な船長とひとけのない遺跡に潜るんだからな?」
「へいっ」
高度を落とし、地上に係留した酔いどれウサギ号。そのタラップから降りる段になって、乗員最古参の掌帆長がトラスケに念を押しているのだ。
「万が一にも兆が一にも間違いなんか許されないからな?」
「へいっ」
まるで地獄の地響きのような声音に、死をも恐れないジパングのサムライも顔を青ざめながら従うことしかできない。
「もしも、神聖にして絶対不可侵な船長になにかあれば……」
「あ、あれば……?」
気づけば掌帆長だけではない。居合わせた乗員の誰もがトラスケを睨んでいた。その視線の恐ろしさたるや、槍衾の切っ先の如し。
「お前の小さな体にケツから水素ぶち込んでパンパンに膨らましてマッチで火ぃつけて月まで吹っ飛ばしてやるからな、忘れるな?」
ぴゅうと、アラビヤの砂漠を駆け抜ける風がやけに冷たい。きっと、断じて、夜が近いからに他ならない。
「……へ、へい。忘れないでござるござる」
トラスケは酔いどれウサギ号における最上位の信仰を理解した。この船の乗員にとってキリッカ船長とはどういう存在なのか、と。
「あれ? サムラーイ、みんなともう仲良し?」
装備を整えたキリッカが首を傾げる。
「仲良し、だよな?」
ばしんとトラスケの小さな背中を叩く、笑顔の掌帆長。
「せ、拙者、皆の衆とすっかり仲良しで御座候!」
世界とは広いものである。怖いもの知らずのサムライ青年はこのとき、西方にて真に恐ろしいものを知った。
「そっか! よかった! それじゃ、みんな留守番よろしくねー!」
それを俗に、愛と呼ぶ。
アラビヤ半島ど真ん中の商都ダフナのへそから南東へ幾里も下った砂漠に埋もれるように、その遺跡はあった。
学者ではないキリッカにもトラスケにもそれがいつの時代のものかはさっぱりわからない。そんなことわからなくとも、先だってウサギ号一味が盗掘した品々は高く売れたのだとキリッカは嬉々として語った。
十年前のロバ電子爆弾投下の衝撃に伴う地殻変動やらバケモノによる喰い散らかしによって、今まで神話と信じられてきた太古の遺跡が見つかることがままあるのだ。そんな遺跡を冒険し、出土したお宝を売っぱらうというのは世界を駆け回る空賊の収入源のひとつであった。
この蛮行が非難されるのはかなり未来の話なのでさておこう。
ともあれ、いつとも知れぬ名も知らぬ国の古き宮殿かなにかを、トラスケとキリッカは進んでいた。だいぶ奥深くなり、地上の光も届かない。掲げるカンテラの灯だけが頼りだった。
「こいつぁ、なかなかに立派な都の御殿だったんじゃねぇかい?」
「だよねー。もしかしたらどっかの歴史書になんか書いてあるかと思って調べたんだけど、ここがいつのなんて国だったのかもわかんなかったんだー」
「もったいねぇなぁ」
こつんこつんとふたりの足音が反響する。
「こんだけ立派なお国なら、さぞかし名高いお殿様でもいたんだろうによ」
「お姫様かもよ?」
「昔むかしあるところに、お殿様とお姫様が、ってか」
悠久の刻を感じてか、ふたりはしみじみと……しなかった。
「まぁ、でも、今や私の貸金庫なんだけどね!」
「ちげぇねぇちげぇねぇ!」
からからと笑うふたり。
「空賊ってのは豪胆なもんなんだな!」
地上の主役の座をバケモノに脅かされるこの時代。空に生きる空賊だけが自由を謳歌しているとも言われている。
「なになに? サムラーイも空賊になっちゃう?」
思い起こされるアラビヤの砂漠の冷たい風。
「せ、拙者、皆の衆とは仲良しで御座候共、武者修行中の身故にして」
「ちょっとなに言ってるかわかんない」
などと遺跡を進むと、やがて大きな広間に行き当たった。
「こいつぁ、すげぇや!」
ひときわ広い空間に立ち並ぶ石柱。
「ね! きっとここは王様の謁見の間か、神様に祈る祭殿だったんじゃないかな」
最奥の壇上には玉座か祭壇でも据えられていたのだろうが、今はない。
だが、中央の壁面には等身大の女性の像があった。刻まれた文字を読むこともできず、彼女の名前さえわからない。
「えれぇべっぴんさんだぁな」
カンテラを掲げて石像の顔を覗き込むトラスケ。
「女神さまか、女王さま、なのかな? 悲しそうな顔してるよね」
キリッカたちのおしゃべりに彫像は答えない。
「でもでも、本題はそっちじゃないの」
「相撲銅鑼なんとか!」
「スマラグドス碑文ね……よいしょっと」
彫像の足元からキリッカは木箱を引きずり出した。
「それがス」
「スマラグドス碑文」
