(6)
「あ、あの……! や、やっぱり!」
体ごと輝十の方を向いて何かを告げようとする埜亞。
「いーって。さすがに女の子一人で夜道帰すわけにはいかないだろ」
輝十は申し訳なさそうにする埜亞に務めて笑みを浮かべて見せる。気にする性格である彼女への配慮だ。
「あ、ありがとうございますっ」
いつものように深々とお辞儀する埜亞に輝十は顔をあげさせ、
「それより、それ。どうやって使うんだろうな」
分厚い本から飛び出た紙切れを指しながら、話題を変えるかのように口にする。
「そ、そういえば……」
「杏那に聞けばよかったな。あいつならなんか知ってんだろ」
埜亞は挟まっていた紙を取り出し、そこに描かれた魔法陣を真摯な目つきで見つめる。
まるで月明かりが故意的に二人を照らしているかのように明るく、魔法陣をはっきりと映し出した。
「どうして聖花さんはこれを私にくれたんでしょうか?」
はっきりと、どもることなく。
その疑問を口にする埜亞は凛としていて、いつもの彼女とは異なって輝十の目に映る。
彼女はどうしてこういうことになると底知れぬ強さのような美しさを出すのだろうか。いつものおろおろしている彼女とは全く別の魅力がそこにあった。
輝十はそんな埜亞に見惚れながらも、その答えを口にする。
「素直じゃない聖花のことだから、きっと埜亞ちゃんにそれでなにか伝えたいことがあるんじゃねえの?」
そうとしか思えなかったのだ。聖花が意味のないことをするとは思えないのである。
「伝えたいこと……」
「ああ。それがなにかはわかんねえけどよ。きっと埜亞ちゃんじゃないとダメってことだろ? 頼りにされてるってことだぜ」
その言葉を聞いた埜亞の表情がみるみる煌びやかになっていく。
「た、頼られるってことはっ! その、もしかしてっ!」
「そ、もう立派な友達っつーことだな」
輝十は埜亞が欲しがっているであろうことをあえて言葉にして伝えてやる。
「あ、ありがとうございますっ! 座覇くん!」
分厚い本を抱きしめ、今にも飛び上がりそうに喜んで微笑む埜亞。
輝十はそんな姿がやっぱり可愛くてしようがなく、どうしようもない気持ちにさせられる。か弱いかと思いきや実は強く、無邪気で、誰よりも気にする性格なのに誰よりも人を気にかけていて……思いやりのある、優しい女の子。
「座覇くん……?」
急に顔を逸らす輝十を訝しむ埜亞。
輝十はまともに埜亞の顔を見ることが出来なかった。今見てしまっては、抱きしめてしまいたくなるからだ。
聖花を気にかけている埜亞に今そんなことは出来ない。したいけど、したくなかった。彼女を混乱させたくなかったからである。きっとそんな感情をぶつけたら彼女の頭はパンクしてしまう。
「な、なんでもねえよ。また明日な」
輝十はそう言って、埜亞の家の前で作った笑顔で手を振った。
埜亞が家に入っていくのを見送り、輝十は盛大な溜息をつく。
「輝十ったら、大人じゃーん」
「!?」
不意に聞き慣れた声が聞こえ、瞬時に振り返るとにこやかな顔で杏那が立っていた。
「んだよ、てめえ……つけてきたのかよ」
「つけてきたとは人聞き悪いなあ。気になって様子を窺ってただーけ」
「どっちも一緒じゃねえか!」
胸倉を掴まれ、杏那は暴れ出した馬を落ち着かせるかのごとく輝十を必死に宥める。
「忘れたの? 健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓ったあの日のこと」
杏那は自分の胸元に手を添えながら言う。輝十はめんどくさそうにその言葉の続きを待った。
「つまりね、今の輝十の気持ちが俺の中にも流れてるってこーと。誰よりも輝十の今の気持ちがわかってるってことだよ」
