(11)
「好きなもの頼んでいいからね」
店につくなり、メニューを聖花に向けて言う母親。無理して明るく振る舞っていることは聖花にもひしひしと伝わってきていた。
好きなものと言われても食の習慣がない聖花は、メニューを見ながら悩みに悩む。
「ここね、ケーキが美味しいの」
そう言いながら母親がメニューを指し、
「じゃあ、この苺のショートケーキにします」
促されるまま、聖花はそのケーキにすることにした。
どうやら母親も同じものにするらしく、飲み物をどうするか再度問われ、それもまた促されるままおすすめに乗っかることにした。
「ここね、昔よく家族で来てて。小夜千はここのケーキが大好きなのよ」
嬉しそうに言いながらメニューを隅に片付ける。
「小夜千が退院したら小夜千も一緒にまた来ましょう」
ケーキがまだ届いてもいないのに気が早いかもしれないが、小夜千が好きな場所ならまた来たい、そう思ったのである。
「…………」
母親は答えず、薄い笑みを浮かべた。
「おばさん?」
その異変にはさすがに反応せざるを得ない。聖花が呼びかけると、
「迷ったんだけどね……聖花ちゃんに伝えなきゃいけないことがあるの」
急に真摯な顔つきになり、執拗におしぼりを触り出す。
「なんですか?」
察することの出来ない聖花は、催促するかのように即答する。
「…………」
母親はおしぼりをぎゅっと握り締め、俯いたまま次の言葉を口にしようとしない。
それを見た聖花は首を傾げ、
「あの、なんですか?」
少し苛立ったような感じで強く問い返した。小夜千に関わることだろうし、ならば早く聞きたいのが聖花の本音なのだ。
母親はぐっと瞳を閉じ、顔をあげ、正面に座っている小さな聖花を見据えた。
「小夜千はもう長く生きられないの」
オブラートに包む余裕なんてなく、子供にわかりやすく説明する術すらない。母親にとって、その非情な現実を受け止めることで手一杯なのだ。
それでも彼女は我が子の親友に言うべきだと判断したのである。
「小夜千、死ぬんですか?」
聖花もまた直球でしか問い返すことが出来ない。それは子供だから以上に、死というものがよくわかっていないからだ。
母親は店員に軽く会釈し、店員がケーキとココアを聖花の目の前に置く。
「……ケーキ食べながらでいいから、ね?」
言って、目の前のケーキを食べるように言い、聖花は言われるがままケーキを口に運び始めた。
柔らかい感触とふんわりぬめっとした白いものが口の中で溶けていく。ケーキの中に入っていた唯一の固形物を噛むとつぶつぶした食感の甘酸っぱいものが口の中に広がった。
生まれて初めて食べたケーキという食べ物は、甘いのか酸っぱいのか分からない柔らかい食べ物という印象だった。味覚はあるが、それが世間一般に美味しいのか不味いのか、聖花には分かりかねる。
「小夜千はもういつ死ぬかわからない状態なの。このこと聖花ちゃんに言うべきか悩んだんだけどね……聖花ちゃんは本当に小夜千とはまるで姉妹のように仲良くしてくれてて。だから……だからね……」
母親は俯いて、ハンカチで目元を拭い出す。
聖花はその状況をただ真顔で見つめることしか出来なかった。感情が欠落していると思われても仕方がない。自分は人間ではないのだから。
しかしそれでも胸中は穏やかじゃなかった。顔に出し方がわからないだけで、決して何も思わず聞いているだけではないのだ。
「お別れの準備をしてて欲しい、と思って……」
こんなこと高学年とはいえ、小学生に言うことだろうか。そんなこと母親本人が重々わかっていることだ。それでも言うと決めたのは、聖花が本当に小夜千のことを好いてくれている、仲良くしてくれている、それが痛いほど伝わってきていたからである。
「小夜千は……いなくなるの?」
聖花は言葉として知っていても、感情として理解することが出来なかった。
死ぬということは心臓が止まり、この世からいなくなるということ。この世からいなくなり、小夜千はどこへいくの?
