「貴女は、僕をどうしたいのですか」
部屋の窓を開け、大きく息を吸い込む。そうすると、花の甘い香りと草の青臭い匂いが同時に飛び込んでくる。
一気に空気を吐き出し、肩を落とした。さあ、今日は何をしようか。
ふと庭に目を落とすと、初めてここへ来たときに迎えてくれた庭師を見つけた。真剣に花を見つめていると思ったら、次の瞬間にはふわりと笑い、何かを話しかけている。
本当に植物が好きなのだなと思っていると、庭師がこちらを向いた。
庭師は私と目が合うと、ひらりと手を振り、掌を口に当てそれを前へ飛ばす振りをした。
投げキッス、をされたのだろうか?
よく分からないが、第一印象とは違い、随分楽しい人のようだ。私はへらりと笑い、手を振り返す。庭師は、にこにこと笑ってこちらを見つめている。
私は軽く会釈をし、窓を閉めた。
呼び鈴を鳴らし、クレアを呼ぶ。
「おはようございます、奥様」
今日も彼女は完璧だ。
整えてある髪も乱れる気配すらないし、所作の1つ1つに無駄がない。今にもぴしっぴしっと音がしそうなくらい、キレがある。
私が今日の朝御飯にはチーズがあるといいなと考えていると、いつの間にか身支度は済んでいた。
「ありがとう、クレア」
「いえ、当たり前のことです」
このままだと、私は自堕落な人間になってしまいそうである。いや、もうなりかけである。
食堂へ向かいながら、今日もクラウド様は居ないのだなと何だかほっとするような、そうでないような気持ちになる。
いや、ほっとしちゃいけないでしょう。そうは思いながらも、あの梟の姿が見えないだけでこんなにも心落ち着くのだから、私も大概酷いやつなのだろう。
食堂へ近付くにつれて、食欲を掻き立てるようないい匂いが漂ってくる。ああ、今日は何のサラダだろうか。
私がテーブルへ着くと、すぐにワゴンがやってきて、ヤンが料理を並べていく。最後の一品にトロリとしたチーズがのっているのを見つけ、もしかするとヤンは私が食べたいものを当てられるのかもしれないと、半ば本気で思ってしまった。
美味しい料理をぺろりと平らげ、側に佇むヤンを見上げる。
「ありがとう、ヤン。今日もとっても美味しかったわ」
「勿体なきお言葉です」
顔を上げたヤンは少しだけ笑っているように見えて、私も思わず笑顔になってしまった。
朝食を食べてしまうと私は暇になってしまう。
前のように内職をすることも出来ないし、自分達の服を繕うこともない。私は手持ち無沙汰なまま、廊下を気の向くまま歩く。
そういえば、どんな構造になっているのか、未だに把握していないことに気付き、今日は場所を覚えようと意気込んだ矢先、目の前に人影が見えた。
影と馴染みすぎて一瞬分からなかったが、そこにいるのは確かに人だ。
あの形は執事でもないし、ましてやクレアでもない。ヤンは食堂だろうし、庭師だろうかと首を傾げながら近付いていく。
もう少しで顔が見えるかもしれないというとき、廊下にやや高めな、男の人の声が響いた。
「出ていくことをおすすめします」
暖かい空気の中へひやりとした冷たい言葉。
前へ一本踏み出した人影は、ヴァレッタの衣服を纏っている。彼は、確か食事の際に料理を運んでくれる少年だ。鋭い目線は、見つめるというよりも、睨み付けるという方が合っている気がするけども。
彼は、漆黒という言葉が相応しいと思うほど、尖った瞳も、寝癖1つないさらりとした髪も、その雰囲気ですら、黒く塗られていた。
きっとこの近寄りがたい雰囲気は、彼の美麗な容貌がそうさせるのだろう。それなのに少しばかりの幼さも兼ね備えているとは、なんと危うい存在か。これは女の子たち、いや、女性が放っておかないだろうと考えていると、これは、と再び淡々とした声が響いた。
「貴女の為でもあります」
「……何故、と聞いてもいいかしら?」
「…そうですね」
彼は、ふっと一度目を伏せると、ゆっくりと目線を上げた。
逆光でもないのに、顔に暗い影が差して見えるのは、私の思い違いか。だが、確かに口角は、徐々に上がっている。
