絵描きの戦略 2
「きゃー、かわいい男の子にナンパされちゃったー!」
いきなりドアを開け、平田はそう叫んだ。両手を顔に当てせわしなく体を動かす。
「ちょっと一ノ瀬ちゃん聞いて聞いて!」
バシンバシンと一ノ瀬の肩を叩き続ける。
「はいはい、聞いてます」
PCから目を離さず答える。
「自販機の前でドンッってぶつかって。怪我はないかって優しく手を差し伸べてきて。寒いでしょうからってコーヒー選んでもらっちゃったー」
「途中からおかしいですね」
「猫目の瞳で私をずっと見てくるのよ! もうこれって私に興味津々よね!」
「不審がって見てただけだと思いますよ」
一ノ瀬は冷たくあしらう。
「てことでこれ一ノ瀬ちゃんあげる」
平田は缶コーヒーを差し出す。
「選んでもらったんじゃなかったんですか」
「私ブラック飲めないもん!」
「私もそんなに得意じゃないですよ」
一ノ瀬は平田から受け取ったブラックコーヒーをまじまじと見つめる。
「あー、一ノ瀬ちゃん苦手だったかー。それは困ったねー。あ、こんなトコロに私の買ってきた牛乳が!」
ドンッ、と平田はパックの牛乳を机に勢い良く叩きつける。平田は缶コーヒーを開け一ノ瀬の口へ無理矢理近づける。
「苦いかもしれないけど飲み込めよ。入れてやるから」
「んん、苦い……」
「もっとだ」
「でも……」
「ほら」
「ん、んー、はぁはっ、苦い……」
「頑張ったな。これでこれが入るぞ」
「先輩! 飛び散ってます!」
「少しは我慢しろ!」
「ああ、もうダメ! 溢れちゃう! 先輩!」
「こら。動かしちゃダメだ。混ぜないとな」
「あ、出ちゃう。先輩ゆっくり……」
「こうか?」
「そんなに勢い良くしちゃダメです。優しくしてください」
「お、底にあたってるぞ、全体的に白くなってきたな」
一ノ瀬はコホンと咳払いをし、
「平田先輩はすべての牛乳業者とコーヒー業者とストロー業者に謝るべきだと思います」
「なんだよ〜。一ノ瀬ちゃんだってノリノリだったじゃないか」
「先輩がやるから仕方なくです。不毛なやり取りでした」
「私は有意義だよ」
平田は自慢げにむふーっと息を吐く。
「やはりどこかでしかるべきところに相談するべきでしたね。美術部元部長後輩への強制わいせつの実態」
「何その週刊誌の見出し」
「記事にして欲しくなければ卒業記念として美術部の後輩に何かください」
「ああ、そうやって脅されるのね私!」
ぐすんと泣くフリをしつつ上着を脱ぐ。
「体で払うのはなしです」
「えー、私の裸婦デッサンさせてあげるよー」
「ない胸を書いても面白くないです」
「ひどい、外道、少しあるからって調子に乗るなよ!」
平田は一ノ瀬の胸を叩く。
「私は部活動のためにここに来たんです。先輩に会うためではありません」
「ひどい」
「作業してもいいですか。あ、返事は聞きません。先輩はそこら辺で勉強でもしておいてください」
一ノ瀬はPCのディスプレイと向かい合う。
「ふう」
平田は小さく息を吐き近くの机に腰掛け、教科書を開いた。
美術室にはノートに文字を書き込む音とキーボードの音が静かに流れた。
「私ちょっとトイレ行ってきますね」
そう言って席を立った。
「もう〜、一緒に行きたいならそう言いなよ〜」
はあと息を吐き美術部の扉を閉める。
どうしてああなっちゃったんだろうなあの人はと考える。背も高くていつも元気いっぱいニコニコしてる。足も長くて綺麗だし黙ってれば持てるだろうに。ああ、黙ってればが問題なのか、と一ノ瀬はひとりで納得する。
ふと窓から中庭を覗く。ベンチに座るふたりの男子生徒を発見する。ひとりは貝塚。もうひとりは、
「高瀬くん?」
そのふたりの組み合わせは意外に思えた。いつも学校では一匹狼の貝塚と不良をまとめ上げる高瀬。少なくとも貝塚はその集団と一緒にされるのは嫌がるだろう。しかし、遠目からも貝塚が大声で笑ってるのがわかる。貝塚とは一年同じ教室に居たがあのように楽しそうに笑っているのを見るのは初めてだった。興味はそそられるがあまり立ち入るのも悪いだろうと思い視線を逸らす。
平田にはトイレと言って出てきたが実際は適当に体を動かしたかっただけだ。つまりそれだけプログラムに進展がなかった。端的に言えば行き詰まりを感じていた。もっと良いアルゴリズムがあるのでは? もっと短くコードが書けるのでは。そういう思いが強まると一ノ瀬は散歩をすることにしていた。ずっとPCの前にいるより歩きながら考えるほうが、ぽろりといいアイデアが降ってきたりする。そう考え歩を進める。
校内に残っている生徒はほとんどおらず、空き教室で数人が雑談しているだけだった。
適当に散歩を終え美術室へ戻る。結局いいアイデアは浮かばなかった。室内では平田が教科書に向かっていた。真剣な目をした平田の姿を見て三年年生だったことを思い出す。
「おかえり」
平田は小さく口にする。
「ええ」
ただいま、とは口にしない。ここを居場所にしてしまわないために。
一ノ瀬は自身の鞄から教科書を取り出し、平田の前に座る。
「おっ一ノ瀬ちゃんもお勉強?」
「そうですね。英語の書き写しの課題を済ませるだけなので、お勉強ではなく作業です」
単語の書き取りに何の意味があるのだろうと一ノ瀬は考える。使われている場面もわからずにひたすら書き写す単純作業。こんなことするなら長文を読みつつ知らない単語を調べるほうがよっぽど有用で、単語を覚えたいなら例文付きで使われている場面を覚えた方が効果的だ。下手するとこれだけで生徒が勉強したと勘違いするだろう。教師としては生徒が勉強した証明として確認が楽なのだろうけど。
「ははっ確かに作業だね。何も考えずにやると。一ノ瀬ちゃんどうせやるんだったら身になるようにやりなよ。頭の中で音読するとか単語の成り立ち調べるとか」
「だったら自分で参考書買ってやらせてほしいですね」
「まあ、そこまでやる生徒はいないだろうし。それをわかって教師も量を調節してるだろうね」
同意する。
「一ノ瀬ちゃんってさ御膳建てされたのって苦手でしょ。小さい頃とか勝手にルール作って遊ぶ人じゃなかった?」
言われてみればそうだったと一ノ瀬は思う。塗り絵でも同じ領域内に違う色を混ぜたり、できるだけ隣の色と違う色ですべての領域を塗ったりしていた。出来上がるのは元のキャラクターとは全く違うもの。よく母親が不思議がっていたのを思い出す。
「そうですね。多分どこかで反抗してるんだと思います。押し付けられたものに」
自嘲気味に笑う。
「私はいいと思うよ。すごく。だってそれってすごく自分で考えてるってことでしょ」
平田は微笑む。見守るような優しい顔。
「いや、えっと、面と向かってそう言われると反応に困りますね」
平田は依然、柔和な眼差しを向ける。恥ずかしさはあったが不思議と居心地は悪くなかった。