絵描きの戦略 1
放課後。一ノ瀬比奈は特別教室棟の美術準備室にいた。一美術部員としての活動に身を投じるため、美術準備室のPCの電源を入れる。大きな音を立てて起動する筐体の前の椅子に腰掛ける。
「どこまでやってたかな」
PCが立ち上がるまでの時間、携帯で進捗状況を確認する。
「お、一ノ瀬じゃーん」
「あ、お疲れ様です、平田先輩」
美術準備室のドアをさっそうと開き中に入ってきたのは元美術部部長の平田瑠美。三年生は受験のため部活動は引退している。派手な赤のコートが目に痛い。自分には着れないなと一ノ瀬は考える。平田はバッグを適当に机の上に投げ置き、
「今日は一ノ瀬ちゃんひとり?」
「そうですよ。それとも先輩にはあそこにいる人影が見えるんですか?」
一ノ瀬は教室隅の机を指差す。
「ちょ、ちょっとやめてよー。そ、そういうの弱いんだから……」
平田は長い手足を縮こませ怯える。
「冗談です」
「もー」
平田は頬を大きくし不満を表す。表情が豊かな人だなと一ノ瀬は改めて思う。
「それより、ほんと部員増やさないと私卒業したら廃部かもよここ」
残りは幽霊部員ばっかりだし、と平田はさらりと口にする。
「ま、廃部になったらなったで一ノ瀬ちゃんはひとりでも何とかなりそうだけどね」
「そんなことないですよ。私、平田先輩がいないと……」
「へー、本音は?」
「からかう相手がいないと面白くありません。それに、美術部を理由に文化祭サボれません」
「おう、正直でよろしい」
平田は一ノ瀬の頭をグシャグシャとなでる。
「ちょ、やめてくださいよ。平田先輩」
平田の力がさらに強くなる。
「おう、おう、平たいとか言うのはこの頭か、あ? 何が平たいって? 私の胸か? 胸か? 胸なんだなー! 私よりあるからって調子乗るなよ! どうせみんなしぼむんだぞ! みっともない形になるんだ! そう考えれば私は元がないだけ劣化しない!」
「自分で言ってて悲しくないですか」
平田の手の動きが止まる。
「無駄に身長だけ伸びたのが裏目に出ましたね。小さければ需要もあったかもしれませんが」
「別にいいじゃん……小学生の頃は背が高いから将来はセクシーボディーになるねって言われたんだから!」
「どんな自慢ですか」
「とにかく平田先輩じゃなくて瑠美先輩と呼びなさい」
「はーい、平田っい、瑠美先輩」
てへへっと一ノ瀬は平田を見る。
「おい!」
「慣れないことするものじゃないですね平田先輩」
はあ、と平田は深い溜息をつく。
「……この流れはもう飽きたよ」
ふたりが騒いでいる間にPCの起動が終わる。
「あ、この前の続き?」
「と言っても大体家でソース書いて来ましたし、後は微調整やらこれ以上削れないか考えるかぐらいしかないですけど」
「しかしいつ見ても一ノ瀬ちゃんのやってることって私わからないんだよなー」
「何がですか?」
「いや、これだよ」
平田はPCのディスプレイを指さす。整えられた爪に目がいく。
「いや、一ノ瀬ちゃんがやってるのがさ、プログラムってのはわかるんだけど」
三項演算子とかこの前教えてもらったし、と平田は続け、
「なんでこんな呪文みたいな文字の羅列で動くのかなって」
ディスプレイには情報の教科書に乗っているような単語がわかればなんとなく理解できるコードではなく、英語とも取れない英数字の羅列が並んでいる。
「そうですねー」
何と言ったものかと一ノ瀬はしばし頭を動かす。
「先輩って音楽聴きますよね? ヘッドホンから流れる音楽は当然演奏されたものですよね?」
うん、と平田は軽く頷く。
「てことはその曲からは楽譜が作れますよね? これが一般に考えられるプログラムです」
コクコクと平田は頭を上下に動かす。
「その楽譜を見てちょっと量が多いなって思ったとします。よく見ると楽譜の中には同じメロディのところがありました。じゃあそこは省略しましょうってので省略に省略を重ねたのが今私のやってることです。可読性はないですが」
うまく例えられたかなと反応を見る。
「わかりました? 平田先輩」
「う、うん、なんとなくねー」
「まあ、別にいいですよ先輩とはもうすぐお別れですから」
「あ、ひどい! 私はこんなに一ノ瀬ちゃんとの別れを惜しんでるっていうのに!」
平田は大げさに両手を動かす。
「そういえば先輩って美術系の大学進学ですか?」
「いや、普通の公立大学だよ」
「画家になるんじゃなかったんですか?」
「一ノ瀬ちゃんはハッカーになるんじゃなかったの?」
「七十四点です。あっ先輩のバストだー!」
「なに私への嫌味? ねえ! 嫌味!」
平田は自分の胸を隠すように腕を回し体をひねる。
「ちなみに二十点はよく知ってましたねということで」
「そんなに盛ってないよ?」
「ちょっとは盛ってるんですかの?」
「盛る土手がないって言われたの!」
平田に向かって両手を合わせる。
「ご愁傷さまです」
一ノ瀬は両手を解き、