「私が、貴女を殺してしまうから、ですよ」
その嘘の見えない表情に、私はすっと首筋に風が流れた感覚を覚えた。先程から感じる冷気は殺気だと、ようやく気付く。
この少年は私に何か怒りを感じているのだろうか。会って会話をしたのはこれが初めてだと言うのに、私の何がそんなに気に入らないのだろう。それを聞きたい衝動に駆られながら、しかし今それを聞いてはいけないのだろうという理性が働く。
だから、私は思っていることだけを伝える。
「クラウド様、クレアやヤンとも仲良く暮らしていきたいわ。勿論、貴方とも」
貴方と言った瞬間、少年の眉がぴくりと動いたような気がしたが、気のせいだろうか。くるりと向きを変え私の向く先へと歩き出した少年は振り返ることなくどこかへ姿を消した。
ほっと肩の力が抜ける。
まあ、少し緊張はしたがなんてことはない。私の臓器を売り払おうと連れ去ろうとしたあの借金取りに比べたら泣くほどもない。あれは死んだと思った。父様が死に物狂いで親族中からかき集めてくれなければ私は確実に死んでいた。そのお蔭で父様は縁を切られたようなものだけれど。
だから何だかんだでダメ人間なのに父様は憎めないのだ。
それにしても、あの少年に憎まれる理由が分からない。見た目が不快だったのだろうか? ……そうだとすると、私には手の施しようがないのだが。匂いとか? そんなに近付いてもいないのに、そんなこと分かるわけがない。いや、あの少年はもしかしたら鼻がものすごくいいのかもしれない。
うんうんと理由を考えていると、小さな庭のような場所へ出た。何処をどうやって通ったのかいまいち覚えていないが、外の庭と変わらないくらい、素敵な場所だ。
ぱっと見ると真ん中の大きな木の存在感がすごい。木登りが出来そうなくらい大きいそれに、無性に登ってみたくなって、気付いたら私の太ももくらいの太さの枝に座っていた。
そんなに高さ自体はないので屋根を越さないくらいだが、これが後ろに調度よく腰掛ける支えがあるのだ。
私は暖かい気温に呑まれ、うとうとと目を閉じてしまったのである。
悲鳴のような叫びに意識がふっと持ち上がった。何度も人の名前を呼んでいるようだ。誰? そんなに悲しそうに、誰を呼んでいるの?
次第に聞こえてくる声に、私は思わず声を上げてしまった。
「エリス奥様っ!!」
「はいぃぃいい!!」
私でした。紛うこと無き私でした。
無意識に前のめりになってしまい、慌てて枝に掴まる。落ちなかったことにほっとしながら、落ち着いて木を降りる。
足を地に着け辺りを見渡すと、なんと夕暮れ時になっているではないか。どれだけ昼寝していたというのか。
自分の怠惰すぎる身体にショックを受けていると、駆ける足音が聞こえた。振り向くと、いつもの完成された姿からは想像も出来ないくらい取り乱した、クレアがいた。汗をびっしょりかき、どれだけ私を探していたのかと罪悪感が心を占める。
「ご、ごめんなさい、いや、あの、さ、最近、暖かくなってきたじゃない? それで、えっと、調度いーい木があって、調度いーい座り心地だったら、あの、眠たくなるじゃない? えと、あっと、………………ごめんなさい」
言い訳を並べてみたけれど、無言のクレアが怖すぎて結局謝ってしまった。どんな叱咤が飛んで来るのかとびくびくしていたのだが、いつまで経っても無言のままだ。
恐る恐る顔を上げると、クレアは少しだけ息が荒いまま、じっと私を見ていた。そして表情がないまま、ぼそりと呟く。
「よかった……またかと……」
「え?」
「……いえ、何でもありません。全く、何をしているのですか。早く食堂に行きますよ。昼に食べに来なかったのでヤンが心配していましたよ」
「あう……ごめんなさい」
「私がどれだけ探したか分かっていますか? それなのに奥様は何をしているかと思いきや昼寝! 呆れて泣けもしません」
「ううう……」
