性転換 前 (アンティーク)
「うーん…」
呻きながら僕に覚醒を促す目覚ましを止める。
僕はのっそりと起き上がり、トイレへ向かう。ズボンを下ろし、下ろ…おろろ?
あるはずのブツがない気がする。
寝ぼけているんだと思いながら下を向くとなんだかいつもより胸のあたりが出っ張っているような。首をかしげながら股間を見ると、そこには何もなかった。
一瞬天井を仰いで、次の瞬間には事の重大さに気が付いた。
ちんちんが無い!!
ちんちんが無いぞ!?
ズボンを放り投げて慌ててトイレから飛び出し、備え付けの洗面台の鏡を覗き込む。
誰だこの女!
おっぱいの大きい、ぼさついた髪の女がこちらを見て驚いていた。目は普段通りの薄い茶色で変わりはないが、髪色は目の色と同じ薄い茶色から黒に代わっている。…こうしてみると何度かフラッシュバックする生首の女性に似ている気がする。
頭痛を感じつつも試しに表情を変えてみたりポーズをとってみたがすべて鏡写しの同じ動作を向こう側の女はこなしていく。
どうにも信用がならないので歯ブラシを手にし、鏡に打ち付けてみた。歯ブラシの尻の部分がめり込み、ひびが入る。ふむ、本当にただの鏡らしいな。
「なんなんだよこれ…。あ、声が女になってる…」
ガシガシと髪を掻きむしる。あ、いつもより手触りがいい。
これは明らかな異変である、と言うのは理解ができた。僕一人がこうなっているのか、それとも他にも同じようなことになっている人がいるのか。
――それとも記憶喪失と共に性自認まで失ってしまったか? それにしては後遺症が出るが遅すぎる。僕が病院のベッドで目覚めてから一年たっているのだから。
クローゼットを漁ると女性サイズの服がわんさか出てきた。今の身体のサイズと合うのだろうと予想はついた。それと、いつも着ている服とあまり変わりがない。
「…よし」
ストレス解消には柔らかいものを触るといいらしい。
たまたま僕には柔らかいおっぱいがついている。パニックな今、揉んでもおかしなことではないだろう。
そう判断してとりあえず揉んでみた。
うーん…。なんというか、予想よりふにょふにょしていて気持ち悪いな。というか、自分の身体についているものをさわってもあんまり面白くない。
外れた現実にがっかりしながらとりあえず服を着る。
もさもさと朝食を食べ、鏡に突き刺さったままの歯ブラシを引っこ抜いて歯を磨き、外に出る。
探偵事務所のメンバーはどうなっているのだろう。いつも通りなのか、それとも性別が反転してしまっているのか。あと所長の髪はどうなっているのか。
事務所のそばまで来ると、前方から歩いてくる青年が僕に気づき手を振ってきた。
僕が曖昧に手を振り返すと青年はこちらへ走ってくる。
オフィスカジュアルな服を着て、首元には薄手のストールを巻いている。そこから咲夜さんだと見当をつけた。
「夜弦さんのまま、ですね」
「もしかして、咲夜さんですか!?」
「そうです、よかった…私だけではなかったのですね」
こんなに取り乱した咲夜さんは初めて見た気がする。
「ああ、やっぱり立派な胸が! 大きいです!」
いくら何でも自分を見失いすぎじゃない?
