妹想いの戦略 1
帰宅した瑞穂は兄の部屋を訪ねた。
「兄さん」
細い声と共に部屋のドアが叩かれる。返事を待つことなく声の主はガチャリとドアを開ける。
「兄さん、お願いがあるのですが」
「なんだ?」
「高校の時のテストって残ってないですか? 勉強の参考になればと思って」
兄である志渡寺真琴は手にしていたペンを落とした。カラカラと音を立てペンが転がる。
「おい今何つった?」
へ? と志渡寺瑞穂は小首を傾げ、
「兄さん高校の時のテスト残ってないですか?」
「いや、その後だ!」
「兄さんまだ彼女できないんですか?」
「いやいや、瑞穂そんなこと言ってないだろ! 勉強がどうとかって言ってなかったか」
「はい、兄さんの高校時代のテストが残っていませんか、と言いました」
驚愕した表情で真琴は瑞穂を見つめる。
「勉強ってのはあれだよな、あの、算数とか生活とか……」
「そうです。正確には数学とか社会とかですね」
「テストってあれだよな。丸腰状態で四角い部屋に放り込まれて問題に取り組む……」
「そうです。正確には、教科書・参考書を見ずに教室で教師から出された問題を埋めます」
「つまるところ瑞穂が勉強したいってことか?」
真琴は恐る恐る口に出した。
「はい。そういうことですね」
「あー! かーさん! かーさん! 今夜は赤飯だ! 赤飯だよ! はあー、瑞穂の口からまさか勉強という言葉が出てくる日があろうとは! くゎー!」
「兄さんそこまで大げさな反応しなくても。あと夕飯はもう食べました」
「いや、これが喜ばずにいられるか! 高校受験の時もほとんど勉強せずに受けに行った瑞穂を僕がどれだけ心配したことか! やー、やはり高校に入ると変わるものなんだな」
真琴は満面の笑みで何度も頷く。
「そうかそうか、変わるのはいいことだ。下手に停滞するよりおもいっきり変わったほうがいい。でも変わってしまったということは何かが……はっ、もしかして、あ、あれか、か、かれ、彼氏が、が、できたとか……」
「いや残念ながらそこは兄さんと同じ遺伝子を受け継いでるようです」
「そっかー。安心だー。僕も一生彼女なんてできないから、瑞穂も安心だな!」
「いや、そこは危機感を持ってください」
真琴はふうと一息つき、
「それで、なんだっけ? 高校時代のテスト?」
「はい、兄さんが受けた試験問題を参考にしたいです。一年の学期末試験問題ってありますか?」
散らかった部屋を見渡す。ペットボトル、ダンボール、空き缶、コンビニ袋、週刊誌。床を探すほうが大変だった。
「もちろんあるに決まってる! いや、なくても作るまである!」
「いえ、それでは困るのですが」
「大丈夫だ! 朝までにはちゃんと見つけといてやる! 僕を誰だと思ってる!」
「兄さんですが」
瑞穂はさらりと答える。
「そこは私の兄さんって言ってよ! わ・た・し・の! って所有権を主張していこ!」
「いえ、私の持ち物ではないので」
「僕は瑞穂の持ち物だよ! いつでもリード付けてくれて良いんだよ! それが僕と瑞穂の関係じゃないか」
「いえ、ただの兄妹です」
はあと瑞穂は溜め息をつく。
「えっと、朝って何時ぐらいに家を出てるんだっけ?」
「朝ですか。だいたい七時ぐらいですね」
自分も高校時代はそのぐらいの時間に学校に行ってたな、と真琴は思い出す。
「ああ、そういえばあの学校、朝も課外があるんだったね」
「そうです。七時三〇分から課外開始です」
「よし! 了解した! その時間までにはなんとかしてやろう!」
「いえ、そんなに急がなくても良いのですが」
「いいや、せっかく瑞穂がやる気になってんだ。早いほうがいいだろう。それに今夜はちょうど暇だったんだよ、友達にドタキャンされちゃったから!」
真琴は、ははっと笑う。
「兄さん胸を張ってそういうこと言うのやめてください。でも、ありがとうございます。それではまた明日の朝に、おやすみなさい」
「違うぞ瑞穂! 次に会うのは瑞穂の夢の中だ!」
その言葉が届く前にドアは閉められた。
「もー、つれない妹だなー」
真琴の口から本音が漏れる。
「さて、高校の時の教科書とかってどこにやったけな」
ペットボトルやダンボールの箱が散乱する部屋を見渡し、
「やべぇ、まじで朝までコースかも」