「三年生って今自由登校ですよね? 先輩課外出席してるんですか。先輩って結構成績上位でしたよね。参加するだけ先輩の時間のムダじゃないですか?」
「課外? 出てないよ」
「じゃあなんで学校にいるんですか」
平田は大きく手を広げ、トロけた表情を作る。
「そりゃー、一ノ瀬ちゃんに会いたかったからだよ! さあ! 私を癒せ‼ 受験勉強に疲れた私を癒せ! いやらいい意味で‼」
「十字架の真似ですか?」
「あー! また、いじめた! 首からアクセサリー垂らしても垂直だねとか言った‼ もういい! 私が受験落ちたら一ノ瀬ちゃんのせいだからね! 来年から一ノ瀬ちゃんの登校時間に合わせて予備校に通うよ。電車に乗る時は気をつけろよ! 視姦! 痴漢! 示談!」
「駅員さんに突き出しますから」
「私の人生……責任とってね」
相手はしない。
「あー! 今度は無視ですか! 無視ですね! 無視なの? ねえ? 私帰っちゃうよー」
いくら潤んだ瞳で見つめても相手はしない。
「わ・た・し、帰るよー」
反応したら負けだ。
「ちょっと! ちゃんと引き止めてよね! 私受験生だよ!」
「受験生は免罪符じゃないです。というか受験生ならなおさら帰ってもらいます」
「あー! 私受験生じゃないよ! 全然受験生じゃないよ! ただの元美術部員です!」
平田は両手を胸の前で騒がしくさせる。
「ではただの元美術部員さん、あなたはなぜ絵を描いているのですか?」
「うーん、難しい質問だねー」
無い胸の前で腕を組む。
「先輩は風景画を描きますよね? どうして写真じゃなくて絵なんですか?」
「それは簡単だよ。私と一ノ瀬は同じものを見てても、見え方は違うからだよ。だから私は『私には世界はこう見えてる!』ってのを絵にするんだよ」
「それだとその絵の見え方も違いませんか?」
「そりゃそうだろうね。でも、強調はできる。てか完全に相手に自分の思ってることを誤解なく伝えるなんて無理じゃん? それができたら今ごろ私と一ノ瀬ちゃんはにゃんにゃんの関係になってるだろうし」
白い目線を投げる。ウインクが返ってきた。
「ま、それはどっかで仕入れたかっこいい理由なんだろうけどね。ちなみに一ノ瀬はなんでプログラミングやってんの?」
「うーん、最初はPCに命令できるってのが楽しくて、いつの間にかできるだけ効率よく動かすにはどうしたら良いか考えるのが好きになって……」
「理由なんてそんなもんだよ。なんとなくやってて、自分のためか誰かのためか、いつの間にかかっこいい理由をつけちゃうんだよ」
「そんなもんですかね……」
「そんなもんだよ。一ノ瀬も適当にかっこよくてわかりやすい理由見つけておくと楽だよ」
さっきまではしゃいでいた笑顔はそこにはなく、穏やかな顔をした平田がいた。えらく落ち着いてますね年ですか、と一ノ瀬は口にしたくなったが黙った。
平田は自分のバッグを覗きこみ、
「あ、飲み物忘れた。なんか買ってくるけど一ノ瀬もいる?」
「じゃお願いします」
了解了解、と平田は財布片手に頷く。
「私のセンスを舐めるなよ! この一本で一ノ瀬をホの字にさせてやっから!」
「言葉が古いですよ」
その言葉は届くことなく扉が締まった。
***
ダミーのサーバーへの侵入が終わり高瀬はひとり食堂前のベンチに座る。片手には黄色いパッケージのジュース。これで本当に騙しきれたか不安に思うがやり切るしかないと考える。飲み干したパッケージを捨て食堂前を後にする。
「きゃっ」
「あ、すみません」
ぼうっとしていたため自販機の角で高瀬は女子生徒と軽くぶつかる。真っ赤なコートが目を引く。
「すみません。不注意でした」
女子生徒を改めて見ると背が高い。平均的な男子生徒ぐらいの身長はあるだろう。財布だけを持っていることから、どこかで試験勉強でもしていたのだろうかと推測する。
「ああ、いいよいいよ。私も不注意だった。ごめんね」
女子生徒は両手を合わせショートカットの髪を揺らす。
「あ、ちょっといい?」
彼女は高瀬に向かって来い来いと手を動かす。
「は、はあ」
突然のことに腑抜けた声が出る。とぼとぼと近寄る。
「キミが彼女に飲み物買ってきてあげるとしたら何買う?」
「えっ」
「だからキミが彼女に飲み物買ってきてって言われたら何買う?」
高瀬は一瞬硬直するが、
「えっえーそうですね……」
「あちなみにこの中からね」
女子生徒は自販機を指さす。
「そうですね……これですかね」
ブラックの缶コーヒーを指さす。
「ほんとに?」
女子生徒は高瀬に疑いの目を向ける。
「は、はい」
「ふうん」
そう言って高瀬の目を覗きこむ。自販機にお金を入れ、高瀬が選んだ缶コーヒーとパックの牛乳を取り出す。
「助言ありがとね、目つきの悪い後輩くん」
女子生徒はそう言うとその場を去っていく。
「何だったんだ今の……」
ぼーっと女子生徒の去っていった方向を見つめる。気さくな人だったなと思う。教室にあんな女子がいたら自分の立ち位置ももう少しマシになっていたかな、と高瀬は考える。