恋路の下
さて、婿がねの少納言、さすがにけしからぬこととや思さむ、文だにやりたまはずなりにけり。
かくならむを待ちつけたまひぬにや、中将、あくがり出でたまふ。
入りたまふらむ、影なくに、箏の音のみ聞こゆ。
二無きほどにはあらざれど、聞き苦しうはあらじとぞ思しける。
「あはれとも言うべきひとは」とひとりごちたまふ声聞こして、あはれとや思ひけむ、
淵となるこひじの下に宿りませ其がかなしみは我のみ知るを
こたびは、返り事ありけり。あえかなる手にて、
流るれば淵なるものぞみなの川幾多分かるや我は知らじな
となむ。
清光といふ人あり。先つ頃よりこのもとの女房とねんごろに言ひ交はしてあれば、中将これを召し、これかれ仰せてけり。
殿のおほけなき思しおきによりて、名にも立ち、あざ笑はるるらむ、さほど優れたらむ人の、いかでか御覧じたまはむ、などと思しつつ、筝もてなぐさみたまひけるに、
「先つ頃の君なり」
とて、女房持て参らす。
名にし立てる中将にて、あだなることを仰せられけるかなと思しつつ、うたてとも思さざりけむにや、ものしたまふ。
寝む、とて奥に入りて臥したまふも、すずろに心も得ぬことありて、
「誰ぞ」
とぞわななきたまふに、
「あなかま。うしろやすう思したまへ」
とぞ、男、のたまひける。
憂き身の上を思し嘆きたまふこと、はなはだしけむ。
―――
さて、婿候補の少納言は、さすがに不都合なことだとお思いになったのだろうか、常陸の君に手紙さえ送らなかったということだ。
こうなることを待ち受けていたのだろうか、中将はふらふらとお出かけになる。
常陸の君は家の中に入っているのだろう、姿は見えなくて、筝の音だけが聞こえる。
またとなく素晴らしいというほどではないけれど、聞き苦しくはないようだと中将はお思いになった。
「可哀そうですねと言ってくれるような人も私にはいないわ」と独り言を言う声をお聞きになって、しみじみと胸打たれたのだろうか、
「積もって川の淵となった泥のように積もり積もった私の恋心の庇護下におなりなさい。あなたの悲しみは私だけが理解できるのだから」
今回は、返事があった。嫋々とした筆跡で、
「川が流れれば淵ができるものだから、行く先々であなたは恋をするのでしょう。みなも川がどれほどの支流に分かれているのか、あなたの恋路がどれほどの数あるのやら、私には分かりませんわ」
ということだ。
清光という人がいる。この前からこの邸の女房と恋仲になっていたので、中将はこの人を呼んで、あれこれ命令なさった。
お父様の身の程知らずな意志によって、世間に知られて、嘲笑われているのだろう、あれほど立派な人が、どうして私と結婚してくださることがあろうか、などとお思いになりながら、常陸の君が筝で自分を慰めていらっしゃると、
「この前のお方です」
と言って、女房が手紙を持ってくる。
浮き名が評判の中将だから、戯れごとを仰っているのねとお思いになりつつ、嫌だともお思いにならなかったのだろうか、返事をお書きになる。
常陸の君は、寝よう、ということで奥の間に入って身を横たえるのだが、何となくわけの分からないことがあって、
「誰なの」
とわなないていらっしゃると、
「静かに。後のことは心配なくお思いなさい」
と、男君が仰った。
常陸の君は、情けない自分の運命のことを思ってお嘆きになることが、はなはだしかったことだろう。