聖花は次第に混乱し始めていた。知識と感情が上手く噛み合わないのだ。
「そう……そうなの。小夜千は近いうちにいなくなるの」
口の中の甘酸っぱさが一瞬にして無味になったような気がした。小夜千がいなくなる、その事実だけわかればいい。そしてそれを考えただけで嫌で嫌で仕様がなかった。
「いなくなるのはいや! いやだ!」
自分でも何を口にしているのかわからなかった。気付いたら聖花はテーブルを叩いて立ち上がり、声を荒げていたのだ。
「私だっていや……いやに決まってる……」
脆い大人の仮面が割れ、母親は両手で顔を覆って完全に俯いてしまった。
その姿を目の当たりにして、聖花は冷静さを取り戻していく。椅子に座り直し、ココアを口にした。
気持ち悪いほど甘く、茶色いその飲み物が今はなんとなく不愉快だった。
翌日、何事もなかったように聖花は小夜千の元へ向かった。
彼女がこの事実を知っているのか、知らないのか、そんなことはどうでもよかった。きっと聡明な彼女のことだ。母親が告げていなくても感じ取っているだろう。
「あ、聖花ちゃん! おかえりー」
「ただいま」
病室に入りながら挨拶を交わす。放課後寄ると必ずこの挨拶を交わすのが定番だ。
今日は体調がいいのか、半身を起こして本を読んでいる様子だった。
「どうしたの? 聖花ちゃん」
「えっ?」
ベットに腰掛けたところで小夜千に問われ、聖花は呆気にとられてしまう。
「なんか今日元気ないなーって」
「そう?」
自分ではもちろんわからないが、小夜千が言うならそうなのかもしれない、と聖花は思った。
小夜千を眺めれば眺めるほど、いなくなるという実感がわからない。彼女はここに確かにいるし、喋るし、動くし、こうして温かさだって感じる。
本当にいなくなってしまうのだろうか?
「もー急にどうしたの?」
突然、無言で手を握ってきた聖花に笑って問い返す小夜千。
「ううん、なんでもない」
このぬくもりが消えてしまうなんて考えたくない。大好きな小夜千がいなくなってしまうなんて考えたくない。
「聖花ちゃん……」
そんなことを考えてしまったせいか、その不安が小夜千にまで伝わってしまったのだろう。小夜千は眉尻を下げ、寂しげな顔をする。
「私だってやだよ……」
「!」
聖花ははっとして小夜千に顔を向けた。
「私だって……やだよぉ……」
今にも溢れ出しそうな涙をいっぱいためて、声を震わせる小夜千。
「小夜千、私もいやだ」
聖花はそのまま小夜千に抱きついた。細くなってしまった小夜千の体を折れない程度に、優しく包み込むようにぎゅっと抱きしめた。
ひっくひっくいいながら泣く小夜千にかける言葉が見つからない。
どうしてあれだけ勉強したのに、本を読んできたのに、こんな時に適切な言葉が見つからないのだろう。聖花は自身を憎みながら、黙って小夜千を抱きしめていた。
――一度でもいいから小夜千を歩かせてあげたい。
思いつきだった。そのときなんとなく思ったのがそれだった。
きっと今彼女を笑顔にするには、一生に一度の思い出を作ってあげるには、もうそれしかないと思ったのだ。
「小夜千、歩きたい?」
「……え?」
もちろんやろうと思えば可能だ。自分は人間にはない力を持っている。それを駆使すれば可能ではある。
しかしそうするには正体を明かす必要があった。正体を明かすことは親に固く禁じられている。
「私が叶えてあげる、絶対に叶えてあげるわ」
わかっている、それがいけないことだって。
それでも聖花は彼女を選んだ。自ら小夜千を選んだのである。
泣き顔の小夜千が笑ってくれるなら、どんな罰でも甘んじて受けようと聖花は思う。