(2)
「ちょ、埜亞ちゃん……?」
輝十は埜亞の目の前で手を振って呼び覚まそうとする。
「で、なんで急にそんな質問したのー?」
手を振り続けている輝十の傍らに立ち、杏那が問いかける。その声ではっと意識を取り戻した埜亞は、手をもじもじさせながら口をぱくぱくさせる。
「誰かに訊かれたのか?」
おろおろしている埜亞を落ち着かせるように、務めてゆっくり優しく問いかける輝十。
「は、はい……聖花さんに問われて、その、私じゃ答えられなくて……」
埜亞は顔を隠すようにフードを深く被り、恥ずかしそうに俯いてしまう。
「聖花が? なんでまたそんな質問したんだ?」
疑問符を飛ばす輝十の傍らで、一人納得した様子の杏那。
「なるほどねえ……」
「なるほどってなんだよ」
一人だけすべてがわかったような顔をしているのが気にくわず、輝十はふて腐れて言う。
「うーん、憶測でしかないけど……そもそもおかしいと思わない? 文句言いながらも彼女は黒子ちゃんをいつも気にかけてるし、なんだかんだで可愛がってる」
「えっ!? そ、そんな! あ、でも、とてもお世話になってます」
埜亞はフードを外し、頭上で目立つ赤いリボンを触りながら嬉しそうな声色で補足する。
「あー確かにな。どんだけツンデレなんだよって思ってたけどよ、あいつ絶対埜亞ちゃんのこと好きだよな」
「でしょ? 黒子ちゃんのこと好きだし、それ以前に人間が好きなんだと思うんだよね。認めないだろうけど」
杏那はお腹がすいたのか、バックからチョコレートを出して口に放り込み、もぐもぐしながら続ける。
「人間を好む悪魔って二種類いてさ、育った環境か出会った人間なんだよねえ」
ピースするかのように、人差し指と中指を立てて見せた
「育った環境……出会った人間……?」
埜亞が復唱すると杏那は頷いて見せる。
「そっ。例えば微灯さんみたいに人間とのハーフだったり、家庭環境に人間が深く関わって育ったパターン。それか俺みたいに幼い頃に人間と出会って、それがいい意味で深く刻まれているパターンだね」
杏那は埜亞の机に座り、再びチョコレートを口に放り込む。
「それが聖花の質問となんの関係があるんだよ」
「わかってないなあ、輝十は」
食べる寸前で止めて、輝十を見下ろし、小馬鹿にするように苦笑する。
「彼女にもいたってことでしょ。人間の友人がさ」
「!」
瞬間、埜亞は驚いた顔で立ち上がる。そして呟くように口にした。
「じゃ、じゃあ、小夜千さんっていうのは……」
「恐らくその友達じゃないかな」
杏那がそう言うと、埜亞はゆっくりと席に座り直し、机と睨めっこを始めた。
だとしたら“かつて”というのは、どういう意味なんだろう……? やっぱりそのままの意味なんだろうか。
埜亞の脳内ではその語句が何度も蠢き、悩ませる。
友人がいなかった自分にはわからない。わからないけれど、どうして親友と呼ぶほど親しかった人が“かつて”の人になるのだろう。その疑問が無償に埜亞を悲しい気持ちにさせる。
答えは出たはずなのに納得いかない様子の埜亞を見て、輝十は眉間に皺を寄せた。
「どうしたんだよ、今度は。そんな深刻な顔してさ」
「ふえぇっ!? あ、いえっ……その……」
首を傾げる輝十の傍らでバックを漁り、チョコレートが切れたことに気付き絶叫する杏那。
「んだよ、急に! うるせえな!」
「チョコレート食べちゃったんだけど!」
「だからなんだよ……」
どんだけマイペースなんだよ、こいつ……と思いながら、輝十はげんなりした顔をする。
杏那は埜亞に向き直し、
「もう遅いし、この続きは輝十んちでしない? ねっ?」
「んなっ……! おま、なにを勝手に!」
埜亞はぱあっと花でも咲いたように嬉しそうな顔になって、
「い、いいんですかっ!?」
教室に響き渡る程の音をたてて机を叩き、勢いよく立ち上がった。
