(26)
正面に目を向ければ、杏那の父を抱きかかえ、泣き崩れて叫び声をあげる見たこともない自分の父親の姿。
傍らに目を向ければ、必死に見えない壁を叩いて声を荒げる杏那の姿。
輝十は二人の姿を交互に見て、どうしようもな気持ちにさせられた。ただ唇を噛みしめ、拳を握り締める。
苦しかった。ただ、苦しかった。
いつも飄々としている父親があんなにも泣き叫んでいる。
いつもへらへらしている友人がこんなにも取り乱している。
母は倒れ、学校は崩壊寸前で、それでも何もすることが出来なくて、ただ眺めていることしか許されない。
それで平然としていられるほど輝十も大人ではない。しかしここで自分に何が出来るのか、何をすべきなのか、それを考えるぐらいの余裕はあった。
それはきっと自分よりも先に杏那が取り乱していたからだろう。自分の分もきっと彼が声にしている。いつもなら冷静な杏那が判断し、感情的になった自分を制するが、今は違う。今自分がすべきことは……。
「……もう辞めよう」
呟く輝十の声を無視し、杏那は叩き、叫び続ける。
「もう辞めろ! 杏那!」
輝十は杏那を後ろから羽交い締めにし、無理矢理落ち着かせようとする。
「離せ! 離せよ! なにすんだよ! 早く、早くどうにかしないと!」
それでも聞く耳を持たない杏那の頬に輝十の拳がめり込んだ。
予想外の攻撃に杏那は対処出来ず、そのまま殴られ、後ろに一歩、二歩下がり、倒れそうになるのを後ろ足で支えた。
「は? なにこんな時に殴ってるの? あのねえ!」
完全に頭に血が上って怒鳴り散らす杏那の胸倉を掴み、
「今ここで泣き叫んで何が出来るんだよ!」
鬼の形相で怒鳴り返した。
「……輝十?」
怒鳴りすぎて肩を揺らして呼吸している輝十を見ながら、勢いに圧されて黙り込む杏那。
「気持ちはわかるけど……わかるけどよ……ここは“今”じゃない」
輝十は杏那の胸倉を押し返すようにして離す。
「違うだろ、俺らが今すべきことはよ」
杏那は再び自分の父親達に目をやり、輝十もまたその視線の先を辿った。
目の前の状況は何も変わっていない。手を伸ばせば、見えない透明の壁が輝十と杏那の行く手を阻んでいる。
それでも杏那は冷静さを取り戻し、輝十に向き合うことが出来た。
「ごめん……取り乱して」
「別に? どうってことねえよ。それよりおかしいと思わねえか?」
「そうだね。ここは“事後”であって、重要な発端が描かれていない」
透明の壁をすり抜けて火の粉が飛んでこようとも、全く熱さを感じなかったのだ。
「どうしてこれを見せられているのか、考える必要性はありそうだけど」
「だな。でもよ、それよりも先にやんなきゃなんねえことがある」
落ち着きを取り戻した杏那は、輝十のその言葉を聞いてほっとしたように溜息を漏らした。
「親と同じ道を辿らないように俺らで修正しねえとな。おまえに死なれても後味悪いし?」
「俺が死ぬとでも? やだなぁ、俺は見た目通り王子なんだけど。ねぇ、姫?」
「あ? 誰が姫だよ、誰が!」
いつもの流れになって和んだところで、輝十は空を見上げる。その行動の意味がわからず、杏那は首を傾げた。
「おい! 誰かしんねえけど、そろそろここから出しやがれ! もう充分過去はわかったっての!」
「……それって空に向かって叫んでどうにかなるもんなの?」
杏那は胡乱な目で輝十を見る。
「あれだろ、こういうのはどうせ高みの見物で俺らの反応を見てる主犯格がいるもんじゃねえの?」
ここに飛ばされる時、杏那は気を失っていたが輝十は確かに見たのだ。自分の額に指を差し込んで、記憶の鍵をあけてここに誘った人物を。しかもここにきたことで、それが杏那の父だったことがはっきりしている。
しかし亡くなった杏那の父がどうやって俺達を……?
