絵描きの戦略 4
ふたりを乗せたバスはこの地域で一番大きな川を超え大学前へとたどり着く。休日とはいえ大学前で降りる学生は多かった。ふたりもそれに続きバスを降りる。高瀬は一ノ瀬へ疑問を投げる。
「なあ、ちゃんとお金払ったか? 俺には紙入れただけに見えたけど……」
「ああ、それちゃんとしたチケットだから。ここに通う大学生が正規料金の半額で乗れるチケット。大学の中で売ってるの。買うには大学の学生証がいるけどね」
「なんでそんなの持ってんだよ?」
「ここの生徒から買ったの」
ニッコリと笑顔を浮かべ一ノ瀬は答える。
「てか教えてくれたらいいだろ!」
ギロリと睨む。
「聞かれてないわ」
「いや、かなり近くまで踏み込んだだろ!」
そう言うと一ノ瀬は財布から一枚のチケットを取り出す。
「ほら、これやるから忘れなさい」
「なんだろうこの敗北感……」
しぶしぶ一の瀬の手から一枚受け取る。
「お前っていい性格してるな」
「ええ、よく言われるわ」
ふたりは他の学生に付いて行き正門を通る。大きな建物が目に入った。ガラス張りの角の部屋が目を引く。あれ下から見えるんじゃないかと、高瀬は不純な感想を抱く。
「大学なんて、初めて入った」
キョロキョロと辺りを一望する。
「なあ、どこで勉強するんだ? 図書館か?」
「そんなに図書館好きなの? 大人しくて可愛い三つ編みの図書委員なんて幻想よ」
「いやそうじゃねえけど」
えらく細かい描写の存在を否定された。
「図書館だと喋れないよ。それに高校生なら大学の学生証がないから一日入館書を貰わないと駄目だだね」
「へー、そうなんだ。じゃあどこでやるんだ?」
「食堂よ」
ふたりは校内の食堂へと向かう。デパートのフードコートを彷彿とさせる。
「休みの日なのに食堂開いてるんだな」
「近くには寮住みの人とかもいるからね」
休日ということもあり食堂の中はまばらだった。
「こっちの建物は人が少ないけど、受験の試験会場になる建物だったらもう少し人がいると思うよ」
もうすぐ受験だし、と一ノ瀬は付け加える。
「それを見物に行く大学生も見られるわ」
「それはノーサンキューだ」
ふたりは適当な場所に荷物を下ろす。
「じゃ私水もらってくるから」
「あ、おう」
一ノ瀬は食堂端に設置された機械を操作しコップに水を入れる。
椅子に座りそわそわする高瀬。
「はい」
「ありがと」
一ノ瀬からコップを受け取る。
「熱いからね」
一ノ瀬の言葉を聞き終える前に高瀬は口をつける。
「あっつっー!」
「注意はしたよー」
一ノ瀬は自分のコップに口をつける。
「で、なんで一ノ瀬さんは平気そうな顔で飲んでるんだ!」
「ん、調整してきたから。熱いのと冷たいの出るから。喉乾いてたし」
「なんで俺のにその配慮がない?」
「栫井ちゃんから熱い漢だって聞いてたからね。いいじゃない冷めれば飲めるんだから」
「栫井の言葉は忘れろ……自分でお茶持ってきてたからいいけどさー」
鞄からペットボトルを取り出しつつぼそぼそと不満を口にする。
「でもなんで大学で勉強するんだ? うちの高校近くのファミレスとかでも良かったんじゃないか? 電車代もかからないだろ」
「他の生徒に見られたくないからよ。それとも高瀬くんは同級生に見られて熱愛報道でもとられる方が良かったかな?」
「ああ、それは一ノ瀬に悪いな」
「あら、自分の心配はしないの?」
「そういう噂話はどうでもいいよ」
今の立ち位置の比べれば、と高瀬は小さくつぶやく。
「それに一ノ瀬に迷惑がかかるのは悪いだろ」
「意外と優しいのね」
でも、と一ノ瀬は付け加える。
「馬鹿な人間ほど他人の噂話で盛り上がるの。それが仲良くなるのに一番早いのよ。ほら高校に入学した時も新入生指導とか言って先生たちワザと厳しくして、敵役やってたでしょ」
