(8)
放課後、埜亞は図書室へ向かっていた。聖花が休み時間や放課後は図書室にいることが多いからだ。
物音を立てないように扉を開け、静まり返った教室へ足を踏み入れる。
「!」
本棚に囲まれた長テーブルの隅に聖花の姿を発見した。案の定、いつもと同じ席で本を読みふけっている。
埜亞は気付かれないように遠回りして近づき、聖花の背後に近寄っていく。
もちろん聖花はとっくに埜亞の気配など気付いていたが、気付かないふりをして本を読み進めていた。それは彼女なりの優しさでもある。
気付かれていないと思っている埜亞は息を潜め、聖花の背後に立つなり、聞こえないように大きく深呼吸した。心臓がばくんばくん大きな音をたて、それだけで気付かれてしまいそうで不安になる。
自ら聖花に声をかけ、そして隣に座り、今から何をしようとしているのか……それを考えるだけで心臓が暴れ出してしまう。
胸に手をあて、瞳を閉じ、無理矢理気持ちを落ち着かせようとする。
例え心臓が口から飛びだそうとも、顔から火が出ようとも、絶対に諦めないし途中で逃げ出したりはしない。それは埜亞の中の固い決意だった。
「せ、聖花さん……!」
小声で、しかし力強く、そう声かけながら埜亞は聖花の隣に座った。
「…………」
一方で聖花は本に視線を落としたまま反応を見せない。それでも埜亞は話しかけることを辞めなかった。最初からそう決めてここに来たからである。
「わ、私……や、やっぱり、聖花さんのこと知りたいです。なにがあったのか、よかったら教えて下さい」
言って、埜亞はいつも持ち歩いている分厚い本から魔法陣を取り出す。それでも聖花は何も言わず本に視線を落としたままだった。
「も、もちろんっ! 言いたくないことは聞きません……! ただ、もし私にも力になれることがあるなら……力になりたいんです!」
埜亞は思い切って、勢い任せに聖花の本を無理矢理閉じた。
「ちょ、なにすんっ……」
「私と友達になって下さいっ!」
埜亞はまるで一世一代の告白をするかのように、ぎゅっと目を閉じ、頬を赤らめて、声を荒げる。
周囲の視線が一斉に二人に浴びせられた。静かにするよう無言の圧力がかけられ、嫌味ったらしく咳払いまで聞こえてくる。
その周りの様子ではっとした聖花は埜亞に注意しようとして、
「私と友達になって下さい、聖花さん……!」
揺るぎない真っ直ぐな瞳で見つめられていることに気づき、何も言うことが出来なかった。
埜亞の魔法陣を握り締めた手は小刻みに震え、聖花を見つめる目は潤んでいる。彼女が本気であることは一目瞭然だった。
「あんた……」
埜亞がいざとなった時に強さを見せることは、聖花も充分にわかっている。
一人ぼっちなのに、一人ぼっちだったのに、いつだって凛としている強さを秘めていて、周囲に何を言われたって屈しない。それでいて自分よりも他人を思いやることが出来る、素直な優しい子。
そう、小夜千のような……。
「……聖花さん?」
聖花は眉尻を下げ、その誠意に答えるかのように埜亞の手を掴み取って自分の胸に添えた。
魔法陣の描かれたくしゃくしゃになった紙切れは、聖花の豊満な胸に押しつけられたことによって、慶喜の時と同じように無数の光の線を呼び覚ます。
聖花の胸から飛び出た光の線は、埜亞目がけて一直線に流れ込んでいく。まるで高速の流れ星のように。
「きゃ、きゃあ……ッ!」
慶喜の時とやり方は全く同じなのに、この時ばかりは苦痛の悲鳴を上げてしまう。それだけ大量の情報量が一瞬にして埜亞に流れ込み、感情の傷みを伴うからだ。まるで水の中に押し込められたかのような息苦しさが埜亞を襲う。
瞑った瞳の裏にぼんやりと映し出され始める、聖花の記憶と感情――幼い聖花は図書室で本を読んでいた。
元気な声で賑わう小学校の一角。そこだけは静かな空間。飛び交う声はボリュームを故意的に抑えており、会話はすべてひそひそ声だった。堪えきれずに大声で笑ってしまった生徒が先生に叱られている。
小学校高学年ぐらいの聖花は休み時間は決まって図書室へ来ていた。決まって長テーブルの隅の席に座り、黙々と本を読んでいる。
決して人間が好きなわけではない。幼いながらに学ぶことでこの世界に早く溶け込もうと考えていた。知識は何よりも武器になるという、両親の教えからでもある。
単純に聖花はなによりも本が好きだった。人間の描く独特の世界や表現には大変興味があったのだ。
幼いスクブスにとって性欲はまだ未知のもので抑えがたいものだった。スクブスに生まれてしまったからには常に付きまとい、人間界で生きていく為には上手く付き合っていくしかないもの。