友達の家に行って語らう、そんなイベントは埜亞にとってはたまらないものだった。わくわくせざるを得ないのである。
「俺はいいと思うんだけど、家主の息子さん、どうなんですかー?」
「てめえ……」
座ったまま見上げると埜亞は星でも散りばめたかのような、キラキラした瞳をしていた。そんな埜亞に見つめられては、もちろん断れるわけがなく。
「わーったよもう。行くならさっさと行こうぜ」
杏那と埜亞がハイタッチし、珍しくきゃっきゃしている埜亞を見て、輝十は仕様がなさそうに笑みを零した。
座覇家に到着するなり、輝十の部屋に案内された埜亞は正座したままもぞもぞしていた。輝十の部屋に来たのはあの事件以来である。
一方で杏那はいつものように輝十のベットに勝手に寝転んで寛いでいた。
「そんな力まなくてもいいのに。足崩したらー?」
「い、いえっ! で、でもっ!」
輝十がお茶を準備して席を外している間も埜亞は気が気じゃない様子だった。
「友達んちっていうより、好きな人の家に来た女の子みたいだよー? ね、黒子ちゃん?」
俯せになって足をぱたぱたしながら、楽しげに言う杏那。
しかし埜亞は緊張してそれどころじゃないようで、
「と、妬類くん……お友達の家ではどういう姿勢をとるのが正しい、んで、しょうか?」
正座したまま背筋をぴんと伸ばして座っている埜亞は、首だけ動かして杏那に問いかける。
杏那はにやりと不敵な笑みを漏らすなり、
「こっちおいで、黒子ちゃん。まずそんなところに座ってたら失礼だよ。ベットに座らないとね?」
「は、はいっ!」
無垢な埜亞は杏那の言われるがままにベットの上に腰をおろす。
「あとはこうして、そうそう、そんな感じ? おっけーおっけーそのままねっ!」
杏那は満足げに埜亞の背後に座って、その時を待つ。
「悪いな、甘い物しかなくて。ケーキで平気?」
言いながら足でドアを開け、それぞれの紅茶とケーキを持って戻ってきた輝十だったが……。
「お、お構いなくっ! ケーキだいすきです!」
元気よく答えた埜亞に視線を向けた瞬間、そのすべてを床に落とした。
「ちょ……!」
杏那は慌てて背後から飛び出し、まるで雑伎団のようにすべての紅茶とケーキを間一髪で受け止める。
「予想通りの反応だけど、ケーキは死守してよねもう」
ぶつぶつ言っている杏那の声はもはや輝十に届いてはいない。
「あ、あのぅ……」
照れくさそうにベットに座っている埜亞は、ブレザーを脱ぎ、何故かネクタイをとって首にかけ、ボタンを第二ボタンまでとった状態だった。埜亞の豊満な胸の谷間が見え隠れしている。
それだけではない。ベットの上にぺたん座りで待機しており、両足の間に両手を置くことによって、その谷間は三割増しになっているのだ。そしていつも頭上を彩っている赤いリボンは無造作にベットの上に放り出されていた。
「と、妬類くんがっ! お友達の家での作法を教えてくれたんですが……出来てます、か?」
子供が親に問うかのように弾んだ声で言う埜亞。
「どういう友達相手の作法だよ、おい」
輝十は小声で言うなり、杏那の頭部を掴み取る。
「えー? そんなこと言って嬉しいくせに。なんだったらこの紅茶とケーキを持ったまま退散してあげるけど?」
「……た、退散したってどうもなんねえよ!」
顔を赤くする輝十を見て、
「その押しの弱さが童貞の勲章だよねえ」
「うるせえな! 俺は順序を大事にする男なんだよ!」
「童貞はみんなそう言います」
しれっと言うなり、杏那はテーブルに紅茶とケーキを置いて再びベットに飛び乗った。
埜亞にネクタイをさせ、制服を整えさせたところで、やっと落ち着いて輝十は紅茶を口にする。
ベットから降りた埜亞にはさっきの作法は“男の子の前ではやってはいけない作法”だった、と適当に理由をつけてごまかし、質問を拒否するかのようにティーカップから口を離さない。