(9)
それから小夜千は聖花を見かけるたびに挨拶してくるようになる。
もちろん図書室なので挨拶以上に何か話しかけてくることはほとんどなく、隣に並んで本を読むだけだった。自分を見かけると笑顔で手を振って近寄ってくる小夜千が聖花は嫌いじゃなかった。言葉にし難い何かが胸の奥にあり、彼女を見るとそれが気持ちよくなるのだ。だから聖花は小夜千が隣で本を読んでいても文句を言うことはなかった。
いつしか聖花は小夜千の手が届かないところの本は、進んで取ってやるようになっていく。
「ありがとう、聖花ちゃん」
「いいよ、別に」
小夜千は毎回絶対にお礼を言う。そしてはにかむように笑うのだ。
彼女の言葉には気持ちがこもっており、感情が宿っている。それは人間のように感情豊かではない悪魔である自分が感じるのだから間違いない。
気持ちがこもっている人間の言葉には、霊的なものが宿ると言われている。その言霊であれば自分達のような悪魔にも強く響いてくるのだ。
「聖花ちゃんと友達になれてよかった。いつも一人だったから……嬉しい」
聖花にとってもらった本を抱きしめ、見上げながら言う小夜千。
「友達……」
そうか、友達っていうんだ。
もちろん言葉は知っていたし、どういうものかは知識として理解していた。しかし“友達”がいなかった聖花には身近に感じることが出来なかったのである。
「うん、友達。改めて……聖花ちゃん、友達になってくれると嬉しいです」
小夜千が右手を差し出し、その右手を見て聖花はあることを思い出した。
「ねぇ、小夜千。手を握り締めて手の甲を前に出して?」
「え? う、うん!」
聖花に言われるがまま小夜千は拳を前に突きだした。聖花はその小さな拳に自分の拳をこつんとあてる。
「そして次は手の平を見せて」
「うんっ!」
小夜千が手の平を見せると聖花も手の平を見せて、そのままタッチした。
「これね、信用した相手と交わす特別な挨拶なんだって。親に習ったの」
「じゃあ、もう私と聖花ちゃんは特別な友達ってことだねっ」
嬉しそうに頬を緩ませて言う小夜千を見て、聖花も自然と顔が綻んだ。
「あー! 聖花ちゃん、笑った! 笑った方が可愛いよーせっかく可愛い顔してるんだもん。いっぱい笑おうよ! ねっ!」
「なら、小夜千にいっぱい笑わせてもらわないとね」
「えぇっ!?」
もちろんそんな会話をしていたら、先生が鬼の形相で向かってきて叱ってきた。しかしそんなことなど何とも思わないぐらい、小夜千と話すことが楽しくて、一緒にいれることが楽しみになっていた。
そんな日々が続いたある日。
聖花が日直で担任に呼び出されたせいで、図書室に行くのが遅くなってしまった時だ。いつものように扉を開け、図書室に入ると見たことのない光景が目に飛んでくる。
「…………小夜千?」
気配で小夜千がどこにいるかはすぐにわかった。しかし視界には映っていない。
なぜなら車いすで背の低い小夜千を男子生徒が囲んでいるからだ。高学年の成長期の体が覆い被さるように小夜千を取り囲んでいる。
そこからは不愉快な匂いがした。
甘い匂いが腐ったような、気持ちの悪い匂いがした。それだけで聖花の気分は最悪だった。
「なんでいつも座ってんだよ」
「邪魔なんだよ、それ」
「つーか、なんでおまえ歩けないの? 一生歩けないの?」
聖花は思わず図書室を見回した。どうやら先生は席を外しているようだ。それもそうだろう。先生の前でそんなことを言うほど、高学年は馬鹿ではないはずだ。
「風呂とかどうしてんの?」
「トイレ! おまえトイレ一人で出来ないんじゃね!?」
こうしている間にも心のない言葉が小夜千の胸を突き刺していく。
そして小夜千の状況を目の当たりにしながらも、見て見ぬふりをしている他の生徒達。
「……これだから人間は下等なんだ」
聖花は憎しみを込めて呟いた。
一人じゃ何も出来ない、一人を助けることも出来ない、この状況がおかしいことに気付いていながらも誰一人立ち向かうことが出来ない。