真琴は重い腰を上げる。
予想に反して高校時代の試験問題を見つけるのはそれほど難しくはなかった。高校時代の教科書を集めたダンボールを見つけ出した後、その中から逐一ファイルを取り出し該当の問題を抜き出す。単純作業。ただ時間がかかっただけだ。瑞穂が部屋を出てから既に二時間が経過している。
真琴は机の上の砂糖のたくさん入ったコーヒーカップを傾けながらつぶやく。
「今日は情報工学のレポート終わらせたかったんだけど……ま、いいか」
机の上のテキストを閉じ端へと追いやる。代わりに並べたのは高校時代の試験問題。ある種の懐かしさを感じる。問題用紙と解答用紙が別でザラ紙ではなく上質紙が使われている辺りに私立校らしさが感じられる。広げられた問題を見てふと疑問に思う。
「これ瑞穂解けるのか?」
見つめる問題は高校一年の最後のテスト。範囲はそれほど変わらないだろうが、これまでほとんど勉強してこなかった瑞穂に解くことができるのだろうか。瑞穂のこれまでの成績を聞いたことはないが家で勉強しているような素振りを見たことがない。
「ふぅ、これはちょっとお兄ちゃん頑張っちゃおうかなー」
そう口にしつつ数式表示のソフトウェアを立ち上げる。幸いにして問題用紙に手書きの出題はなかった。流石に全く同じフォントでというわけにはいかないだろうが、ある程度整形してやれば疑われることはないだろう。あとはコピーして瑞穂に渡してやればいい。現役大学生、現役塾講師として全力を注ぎ込む。すべての問題を順番に解いていけば理解できる様に書き換えていく。問題は多過ぎず少な過ぎず。できるだけ試験範囲内で解決させる。
真琴の夜が終わるにはしばらく時間が必要だった。
試験の範囲を調べ内容を把握し、これから勉強しても実力が付くように問題を考える。バイトで瑞穂と同じ学年の生徒を受け持っているのが役に立った。しかし結局全教科出来上がったのは朝方になってしまった。瑞穂が家を出る前にコピーを済ませようと、適当にジャケットを羽織り慌てて近くのコンビニへと駆け込む。こういう時、家にプリンターがないのが悔やまれる。道中通学中の戸真崎の生徒らしき集団を見かけさらに焦る。
コンビニのコピー機のパネルを操作しながら、眠気覚ましにコーヒーでも買って帰るかと考える。
「あれ、志渡寺先輩ですか?」
先輩と呼ばれるのは久しぶりだなだとと思いつつ振り返る。そこにいたのは高校時代の後輩。平田瑠美。
「よう、久しぶりだな、平たいの」
「ちょっと! いきなりそれはひどくないですか!」
真っ赤なPコートからパーカーのフードが覗く。今からレジを通すのだろうパンを胸に抱えていた。
「いや、流石にスイートブールはでかすぎると思うぞ。ピザパンぐらいにしとけ、な?」
「も、もう! そんなんじゃないです! 朝ごはんです! 朝ごはん!」
「あー、レジ行くんならコーヒーも一緒に買ってきて。金は後で出すから」
「嫌ですよ。自分で行けばいいじゃないですか」
ガシガシを音を立てるコピー機を指さす。
「今こいつが模写してんだ」
「なにコピーしてるんですか」
コピーの済んだ紙を一枚渡す。我ながらいい出来だ。本物と言っても差し支えないだろう。妹の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
「試験の問題ですか?」
「そうなんだ。やー、昨日妹に頼られちゃってさー。昔の試験問題持ってないかってさ」
「妹さんって一年生でしたっけ?」
「ああ、見かけたら可愛がってやってくれ。まあ、言わなくても可愛いからわかるな」
うんうんと真琴は頷く。
「ちょっと気になるんですけど、なんでこれ実施日が今年なんですか?」
「は?」
慌てて確認する。確かに実施日が今年になっていた。
「頼まれたのって昔の試験じゃないんですか?」
「あーっ! やべーよ流れでついそう書いちまった!」
乱雑な手つきで他の試験問題も確認する。しかし、すべて表記は今年の数字。
「今からやり直す時間あるか……いやもう無理だ瑞穂が学校に行ってしまう……」
あわわわと唇が震える。
「まあ、いいんじゃないですか。妹さんが試験問題欲しがったのって多分参考になる問題が欲しかったからじゃないですか? 問題自体におかしなところはなさそうですし」