「咲夜さんは…普段と変わりがないですね」
「あ?」
「いえ……」
少し目を逸らす。
顔つきがきりっとしていて、背が伸びた以外は身体にこれといって変化がないという意味で。別に、胸が普段から無いとはいっていないから。
それより僕、身長が縮んでいるな。どうりで町にあるものが普段より大きいと思ったわけだ。
「最初は私の性別だけが変わったのだと思いました。しかし、おじさんは女性になっていましたし、飼っている犬はオスになっていました。道でいつも会う人も、普段の性別と正反対です」
真面目に周りの状況を見ていた。僕はと言えば適当に理由を引っ提げておっぱい揉んでいただけだぞ。
それと前原さんの女性バージョンは少し気になるな…。
「思わず取り乱して私が所属しているもう一つの仕事場所に電話してしまったのですが」
「うん、取り乱しすぎじゃない?」
鏡ぶっ壊した僕のセリフではないけど。
あれどうしよう。
「疲れているんだねってことで休暇を貰いました」
「やったじゃん」
「ポジティブなのが羨ましいです。――私が女性であった世界の記憶も、私だけが持っていた状態です。いえ、夜弦さんも含まれますね」
「なにが起きたんだろう」
「分かりません。夜弦さん、最近変わったことをしましたか?」
「これといって…ああ、人を殺したかな」
「私もです」
「じゃあそれかな」
うんうんと頷く。かなり非常識な回答だとは分かっているけど、ちんちんを無くした今、何が起きてもそれ以上に非常識なことなんてない。
それに、ここで二人で悩んでいても仕方がない。
「咲夜さん、事務所に行こう! 気になることがあるんだ!」
「所長の髪がですか?」
「当たり前だろ!」
「夜弦さんのそういうところ、嫌いではないですよ」
咲夜さんだって真っ先に所長の髪が出ているじゃないか!
骨董屋は空いている。姫香さんはここからでは居るのかどうか分からない。彼女も男になっていたりするのかな。
外付け階段を跳ねるようにして上り、ドアを勢いよく開けた。
「おはようございます!」
「…おはよう、ユミ。朝から威勢がいいわね」
ロングヘア―の女性が驚いた様子で声をかけてくる。巨乳だ。
光の加減できらきらと茶色に見える髪。この事務所では見たことがない。
というか、ユミって誰?
「おはようございます、所長」
困っている僕を察したのか咲夜さんが横から口を出した。
所長、と言われてロングヘア―の女性は曖昧に頷く。
「おはよう、サキ。なんか…大丈夫、ふたりとも。いつもと様子が違うように見えるけど」
「あー…全然問題ありません」
「私も同じく」
「私?」
怪訝そうな顔で推定所長は聞き返した。
咲夜さんが小さく「あ」とつぶやく。どうやら一人称は変わっているらしい。
「あはは、さっくん、どうしたの~? そんなにかしこまって~」
給湯室から女性が出てきた。
百子さんだった。いや、百子さんか?
のどぼとけはないが、男物の服を身に着けている。男装…だろう。
あちらでは女装していてこちらでは男装か。彼、いや彼女にとってはどこも生きにくそうだ。
「…同居人の一人称が移ってしまったみたいですね」
「ラブラブだねえ」
「同居人なので特にラブラブはしていないです」
君たまにキスマークつけてるじゃん。とは言えない。命が惜しい。
咲夜さんは咳払いする。
「…最近でいいのですが、変わったことが起こりませんでしたか」
「変わったこと?」
「なんでもいいです」
「モモが拉致られてテロリストとやりあった、というのが変わったことだろうか…。なにかあったか?」
「いえ。少し確認したかっただけです」
ちらりと咲夜さんが僕を見る。
つまり時空は変わりがない、ということだ。
性が逆転している以外は何もこちらと変わりがない。
「ふうん? ボケてきているのかサキ」
「あなたほどじゃないですよ」
「は?」
しかもお約束もそのままか。
頬を掻きながら僕はひとまず自分の席に座る。百子さん(♀)がお茶を置いてくれた。
うーん、みんな普段と変わらないのに歯車がかみ合ってないようなそんな気持ちの悪さを覚えてしまう。
咲夜さんは一通り所長と悪口合戦をするとふと気づいたようにあたりを見回す。
「そういえば、姫希さんは?」
誰? というか、なんで名前が分かるの。
出勤前にみんなのこの世界での名前を調べたのだろうか。
「ヒメなら下にいる。なんか大掃除していたから手伝いに行くなら行ってほしい」
「分かりました。様子を見てきます」
咲夜さんがアイコンタクトで付いてくるように伝えてきた。
「あ、ぼ…私も」
お茶を慌てて飲んで立ち上がる。
おっぱいめちゃくちゃ邪魔。