下等で、低脳で、どうしようもない生き物じゃない。
聖花は込み上げてくる殺意を抑え込むのに必死だった。ここで自分が本気で怒ってしまったら死者が出てしまうかもしれない。人間を殺すのは御法度だと強く両親に言われている。もちろん能力の使用もだ。
それでも聖花は小夜千を助けたかった。助けたいと思った。彼女を傷つける、カスでクズなピルプが憎かった。
「おまえらっ……!」
「あ、あのねっ!」
聖花の声に被せるように小夜千が声を荒げる。
「え、えっと……私ね、生まれつき歩けないの。だから座ってることしか出来なくて……この車いす大きいし、邪魔だよねっ。ご、ごめんなさい! そ、それとお風呂はお母さんが手伝ってくれるよ! トイレは手すりがあれば自分で頑張れるし、出来ない時は大人の人に助けてもらってるんだっ。へへ……気持ち悪いよね、ごめんね」
務めて明るく、笑顔を保ちながら、小夜千は精一杯彼らの言葉に返してやった。
男子生徒達は面食らったようで、すっかり黙り込んで互いに顔を見合わせる。そしてまた何が言おうとしたところで、
「おまえらなにやってるんだ!」
図書室に大きな雷が落ちる。この状況を見れば何が行われていたのかすぐに理解出来るだろう。
逃げるように男子生徒達は図書室を飛び出し、先生がそれを追う。ドアの隙間から気の弱そうな女子生徒が申し訳なさそうに小夜千の方を見ていた。恐らく彼女が先生を呼びに行ったのだろう。
聖花はそれを見て、少しだけ前言撤回する気持ちになった。
「小夜千……」
聖花はかける言葉を模索しながら小夜千に近づいていく。
「聖花ちゃん、さっき助けてくれようとしたでしょ? ありがとう。すっごく嬉しかった」
「でも結局なにも出来なかった」
「ううん、いいの。聖花ちゃんのこと巻き込みたくなかったし、こんなの慣れっこだもん」
言って、小夜千はいつものように笑みを浮かべるがそこには覇気が感じられなかった。
「小夜千、もう笑わなくていいよ」
「え……?」
「無理して笑わなくていいよ。私がその分笑うから、悲しい時は我慢しないで」
小夜千はきっと強い人間なんだろう、と聖花は思う。しかし強い人間ほど、抱えているものは重いんじゃないだろうか。
何度も何度も、人間は一人では生きられないという一文を色んな本で見かけたり、感じたりしてきた。つまり人間には支えが必要なのではないだろうか? それはきっと肉体的にだけではなく、精神的に。
聖花は今まで読んで得てきた知識の意味を実体験することで深く噛みしめていた。
小夜千はきゅっと口を結び、車いすを動かして聖花に背を向けた。
「小夜千?」
急に背を向けられて聖花は首を傾げるが、小刻みに揺れる肩を見て事態を察した。
「わ、私だって……好きで歩けないわけじゃないっ……」
「うん、そうだね」
「みんなと一緒に走ったりしたいんだよ……」
「うん、わかってる」
聖花はただ同意し、相槌を打つことしか出来なかったが、彼女の一つ一つの言葉をすべて聞いてやろうと思っていた。
聞いてあげたいと思っていた、友達として。
それからも二人は図書室で会い、小夜千の親が車で迎えにくるまでの間の放課後も一緒に過ごし、いつしかクラスの違う二人はいつも一緒にいることが当たり前になっていた。
当たり前が当たり前じゃなくなる時、誰もが不安を感じるものである。
ある日、小夜千が体調不良で学校を欠席した。元々、生まれつき体が弱いことは聖花も聞いていたので、心配だったがゆっくり休めば大丈夫だろうと思っていた。
しかし小夜千はその次の日も欠席した。
いつもの図書室の長テーブルがより長く感じ、廊下に比べて静かな図書室がまるで活気のない場所にさえ感じられた。
今日こそ小夜千は学校に来ているだろう、と三組に足を運んでも見慣れた彼女の姿はそこにはなかった。特別学級にも行ってみた。保健室にだって行ってみた。
彼女の姿は校内のどこにもなかった。今日も、そして翌日も。