高瀬は入学直後の新入生指導と称した校歌や応援歌の指導を思い返す。指導は体育教官及び上級生によって行われ声が小さければ叱られ、歌詞を覚えてなければ叱られ、姿勢が悪ければ叱られた。生徒同士でも指導に対して不満を口にする声は多かった。入学直後の話題がないクラス内ではそれはいいネタとなっていた。ある意味クラスの潤滑油となったイベント。高瀬にとっては今の自分の立ち位置の原因となったイベント。
「共通の敵で仲間ごっこか? でもあれはダメだろ教師自らでかい声出して脅さないと生徒を管理出来ませんって言ってるようなもんだし」
「ま、高瀬くんはそこで一番に声を上げてそのカリスマ性を発揮したんだけどね」
一ノ瀬がいたずらっぽく口にする。
「やめてくれ」
高瀬は苦い笑いを浮かべる。
「そういえばあの時別室に連れて行かれたけど何かされたの? 殴られたって噂もあったけど」
「何もしてないよ。ちょっと質問攻めにしすぎて女の子泣かせちゃっただけだ」
「この女泣かせ」
非難の目で見られる。
「やめろ! こんなところでそんな称号欲しくない!」
「え、取っておいても使うところないんでしょ?」
「使わずに済むといいな」
流れるように言葉が出た。
「なにそれ、ちょっと引くわ。俺知らぬ間に女の子傷つけちゃうからってやつ?」
「そうは言ってねえよ!」
あらぬ誤解を受けた。傷つける? むしろ傷つけられる側だし今日もお前に傷つけられた、と高瀬は思う。
「困るわね。モテる男は」
「……ごめんなさいやめてください」
高瀬は再び熱いコップに口をつける。熱は少しやわらかくなっていた。
しばらく雑談した後、勉強を開始する。正面に座る一ノ瀬は鞄からPCを取り出し立ち上げる。高瀬はしばらく教科書に向かうが、いかんせん普段勉強してないためその進みは遅い。
「なあ、一ノ瀬ここ教えてくれ」
「どこ?」
「これ」
高瀬は教科書の数式を指さす。sin、cosがお互いの関係性を示している。
「ただの式変形じゃない」
「いや、ふと三角関数ってなんだっけなーと思って」
「そういうもんと思ってた方が楽よ」
一ノ瀬はもう終わったとばかりにPCへと向かう。
「え? 勉強教えてくれるんじゃなかったのか!」
「そういう定義とか気にしだしたらどこまでもいくからね。そっち側の質問についてはパスさせてもらうよ」
そう呟きながら一ノ瀬は前髪を分ける。隠れていた額があらわになる。
「そっち側ってどこだ?」
「んー、あえて言うなら下かな」
ぽかんとした顔をする高瀬。
「私が勉強について考える時は上下で考えてるの。別にこれは良いから上で悪いから下って意味じゃないわよ。階層みたいなのがわかりやすいかな。定義や定理、公理なんかの数学としての有り様を決めてるのが下側。数値計算や試験問題を解くための公式なんかが上側。さっきので言えば三角関数の定理は下側。上側は深い仕組みをやどうしてそうなるかが分からなくてもなんとかなるけど、下側の問題は考えだすとキリがないの。というか高校の範囲じゃ解決しないわ」
「じゃあ上側は必要ないってことか?」
「そういう訳じゃないよ。高瀬くん微分は知らないけど物理の授業受けてるでしょ?」
「うん」
「それが上側の考え方よ。物体の運動なんてちゃんと記述しようと思うと微分を使うものなの。でもそれだと時間が掛かるから微分も積分も使わないで教えてる。数学も同じ。三角関数ってなんだ? って高瀬くんの質問に答えるにはかなり考える必要がある。でも解き方さえわかってれば原理を理解しなくても問題を解くことはできる。でもって問題を解いていけばどんな時に三角関数を使うかがわかる。なんとなくのイメージを掴んでから下側にあたったほうが理解しやすいと思う」
少なくとも私はと一ノ瀬は付け加える。
「変な喩えだけど、車に乗るのにエンジンの仕組みを知る必要はない、運転の仕方だけわかればいいってことか?」