さっさと蓋を開けるとキリッカはそれを両手に取った。
スマラグドス、すなわちエメラルド。翠玉の板状の塊である。トラスケの顔よりも大きいのだから、宝石としての価値も高いことだろう。
カンテラの灯に照らされて微かに輝いている。
また、碑文と呼ばれるだけあって、平かな面にびっしりと文字が刻まれている。
「こりゃなんて書いてあるんだい?」
「うーん、すんごい古いアラビヤ語で途切れ途切れだからアレだけど」
キリッカは両手で持って読み上げた。
「下のものは上の如し、上のものは下の如し、うんぬんかんぬん」
首を捻りながら、途中からうやむやになった。
「みたいな感じ、かなぁ?」
「へぇ」
「なんだろ、哲学みたいなことなのかな?」
自分から訊いておいてトラスケはすでに興味を失っていた。なぜなら、なにやら難しそうな話だったから。
「こんなにおっきな宝石だからお高いものなのはわかるんだけどさ? これを手に入れるのにバーゼンデー伯爵から結構な前金もらっちゃってるんだよね」
キリッカは手の内のスマラグドス碑文に問いかけるように、独り言つ。なぜなら、話し相手のトラスケがぷらぷらとその辺を歩き回っているから。
「書いてあることだって別に大したことないし、伯爵さまが大金払って空賊なんかのうちに依頼したり、奪われた連中が取り戻そうとわざわざバケモノ差し向けるほどのものなのかな?」
盗み出しておきながら、キリッカにはそこがわからない。
「あっちもこっちも、こんなの何に使うんだろ?」
観賞用か漬物石か投機用か、それ以外に使い道などなかろうに。
「ぽちっとな」
なんの脈絡もなく、突然に、唐突に、トラスケが呟いた。
呟きながら、彫像の台座にある印章をスイッチかボタンのように押し込んだ。
「え? なにしてんの?」
おそらく今後、この伝説にとって重要な情報をつらつらと語っていたキリッカの疑問ももっともである。
「うんにゃ、なんか、この家紋みてぇな出っ張りが気になっちまって」
「だからって、なに私の話も聞かないで勝手なことしてんの?」
「いやいやいやいや! 押せるもんあったら、そりゃあ押すだろ?」
トラスケのそんな気持ちもわからないでもない人も多いことだろう。だが、
「ダメだよ、ここ遺跡だよ?」
そう、遺跡なのである。古代の遺跡なのである。
「ああ、遺跡だよな」
「罠とかあったらどうすんの?」
「罠かぁ、ありそうだぁな」
なにせ古代の遺跡である。罠くらいあるだろう。
「何かの封印とかだったらどうすんの?」
「封印かぁ、ありそうだぁな」
なにせ古代の遺跡である。封印くらいあってもおかしくない。
「あるに決まってんじゃん」
「決まってそうだなぁ」
それが偏見か先入観かは悩ましいところではある。
「でしょ? だからダメじゃん」
「ダメだったか」
「ダメに決まってんじゃん」
安全とは言い切れない場所での不用意な行動がダメなことは間違いない。
「そいつぁ困ったな」
「押しちゃったもんね?」
「押しちまったもんなぁ」
普通ならば、押す前に考えるべきである。
「さてはサムラーイってバカでしょ?」
「へへっ、めんぼくねぇ」
ぽりぽりと頭をかくトラスケ。
「だから私の話も聞いてなかったでしょ?」
「ジパングには馬の耳に念仏って言葉があってな?」
「ネンブツ?」
「そう、意味は」
大威張りで解説しようとするトラスケをキリッカはぴしゃりと遮った。
「ネンブツ知らないけど、意味はわかった」
「さっすがオカシラ!」
「サムラーイがバカなだけだよ」
「へへっ、めんぼくねぇ」
「赦サヌ、赦サヌゾエ」
「って、なんでぇオカシラ。藪から棒に色っぺぇ声なんぞ出して」
「そんな声、してないし」
全体的にキリッカには色っぽさが足りていない。本人も自覚している。
「ワラワノ永久ナル寝所ヲ穢シ騒ガスナゾ」
「へ、オカシラの声……じゃねぇな?」
「うん、私じゃないし、サムラーイでもない」
ふたりは軽快なやりとりをやめ、顔を見合わせ、そして、彫像を見た。
「あ」
古代の美女の彫像が、小刻みに震え、瞳に仄かな光を宿している。石像は本来、動かないし光らない。ただならぬ怪現象なのだが、第三の声の主はこれで明らかだ。
そろりそろりと、揃って後ずさるトラスケとキリッカ。
「お、オカシラ……これって、もしや」
「ここ、遺跡だよ……決まってんじゃん」
この世で絶対に怒らせてはならないものがある。
「縊リ捻リ祟リ殺シテクレヨウゾ!」
それは、あの世の存在だ。