本を読んでいれば、その人間を見ると掻き立てられる変な衝動を一時は抑えることが出来る。コントロールする意味も含めて、聖花は本を読むことが趣味となっていた。
「先生、すみません。あの本をとってもらえますか?」
いつもの雑音とは違う、真面目な声色。聖花は何事かと思い、本から目を離して声のする方を見た。
「これかな?」
「はい、それですっ! ありがとうございます!」
車いすの女の子が先生に本棚から本をとってもらっていた。そしてとってもらった本を受け取るなり、抱きしめて嬉しそうに笑顔を零す。
澄んだ、綺麗ないい匂いだった。
この頃には既に人間の匂いの違いに気付いてた。決まって人間はみんな甘い匂いがするが、その中にも味のようなものがある。その人間の性格や性質がスパイスのように滲み出るのだ。それをすべての淫魔が嗅ぎ分けれるのかは知らないが、聖花は嗅ぎ分けることが出来ていた。
車いすの彼女はとても心優しい子なんだろう。匂いだけでも充分にそれが感じ取れる。
車いすとはなにか、ぐらいは既に学んでいる。きっと彼女は何かしらの理由で歩けない人間なのだろう。それが今だけなのか、一生なのか、それはわからないが、自分の意志で地面を踏みしめることが出来ない子なのだ。
「…………」
なのに、どうしてそんなに匂いが澄んでいるのだろう。
そう疑問に思いながら心地のよい甘い香りに誘惑されつつ、聖花はまた本に視線を戻した。
そしてまた翌日も聖花は図書室に居座っていた。
「んぅっ!」
小さな呻き声が聞こえて、聖花は声のする方に視線を向ける。
また車いすの彼女だった。背伸びして届くか届かないかぐらいのところにある本を必死にとろうとしている。
だからといって興味はなかった。そもそも人間界に馴染む為に小学校という箱に入れられ、両親に従って仕方なく通っているようなもの。もちろん友達はおらず、人間との付き合い方もわからないままだった。
「きゃっ!」
転倒しそうになったのか、今度は悲鳴のようなものになった。
運悪く先生が席を外しているようで、周囲でそんな彼女を助けようとするものは誰もいなかった。むしろ好奇の眼差しを送っている。
気が散るなあもう……。
内心いらっとしながらも、聖花は隣でがやがやされることが気に食わず、無言でその本を奪い取って本棚に戻した。
「えっ!? あ、ありがとう!」
「別に」
素っ気なく一言言い放ち、聖花はまた席に戻ろうとする。
「あ、あのっ……!」
車いすで遠慮がちに近づいてくるなり、彼女は聖花に声をかける。
「いつも図書室にいるよね? 本好きなの?」
「好きだよ。本はあんた達人間にように裏切らないからね」
素っ気ない態度で言う聖花に構うことなく、彼女は瞳を輝かせ、
「それって何の本の台詞!? かっこいいなあ。うんうん、本は人間みたいに裏切らないよねっ」
勝手に一人で頷きながら納得し始め、聖花は困惑した後フリーズした。彼女が一体何を言っているのか理解出来なかったのだ。
「私、六年三組の逢守小夜千っていいます。あなたの名前は?」
「えっ……? 瞑紅聖花、だけど」
「べいくせいか? 変わった名前だね、本の登場人物みたいっ」
にこにこと柔らかい笑顔で笑う小夜千に聖花はただただ戸惑っていた。人間自ら近寄ってくることが今までなかったからだ。ツンケンした聖花に自ら近づこうとする生徒もいなかったし、孤立していることに不満や不安を抱いたこともなかったのである。
「聖花ちゃん、でいいかな?」
「え、ああ、うん、いいけど」
「聖花ちゃんは六年何組なの?」
「一組だよ」
「一組かあ。体育も別だし、だから見たことなかったのかな? 三組って言っても、私の足こんなだから特別学級にいることもあるし」
苦笑いしながら言って、スカートを捲って足を見せる。
白く細いその足ではきっと彼女の体を支えることは出来ないだろう、と聖花は思う。一時期的に歩けないのではなく、きっと一生……。
聖花は小夜千に自分が読んでいた本を差し出した。
「足がだめでも葦がある。人間は考える葦だって本で読んだわ」
小夜千はきょとんとして何度も瞬きをし、聖花からその本を受け取った。
「聖花ちゃん、難しい言葉知ってるんだねっ。ありがとう」
聖花が自分を励まそうとしていることは小夜千にも充分伝わっていた。
しかし自分が小夜千を励まそうとしていることに聖花はまだ気付いていなかった。ただ彼女の甘い匂いが嫌いじゃなかったのだ。