やはりかと小言を聞きながら食堂へ入った私はその雰囲気の重さに驚いていた。なんだ、このまるで誰かが亡くなったかのような空気は。
テーブルの端には、食事をとっているクラウド様がいた。後ろには執事もいる。もう帰ってくる時間だったかとこそこそと近付く。
クレアと私が入ってきたことにも気付かず、もくもくと食事をとっていたクラウド様に声をかける。
「あの、心配をかけてしまって、ごめんなさい」
その瞬間、クラウド様の首がぐるりと回り、持っていたナイフとフォークを盛大に落としていた。
とてつもなく怖いです。本当にごめんなさい。
泣きそうになる私にクラウド様は、慌てて首を元に戻し、立ち上がってきちんと私と向き合った。
クラウド様は一度私の後ろをみやり、また私を見た。私の後ろにはクレアがいるはず、と考えていると案の定クレアが話始める。
「奥様は中庭の大木の上で寝ていらっしゃいました」
「…………は、寝……?」
食堂の奥から、ぶふぉっと吹き出す音が聞こえた。キッチンの方角だった気がする。もしかして、ヤンだろうか。
目を点にしたクラウド様がさっきから動かない。私の馬鹿っぷりに生命活動をストップさせてしまったようだ。私は人殺しになりたくない!いや、獣人殺しになりたくないから生き返って!
私の願いが通じたのか、クラウド様が目線だけを私に向ける。対極の磁石のように視線をスライドさせる私。だって怖いんです!
「……どうして、出ていかなかったのです……」
「え?」
クラウド様は、おかしなことを聞く。逆に、どうして出ていかなければならないのだろう。
食料も料理出来る程あって、火をくべるほど薪もあって、風呂に浸かれる程水もあって、着回さなくてもいい程着るものがあって、どうして出ていかなければならないのだろう。
それに、私達は。
「夫婦なのですから、一緒にいるのは当たり前でしょう?」
目を見て言った私に、クラウド様は目を細めて柔らかい口調で告げた。
「汗をかくほど我慢しているなら、見なくても大丈夫ですよ」
「ああ!ごめんなさい!どうしても直視するのは私の身体が受け付けなくて……!」
何故こんなにも身体が拒否するのか!今すごく良いこと言ったのに!
手で顔を覆った私に、それでもクラウド様は優しく声をかける。
「気を遣わせてしまいましたね。さあ、お腹が空いたでしょう。ヤンが食事を作っているので、少し待っていて下さい」
「はい!」
クラウド様は食事が残っているにも関わらず席を立った。私は慌ててクラウド様を引き留める。
「どうしたのですか! 一緒に食べましょう」
「いえ、貴女の食事の邪魔になりたくありませんから」
「何を言ってるんですか! 何をするにも慣れが大切なんですよ! 草も食べ続けていれば美味しくなるものです!」
「草……」
「あっ」
口を閉じたがもう遅かった。失礼過ぎる上に、あり得ないこと過ぎて引かれた気がする。だけど、事実なのだからしょうがない。私はそうやって大きくなりました。
先程とは違う意味で冷や汗をかきながら机を見つめる。ふぅ、と大きな溜め息が聞こえた。
う、やっぱり駄目だったか。追い出されるだろうか。
「貴女は、僕をどうしたいのですか」
「へ?」
意味が分からなくて思わずクレアを見ると、クレアは後ろを向いて肩を震わせていた。え、もしかして笑ってる?執事の方を向いても、俯いて肩を震わせている。
更には、ぶふぉっと再び奥から謎の吹き出し音が聞こえた。ねえ、夕飯は?
訳が分からない私をそのままに、クラウド様は話を進める。
「僕は、貴女と生きていきたいと思います。貴女は、それでもいいですか?」
いいもなにも、もう夫婦になったのだから、二人で生きていくしかないだろう。
「ええ。それに言ったじゃないですか。夫婦は一緒にいるものだって」
まだ直視は出来ませんが。
聞かせてはならない心の声を呟きながら、ヤンの出してくれた料理にありつく。料理に夢中になっていた私は、いつの間にかその場が明るいものになっていたことには、とんと気付かないままだった。