「まあそんなものね。抽象と具体って言った方がわかりやすかったかも。今更だけど」
ふふっと一ノ瀬は小さく笑う。
「それってさ極論基礎はいらないってこと?」
「いらないとは言ってないけど、わからないなら飛ばして後で戻ってこいって感じ。どうせ高校の教科書なんてかなり端折ってるし」
「へー」
高瀬は納得したような表情を作る。
「じゃあ、三角関数が何かってのは今度調べるよ。教科書以外で」
「ああ、そうた方がいいね。高瀬くんの好きな図書館にでも行くといいわ」
そこまで好きな訳じゃないと頭で軽く否定する。
「それでさ」
「なんだ?」
「さっきから気になってたんだけど……一ノ瀬は何書いてるんだ?」
高瀬は一ノ瀬の前に置かれた薄いノートPCに目を留める。裏蓋には以前栫井が書いていた謎のキャラクターのシールが張ってあった。相変わらず笑顔でこちらを見ている。
「ただの文章だよ」
「どんなのだ?」
「むかしむかしあるところに」
「昔話? なぜに?」
「あら、昔話って意外と奥が深いのよ」
ふふっと一ノ瀬はPCから顔を上げる。
「高瀬くん『たにし長者』って知ってる?」
首を振る。聞いたこともなかった。
「さて問題。どうやって長者になったでしょう?」
たにし長者。名前からして、たにしを使って金を稼いだのだろうと高瀬は当たりを付ける。
「うーん、ジャンボタニシのうまい処理法を見つけたとか? 動物園に餌として持って行くとか?」
「えらい現代チックな話ね。残念。正解は過程は記述されてないけど、最後の一行で『たにしは長者になりました』で終わるの」
「なんだそれ。全然説明してないじゃないか!」
「仕方がないじゃない。そういう昔話なんだから」
一ノ瀬は小さく笑う。その態度から茶化されたのだと高瀬は判断する。然るにそれ以上の詮索はしない。
「なあ、一ノ瀬ってここにはよく来るのか?」
「たまによ。家じゃ作業できない時とかそんな時」
「こういうところ来たほうが勉強する気になるってのはなんとなくわかる気がする」
しみじみと辺りを眺める。実際ここに進学する予定はないが大学生に囲まれていればそれは刺激となる。
「高瀬くんは初めてだからやる気が出てるのかも知れないけど、何度も来てると何も感じなくなるわよ。私が来てるのは単に作業する場として適してるから。知り合いがいない。閉まる時間が決まってる。電源が使える。水が飲める。お腹が減ればご飯が食べられる。やる気出すために来ようと思ってるなら考え直したほうがいいよ」
人間ってすぐ慣れるから、一ノ瀬はそう口にした。
「じゃあ一ノ瀬のやる気はどこから来てるんだ?」
「そうね、少なくとも勉強に関しては、『ない』と言うのが正しいかな」
「ない?」
想定外の答えが返ってきてしまい。復唱する。
「そう。ない。学校の授業中勉強するのはそれ以外の選択肢がないから。まあ、まともな大学に行きたいからってのは少しはあるんだと思うけどね」
「それで成績いいってすごいよな」
「すごくはないよ。やり方が上手いだけ」
一ノ瀬は続ける。
「学校の授業が役に立たないとわかってから自分で勉強の段階を分けたの。一年が終わるまでにはここまでやるとかここはやらないとか。できるだけ細かく。あとはそれを作業的にこなすだけね。一週間毎にノルマがあってそれを終わらせていく。強いて言えばそこかな。計画通りに進むとすごく気分がいいの。達成感? ちょっとしたミニゲームみたいな」
「機械的にか……」
これまで考えたこともない勉強の取り組み方に高瀬は感心する。それと同時に自分にはできそうにないと思う。
「あ、でもこれまでの勉強したことは不必要とは思ってないからね。少なくとも学び方は学んだから」
そう言って一ノ瀬はPCへと視線を戻す。高瀬も教科書へと視線を戻した。解くべき問題は山のように存在する。