いつもの茶化すような言い草ではなく、優しい兄のような声色と表情で。
「なっ! んなっ……!」
輝十は一気に沸騰したやかんのように頬を紅潮させる。そして慌てて杏那に背を向けた。
そんな輝十にそれ以上杏那は何も言わず、その背中に向かって声をかけた。
「さ、帰りましょー」
翌日。
埜亞は輝十の言葉を噛みしめ、勇気を出して自ら聖花に挨拶をするも素っ気なく、なんとなく避けられているような気がしていた。経験上、避けられている気ではなく避けられている、のだろうと埜亞は思う。
どうすればいいかわからず、心が折れそうになった埜亞は魔法陣を眺めるなり、そのまま机に突っ伏した。
「夏地さん、どうしたんです?」
上から優しい声が振ってきて、埜亞はゆっくり顔をあげる。
「け、慶喜くんっ!?」
慶喜は埜亞の前の席に座るなり、振り返って埜亞と視線を合わせる。そして前髪で隠れていない方の瞳で優しく笑って見せた。
「落ち込んでいるようだけど」
「え、えっと、その……」
埜亞は俯いてもじもじするなり、言っていいものか悩む。
「夏地さんのことだから自分のことより人のことで悩んでるんじゃない?」
言いながら、慶喜は埜亞の手元に隠れた魔法陣の紙を見つける。
「それ、どうしたんです?」
少し驚いた様子で問う慶喜。
「ふぇっ!? あ、え、えっと、聖花さんに頂いたんですっ!」
誇らしげに言う埜亞を見て、賢い慶喜はなんとなく話の流れを掴んでいた。
「なるほど……聖花さんとなにかあったんですね」
見透かされた埜亞はしゅんとして小さく頷いた。じっと見つめてくる慶喜の視線から逃れることが出来なかったのである。
粗方話し終えた埜亞に慶喜は眉尻を下げて、
「そんな顔しないで。不本意ですが座覇くんの言う通りだと思う。聖花さんは夏地さんになにか伝えたがっているし、決して嫌いになって避けているわけではないと思いますから」
埜亞はそんな慶喜の言葉に少なからず救われていた。輝十とはまた違った説得力があり、考え込んでばかりの彼女の気持ちを軽くしていく。
「話して頂いたからには、僕も協力しますからね」
やや力んだように言う慶喜に首を傾げて見せる埜亞。
「え、え、えっ? きょ、協力って……?」
自分と聖花の問題であり、また前回のようになっては困る……そんな思いもあり、慶喜の言葉に埜亞は困惑していた。自分の力でどうにかしたい、どうにかするべきだ、とも思っているからだ。
そんな埜亞の気持ちを察したのか、慶喜は小さく首を横に振ってみせた。
「もちろん僕でよかったら、ですが。その魔法陣の発動の仕方をお教えしますよ」
「本当ですかっ!?」
埜亞は机を叩いて勢いよく立ち上がった。結局、杏那に聞けず終いだったその方法を聞けるとあっては、食いつかずにはいられない。
今にも唇同士が触れあってしまいそうなぐらいに自ら近づいてきた埜亞に、さすがの慶喜も困惑し、頬を紅潮させながら体をひく。ここで本能に従ってしまっては彼女に嫌われかねない、という利口な判断からだ。
「本当ですよ。早速、昼休みにやりましょう」
埜亞は大きく何度も頷いて見せた。
「気になるなら話しかけてきたらいーじゃん」
「べ、別に! 俺は!」
慶喜と埜亞が二人で親しげに話している様子を遠目に、輝十がふて腐れたように言う。
「バレバレなんだけどなあ……」
そんな杏那の小言は輝十の耳に入ることはなかった。
昨日のこともあってか、朝から落ち込んでいる様子だった埜亞に話しかけるタイミングを逃し、そこに慶喜がやってきて話しかけたのである。
嬉しそうな顔をしている埜亞にかける言葉なんて見つからず、その様子を黙って見ることしか今の輝十には出来なかった。