目の前の光景を眺めたまま、そう思案を巡らせていると、まるでテレビのチャンネルを変えるかのように目の前の光景だけが元の時間にすり替わる。
杏那の父と解十の姿、火の渦に巻かれていた校舎が菓汐と歩藍が戦っている光景に移り変わったのだ。
「んなっ!?」
はっとした輝十は慌てて駆け寄ったが、透明の壁にぶち当たってしまう。
「いってえ! なんで戻ってきたのに壁が!」
ドドドド、と壁を激しく叩くがやはり透明の壁に遮られており、近づくことさえ許されない。
慌てた様子で壁を何度も叩く輝十の傍らで、杏那はその壁を触りながらお腹を抱えて険しい顔をする。まるで壁を支えに立っているのもやっとだと言わんばかりに。
「ごめんね。すぐ元に戻すつもりだから」
聞き覚えのある声が背後からし、
「あんたは……」
振り返った輝十は目を見開いて、その人物を見据えた。杏那もまたお腹を抱えて寝転んだまま、目を細めてその人物――杏那の父を見る。
「もうわかっていると思うけど、きみ達が見たものは過去だ。それはきっと今も悪い意味で語り継がれている。違うモノ同士が共存するということは、いつだってぶつかり合うものなんだろうね」
「あれは……最後に見たあの光景の犯人は誰なんですか」
杏那の父は答えず、菓汐と華灯の戦いに目をやる。輝十は不審に思いながらもその視線の先を追った。
「嫌なことほど繰り返されるもの、なのかな」
杏那の父が悲しげな顔をするなり、体が薄くなり始める。
「えっ!? ちょ……!」
「よく聞いて欲しい。もう俺は死んでいるし、もう解十もこの学園の生徒じゃない。これからはきみ達が先頭に立つんだ。もちろん大人が協力はしてくれる。でも未来を担えるのはきみ達だからね。俺達が為し得なかったことを……」
そう言い終えてその場で屈み、透けた手で杏那の頭を撫でる。
「俺の若い頃そっくり」
「父さん……?」
空腹で朦朧とし始めた意識を必死で留め、杏那は自分を優しい瞳で見下ろす、とても自分によく似た男性を見上げた。
「杏那。よく聞いて。よくこの状況を見るんだ。おまえは俺の子だ。ここでどうすればいいか、もうわかってるな?」
いよいよ杏那の父が消えかかり、透明の壁が消える。
「!」
瞬間、何とも形容しがたい空気を肌で感じ、壁が消えたことに真っ先に気付く輝十。
「そうそう、きみ達の記憶を一部改竄していたのは解十と話し合った結果だから。まさかここまで予想通りになるとは思わなかったけどね」
「ちょっ……!」
それだけ言い残し、掴み取るように手を伸ばした輝十虚しく、杏那の父は一瞬にして弾けるように消えてしまった。
「つまり俺達にどうしろって言うんだよ……助けてくれるんじゃねえのかよ……」
ぐったりした顔で、未だに戦っている菓汐を見る。なんとか互角に戦っているが、互角に戦っていては勝ち目がない。
「座覇くん! 妬類くん!」
壁が消えて輝十達の存在が認識されるようになったのか、埜亞が慌てて輝十に駆け寄り、盛大に転ける。
「お、おい、大丈夫か?」
「こ、このくらい、平気ですっ! それより……妬類くんはっ!? 意識を取り戻したんですかっ!?」
どうやら回想に飛ばされてから時間はほぼ進んでいないようで、杏那が気を失ったところに戻ってきている。
「……俺なら生きてる」
か細い声で返答する杏那。失ったまま戻ってきていないことだけが幸いだった。
「元の空腹時に戻ったってわけか」
「みたい、だね」
力のない笑みを作り出す杏那。
結界は既に壊れかかっているし、菓汐がもう少しだけ粘ってくれれば教員が総動員でやってきて歩藍を止めるだろう。それまで邪魔をしないようにじっとここで耐えていればいい。それが今一番の最良の選択だ。
そんなことわかっている。
自分のような非力なただの人間がこの状況で出来ることなんてない。頭では理解していた。
しかしそれでいいのか……? と何度も疑問の波が輝十を覆い、飲み込む。
いいわけがない。このままじっとして終わっていいわけがない。
例え悪魔であっても、それが淫魔であっても、女の子の姿をしている以上、任せっきりに出来るはずがない。男として、断じてそれは許されない。
輝十は慶喜達のことを思い出す。
華灯歩藍は人の心を弄び、学園を壊し、友人達を傷つけたのだ。そんな奴を黙って見ていることなんて出来るはずがない。
自分の父親達のあの穏やかで和やかな光景を見せられては、それを願わすにはいられないだろう。
この学園を守るのは俺達で、次に悪魔と人間の架け橋になっていくのは……!
「座覇、くん……?」
無意識に爪が手の平に食い込むほど、ぎゅうっと拳を握り締めていた輝十を不思議そうに見つめる埜亞。
杏那はそんな輝十の手を掴み、
「さっさと、終わらせよう」
内心を読み取ったかのように言う。