何でもない話
「兄さん。本当にもう歌わないの。」
妹分みたいな関係であった真紀は、椅子をシーソーのようにカタンカタンと言わせながら、僕にそう尋ねた。
元々、一緒に歌ったこともある真紀の声は、僕の引退を惜しんでくれているように聞こえて、でも僕の意志は変わらなかった。
「ああ。」
生まれてからずっと誇らしかった自分の喉も今は、ただ彼女の質問に答えるだけの役目しかおってはいない。森羅万象そういうものであると思うとどこか納得できた。
「ねえ、何か病気にでもなったの?それとも喉でも悪くしたの?私と兄さんの仲じゃない。教えてよ。私、精一杯手伝うよ。ねえ……。」
椅子からガタンと立ち上がり、叫んだ。
しかし、後半になる程声は小さくなりついには聞こえなくなった。
「何でもないよ。ずっと前から、僕は何でもなかったんだ。」
そう、僕は何でもなかったのだ。
この間まで、僕はゲリラ的に歌を歌ってきた。
会場を借りれない訳ではないし、歌もテレビに出ているような人達と比べても決して下手ではない。どちらかというと僕の方が上手かった。
では何故、ゲリラにこだわったのか。
それは音楽の門扉を真の意味で世界中に開きたかったのだ。
チケット代が無ければ聴けない。
会場に行かなければ聴けない。
人間で無ければ聴けない
そんなものは音楽ではないと思っていたし、今もそう思っている。
そして、言語の壁を超え、いや全ての弊害を超えられるのが音楽であると思っていた。
その理想を達成すべく、あらゆる場所で歌った。
ギターと自分の喉だけのこともあれば、真紀を含め弟や妹のように僕を慕ってくれる人達と歌ったりもした。
政治家の街頭演説の隣で歌い。政治家やその支持者を泣かせたこともある。その時の政治家がロクでもない政治家だったようだったが、それから人が変わったように精力的に活動していた。
児童の登校中に歌ったらその、登校班が全員遅刻したらようで。あれはかわいそうなことをしたなと思っている。
山の中で歌ったりもしたし、鳥取砂丘の真ん中で歌ったこともある。人はいなかったが、きっと砂や木が聴いてくれたに違いないと思っていた。
こんな訳の分からないことを続けても、食うに困らないのは僕には大量の寄付が集まるからだ。「一度聞いたら、他のミュージシャンの曲が聴けない」というのは僕の称号だった。良い業務妨害だなと我ながら思う。
それから、感動して全財産ペイしようとしてくれる人もいる。流石に生活費まではとりたくないので大部分は返すのだが、そこまで感情を揺さぶれるのが僕の歌だった。そうであったはずであった。
一方で、僕は、自分でも自分をモーツァルト以上の天才だと思ってきた、事実そうだっただろう。
妹分や弟分も多く出来た。お金にはそこまで執着がないので彼らを養ったり、寄付をしたりもしてきた。
このまま世界をひっくり返そう。ユートピアを作ろうとも思っていた。
しかし、ある時世界は変わった。
一週間ほど前、タクシー運転手になりすまして、乗ってきた客に曲を半ば強引に聴かせた時だった。
このタクシー運転手になりすます手段は僕がよくやってきた手段だ。特別なものではない。しかし、その時が普段と違っていたのは僕が歌い終わっても観客は泣きもせず、弟子にしてくれとも頼まなかったことだ。
「僕の歌は下手くそだったかい?」
その時、僕は観客に問うた。
その客というのは、制服をきた高校生の女の子であった。
本当に、高校生らしい高校生の見た目であった。
「西駅へ行って。」
ただ、それだけの返事しか返ってこないことに僕は困惑した。
窓から見える景色は春宵と呼ぶにふさわしいものであったが、僕の心情はそれとは正反対なものであったが。
「私、耳が聞こえなくて。ごめんなさい。何かあるなら、こっちを見てゆっくり言ってください。」
なるほどと思うと同時に絶望感に襲われた。
そのあと絶望は虚無感に代わり僕を痛めつけた。
仕方なく、西駅へ向かい客を下ろしてから僕は思った。
自分が絶対だと信じた音楽は、音が聞こえなければ何の意味も持たない。
言語さえも超えても、振動を媒介しなければ届かないのだ。
それから、僕は歌を歌っていない。
今まで、耳の悪い人に気づかなかったのはまぐれに他ならないだろう。いずれ気づくものであったのだろうが、やはりそのダメージは計り知れなかった。
音楽は万能ではないのか。人の心を引きつけ、動かせてもそれは万人対してではなかったのか。
悪いのはもちろん、耳の悪い人々ではない。音楽を完成できていない僕である。
では果たして、音の聞こえない方をも感動させうる音楽とはありうるのか。
正直、僕には無理だと思った。
そして引退をみんなに宣言して今日に至るのである。
「やっぱり、引退かな。」
そうぼそりと呟くと、真紀はポロポロと涙をこぼした。
「ねえ、兄さん。兄さんは音楽を一緒に変えようって言ったよね。みんなのものにするって言ったよね。」
その真紀の涙まじりの声は、僕の脳にしがみついて離れなかった。