Introduction ~リンツの乾いた日々~
この物語はあくまでフィクションです。
実際に存在する国や人々とは関係ないと思ってください。
商品名がキャラクターの名前になっていることもありますが気にしないでください。
目覚ましの三つめのパターンでさっきまで声をひそめていた「たぶん恋人」の顔が薄れた。
今回もできなかった。結構順調に進んでいたので期待していたのだけれど。
リンツ・ジョルジェビッチは半無意識的にベッドの棚の上へ重たい腕を運び、薄銀の時計の裏部を探る。探るのだが、スライド式のスイッチはなかなか隠れ上手で鈍いリンツの人差し指はそれに到達しない。そしてようやく騒音を切るとリンツは腹から安堵の息を漏らす。気が抜けて二度寝の段階に入ると次に目覚めるのは、家を出る十分前。
昨晩は宿題をやり残して寝た。
起きたばかりでバターをつけただけの食パンなどとても飲み込めない。遅刻間際の朝。いつもの夢に似て乾いた、皮肉な朝。
リンツは朝なんて大嫌いなのだ。
十五分遅れて徐行してきた緑色のバスに乗って空いている角の車椅子スペースに、たくさんの人体の隙間をすり抜けて潜り込む。オレンジ色に変色したゴム製の壁に背中で体重をかけて容赦のない車体の動力に逆らう。
先生に報告するための今朝の遅刻理由を考える。
学校の本鈴が鳴る二分前にバスは校門付近に着く。校舎までおよそ500メートル。リンツは荷物も体も重くてとても走る気にはなれない。
ため息交じりに学校に間に合うことをあきらめる。
一時間目の途中で教室に入るのが大儀で二時間目が始まるまでトイレで時間をつぶしたことも、宿題をやっていなかったのを家に忘れたことにして先生に許してもらったりしたことも何度もあった。
しかしリンツは学校が好きなのだ。
「スキ」と「デキル」は違う、たったそれだけのことなのである。
他と歩く速度が違う、
問題を解く速度が違う、
誰かがさした指の先の、見るところが違う。
ある日、リンツは自らには日常の速度表示を読む能力が備わっていないことに気付いた。
それがわかれば話は早いと思っていた。リンツは正確な時計を持っている同級生に合わせようと必死で努めた。彼らが笑えばリンツも笑い、意味が分からないことに対しては相槌を打っておいて帰宅してから調べた。授業の予習も欠かさずやっていた頃があった。
その時リンツはもうリンツでもだれでもなくてそこにあるだけの鏡だった。
鏡として生きるよりかはリンツでいた方がいいような気がしたからリンツは足掻くのを止めることにしたのだ。直そうとしただけ良いだろうとリンツは思いたい。
いつかの文学の授業でミチッチ先生はある詩を取り上げた。
題名のない詩だった。
先生は、その詩は殺人鬼の心理を描いたものなのだとつらつらと語っていたけれど。
- その思考回路は途絶えて
この手によって
その目はこの姿を写すだけ 濁ったガラスのよう
微笑みをかえして
ここまで来させてくれた
あなたの小さな間違いなのに
逃げようとしていた
最後の罪をどうか赦してほしい -
...目を閉じるとそこには空っぽな表情の「あなた」がいる。椅子に力なく垂れている。
少し濁って冷たくなった「ガラス玉」はこちらの動揺と手の震えを映している。
詩の中の主人公は「あなた」を殺したわけではない。「あなた」はそれまでの主人公の「あなた」に対する行為を快く受け入れていた。なのに突然冷淡な態度をとり焦らす。
主人公はおそらく最後に「あなた」と一夜を過ごしてから全てを諦めたかった。
たとえその一夜を相手は望んでいなかったとしても...。
そんな最後の夜の様子をあの詩は表しているのだろう。そうじゃないのか。
そんな事をリンツはたまに思い出しては考えていた。
何せ、リンツだけではなく今日のこの世界はとても乾いた人間で、コトバで溢れている。
もうすぐ第四次世界大戦がはじまろうとしているこの時代に一般人にとってもはや希望はない。
そして、そんなことをリンツも、正しい時計をもった彼の同級生も、ミチッチ先生も、誰も知らない。
これは2078年現在の世界の話である。




