我は魔王である。名付けはまだしない
「いやだああああ!!!!!!死にたく、ない…っ!!死にたくないよぉぉぉ!!!!!!」
絶望と恐怖に震えて泣き叫びながらも、満身創痍の少女の手は、異世界人にしか持てぬと言われる聖剣を振ることをやめない。
追い詰められた少女が圧倒的力の差を前にしても往生際が悪く暴れているようにも見えるが、そうでないことに我は気がついていた。
真名に縛られた少女は、意思はどうであれ撤退を許されていないのだ。少女が死ぬまで、少女の体は我に攻撃をやめることはないだろう。
魔法でその手足を拘束することで、ようやく少女の四肢は動きを止めた。
「いやだ…死にたくない…死ぬのは、怖い…怖いよぉ……」
仰向けに転がった少女は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、すがるように我を見てきた。
「…助けて…何でもするから、助けて下さい……」
敵に命ごいをするとは情けない、恥知らずめと、普段ならばそう切り捨てていた。この魔王に愚かにも刃を向けておきながら、死の覚悟もないのかと。
だが、この少女にはとてもそんな言葉は言えなかった。少女の噂を我は知っていたからだ。
異世界から召喚され、騙し討ちのように真名を聞き出され、真名で拘束されて無理矢理「勇者」の立場にかつぎ上げられた少女。
意思は一切考慮されず、ただ人の都合が良いように魔物を討伐させられるだけの、「勇者」という名の奴隷。
――死の覚悟なんて、あるはずがない。
少女はただ、人間に強制され、捨て駒のように我の元に送り付けられただけなのだから。
哀れ、だった。
望まぬ状況を強いられ、死にたくないと恐怖に震える少女が、ただ哀れだった。
けれど、少女の事情はどうであれ、魔を統べる長として、自分に刃を向けた存在になんの罰をくださないわけにもいかない。
それに、こっそり逃がしたところで、少女はまた人間に良いように利用されるだけだ。ならば、いっそ一思いに殺してやった方が良い。
止めをさしてやろうと、手に魔力をくわえると、虚ろな少女の目と視線があった。
その傷ついて、ぼろぼろに壊れてしまった目をみた途端、躊躇いが生まれた。
「……――もし、お前が、人をやめられるなら」
我の言葉に、少女の体がぴくりと跳ねた。絶望に染まった少女の目に、僅かに光が灯る。
「人間の矜持を全て捨てて……我の犬になるというなら、助けてやる。……人間の命令でお前を縛る真名も、消してやると言ったら、従うか?」
「――なります…っ!!」
僅かの躊躇いもなく、少女は即答した。
「なりますっ…なりますっ…貴方の犬になりますっ…どんな命令も従います…矜持も名も、何もかも捨てて、構いません…っ!!」
血を吐くような、少女の魂からの叫びだった。
「だから―だから、私を助けて下さい……っ!!」
その日から、少女は我の飼い犬になった。
「……ご主人様…大好きです……だから、真名を下さい…私を、ご主人様のもの…に……」
「――だから、人語は禁止とそう言っだだろうが」
腕の中で眠りながら、寝言を言う少女に苦笑しながらその頭を撫でる。
だが少女は頭に手をあてた瞬間、くぅんと小さく鳴いて、犬のように頭を刷り寄せてきた。
眠っている時ですら、条件反射のように犬を演じる少女が、いじらしくて、そしてかなしい。
眠る少女の体を、潰れない程度の強さで強くかき抱く。
「自棄を起こすな……お前は、人間なんだ。人間なんだ。――」
呼んだかつての少女の名は、音にならない。
我が真名を消したことで、その名は少女の名としての役割を消失した。
通常に発する分は問題がないが、少女をさして使う場合はその音を消失してしまう。
名前
人の言葉
手足を人のように自由に使うこと
……全て、我が少女から奪ったものだ。
それが少女を生かす為とはいえ、罪悪感に胸が締め付けられる。
そんな状況から、少女を開放してやりたかった。
「……必ず、我がお前を元の世界に帰してやる」
少女の耳元で、誓いの言葉を告げる。
召喚魔法は、一方通行で、返す術は無いと言われている。
だけど、我は魔王だ。我にできないことなんかない。
必ず、元の平和な…少女が人間として正しく生きられる世界に、いつか帰してみせる。
――そう思っていた心が、最近揺らぎはじめた。
「……ご主人、様……」
腕の中で身じろく少女に、思わず体が跳ねた。
起こしてしまったかと小さく息を飲むが、少女は再び穏やかな寝息を吐き出して、ほっと胸を撫でおろす。
安心しきったような穏やかな寝顔を向ける少女の頬に、そっと手を当てる。
近くに感じるこの熱が無いと、落ち着かなくなったのは、いつからか。
全身全霊で好意を向ける姿を、いとおしいと思いはじめたのは、いつからか。
我は、魔王だ。
魔王は、孤高であってしかるべきだとそう思っていた。だから、魔物達が敬意という名の、見えない壁を作って接してくるのは、当然だと思っていた。
それなのに我は、少女を犬として飼い始めてから、自身が堪らなく孤独であったことを知ってしまった。
そしてその孤独な心が、満たされることを知ってしまった。
少女が真名を求める度に、心が揺らぐ。
真名をつければ、我の魔力が少女に流れ込んで少女の魂はこの世界に固定されてしまい、元の世界に戻せなくなる。魂は変質し、少女はおそらく人ならざるものに変わってしまう。
少女の為を思うならば拒絶するべきなのに、請われる度、自身の欲に負けて承諾してしまいそうになる。
……実際、もうなんという名前にするかまで考えてしまっていたりもする。そんなこと口が裂けても誰にも言えはしないが。
「……お前が我に向ける感情は、ただの錯覚なのに、な」
思わず、自嘲の笑みが漏れた。
少女が我に向ける感情は、依存は、死を恐れ辛い現実から逃避する為に作られた、錯覚。
少女の本当の想いではない。
……分かっているのに、その事実がひどく苦い。
ペットと、飼い犬。
異常で、歪な少女との関係。
そこに真実のつながりなんて、あるはずないのに。
「――我が必ず、お前を元の世界に帰る方法を見つけてやるからな」
再び告げた誓いは、少女に告げたというよりも、我自身に言い聞かせたものだった。
必ず、少女が元の世界に帰る術を見つけてみせる。――見つけて、それをきちんと少女に使ってやれるかは、その時にならなければ、わからないけれども。
腕の中の体温を感じながら、我もまた眠りにつくべく瞼を閉じた。
我は、魔王である。
哀れでいとおしい我の犬の、飼い主である。
犬の名付けは、まだしない。
――我がそれに、耐えられるうちは。