「そ、そうだよな。問題ない問題ない」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「じゃ、私レジ行きますけどコーヒーいつものでいいんですか?」
「おう、覚えてくれてるなら嬉しい」
「そうですか」
平田はレジ横のホット飲料コーナーから一本の缶コーヒーを取り出し会計を済ませる。
「はい、先輩」
レジ袋の中から缶コーヒーを取り出そうとする。
「いやいや、店内で出すなよ」
コピー機が吐き出した紙をまとめ、
「こっちも終わったからとりあえす出るか」
ふたりはマニュアル通りの店員の声を後にする。
「相変わらず妹さんにぞっこんですね」
「なんとでも言え、平たいの」
「大学に行けば彼女でも作って治るかと思いましたが全然ですね」
「彼女が自然にできると思うなよ! 周りの友達はいつの間にか作ってたがな」
はははと笑いつつ真琴はコーヒーの金額を渡す。
「先輩も変わってないですね」
ふふっと平田は笑みを漏らす。
「そう簡単に変わるか」
「そうですね」
「肯定したな! これでお前の平らな部分も大きくなる可能性はもうない!」
「か、可能性はあるもん! 二〇歳までは成長するって雑誌に書いてたもん!」
「そうか、あんまりでかくならないように注意しろよ。背が」
ぷいっと平田は体を反転させる。
「もう私学校行きますね!」
「ん? お前学校行ってるのか?」
「えっと、先輩? 大丈夫ですか? 私と先輩は学校で知り合ったんですよ?」
平田は首だけこちらに振り向く。
「いや、お前結構頭良かっただろ? もしかして戸真崎、受験前自由登校期間なくなった?」
「はははー、いやだなーもう。成績なんてすぐ下がるんですよー」
「ふーん、お前が下がるとは予想外だな。まあいいや、どこ受けるかは知らないが、頑張れ」
「どうもです。じゃ私は学校行くんで」
平田は軽く手を上げる。
「おい! コーヒー!」
「あー、忘れてましたー」
わざとらしい返答とともに缶コーヒーが飛んできた。
「いつものってこれかよ……」
手にはブラックと書かれた缶。
「やっぱ覚えてないよなー。微糖派なんだけど……」
辺りに戸真崎の生徒が増えたのを見て、真琴は瑞穂が待つ家へ急いだ。
「おはよう、瑞穂」
「おはようございます。朝帰りですか兄さん?」
太いボーダーのワンピースに黒のストッキングを穿いた妹に問い詰められる。
「お兄ちゃんがそんなことすると思うか?」
「すみません」
「謝るな。惨めじゃないか」
「すみません」
ま、いいやと真琴は軽く流す。
「ほい、これ。試験問題探しておいたぞ」
「おー、兄さんありがとうです」
瑞穂は受け取りテーブルの横に置いたカバンにしまう。
「ついでにこれもやる」
そう言って真琴は缶コーヒーを渡す。
「どうして外から返ってきた兄さんが試験問題を持ってるんです?」
「それは、えっとー」
問題を書き換えてコピーしたとは言えない。咄嗟に言い訳を考える。
「あ、あれだ。探しても探しても数学と英語の問題用紙がなくてさ、ちょっと友達に聞いたら持ってる奴いたからそいつの家まで行ってたんだよ」
「そうですか。ご足労おかけしました。でも、そこまでしなくても良かったのに」
「せっかく瑞穂がやる気になったんだから」
「いいです。それは昨日も聞きました」
真琴の言葉を遮る。
「兄さんには感謝してます。そのご友人にもお伝え下さい」
「お、おう」
「ごちそうさまです」
瑞穂は朝食の皿を台所に下げる。袖をまくりスポンジを手に取る。
「あ、俺洗っとくからそこ置いといてよ」
「ん、でも……」
「学校遅れるぞ」
瑞穂はチラリと時計を目にする。
「お願いします」
「いいって、いいって、どうせ俺も自分の洗うんだから皿の一枚や二枚どうってことないよ」
「ありがとうです」
黒のコートを羽織り、カバンを肩にかけ瑞穂は玄関の扉を開ける。
「行ってきます」
「おう、行ってらっしゃい」
瑞穂に手を振る。扉がバタリと閉まる。
「さて、朝飯と」
食パンを取り出しトースターに突っ込む。
「皿準備するのも面倒だしこれでいっか」
エコエコと言いつつ真琴は瑞穂の使った皿にサラダを乗せた。