(16)
「で。なんの用かしら? そこを退けて欲しいのだけど」
表情こそ穏やかだが冷ややかな怒りを秘めていることに菓汐は気付いていた。歩藍の圧力を肌で感じながら菓汐は唇を噛みしめる。
「反抗するというの? あなたが? 私に?」
動こうとしない菓汐を前にして、手を口元に添えてバカにするような笑みを零す歩藍。
そんな挑発に一切反応しない菓汐は、黙って彼女を睨み付けていた。
「……なに、その目」
取り繕っていた穏やかな表情が歪み、苛立ちを含んだ声色を発する。
「もう辞めるんだ、歩藍」
口元に添えていた手を静かに下ろし、真顔になる歩藍。そしてまるで呼吸をするかのように小さく口を開いて、囁くように優しく言う。
「久しぶりね、菓汐。あなたがそうやって私の名前を呼んでくれるのは」
そして優しい笑顔を菓汐に向けた瞬間――
「!」
歩藍を中心に刃物のような突風が吹き荒れ、菓汐は腕で顔を隠して踏ん張るが制服が鋭い風にみるみる切り刻まれていく。
「あ……!」
かろうじて開けた瞳の先には、うずくまったまま突風に吹き飛ばされてフェンスに叩き付けられる全の姿。
必死に瞳を開けようとするが、それを突風が妨げる。
「自分を襲った相手の心配? 余裕綽々ね、菓汐」
ハーフアップにしていた髪留めが風で飛び、緩いカールのかかった長い髪が風に靡く。その姿はやはり人間とは到底思えない恐怖のオーラを身に纏っていた。
「だ、だいじょう、ぶ、か!?」
風に逆らって全の元へ向かい、声をかけるがその声はもちろん届かない。
その光景を眺めていた歩藍は舌打ちし、ゆっくりと風を割って菓汐の元へ一歩一歩近づいていく。
気配に気付いた菓汐は振り返り、
「もう辞めろ、歩藍!」
もう一度、先程よりも強く熱心に声をかける。
歩藍は横たわる全を介抱する形で座り込んでいる菓汐を見下ろし、
「……その口で、私の名を、呼ぶな!」
綺麗な顔を醜く歪ませ、菓汐の胸倉を掴んで無理矢理立たせ、鬼の形相で睨み付けた。
息苦しそうに藻掻く菓汐を冷めた表情で眺め、手をぱっと離す。菓汐は地面にへたり込み、喉に手を添えてげほげほ繰り返した。
そのまま踵を返し、立ち去ろうとする歩藍。
「ま、待てッ!」
それを菓汐は見逃すはずがなく、歩藍の手を掴んで引き止めた。
「触るな」
歩藍はその手を勢いよくに払いのける。
「もう、辞めるんだ」
「しつこい。菓汐、あなたに指図をされる筋合いはない」
「なにが……なにが目的なんだ。私か? 私なら逃げない。憎いなら好きにしてくれて構わない。だからっ……!」
おうとつの小さな胸元に手を添え、必死に訴えかける菓汐。
「黙れ」
歩藍は屈んで菓汐の髪を引っ張る。
「……っ!」
「勘違いしないで欲しいわね。あなたへの嫌がらせなど布石のようなもの」
菓汐の髪を引っ張って自分の顔に近づけながら言うなり、手を離して苦しんでいる全に冷ややかな視線を送った。
「彼、もうすぐ死ぬわ」
いつもの造った優しいにっこり笑顔で言う歩藍。
「なっ……!?」
菓汐はその言葉を聞き、全を抱きかかえ、
「おい! しっかりしろ!」
意識を失いかけている彼に必死に声をかける。
「おまえ何を……」
歩藍は髪を靡かせながら微笑む。
「この学園のセキュリティは侮れない。フィールド・リバーシ真っ直中の今なんて特に厳重警戒されているわ。だからそのセキュリティを無闇に破ろうとせず、結界の中に結界を作ったの。たまには人間の術も役に立つものね。勉強しておいて損はなかったわ」
歩藍は自分の心臓を指差し、
「もちろん、それ相応の代償がかかったけれど」
そして全を指差した。
「な、なんてことをッ!」
全と歩藍を交互に見ながら、目を白黒させる菓汐。
「いいじゃない。彼、あなたを襲ったのよ? 人間をバカにしてるのよ? ミックスのあなたみたいな中途半端な生き物なんて存在すら許さない勢いなのよ? 同情する意味がわからないわ。彼がいなくなった方があなただって清々しいでしょうに」
「うるさい! おまえと一緒にするな!」
確かに彼は自分を襲った生徒であり、輝十達も巻き添えにした。その行為は許せるものではない。しかしこの場にいてわかる。それはきっとすべて歩藍の導きの元であったんだろうと。
例え人間を憎む気持ちが本当だろうと、自分のような半端ものを憎む気持ちが本当だろうと、そこで必要以上にアクセルを踏ませたのは紛れもなく華灯歩藍だ。
きっと利用されたのだろう、と思わざるを得ない。
それとも彼は自ら命を差し出したのか? 何のために?
今までの自分ならば、きっと彼を見殺しにしていただろう。自分を襲ったものに慈悲などかけなかっただろう。
こんな自分に優しくしてくれた人達がいた。ずっと一人だった自分に手を差し伸べてくれた人達が。
そのもらった優しさが自分をこんなにも穏やかな気持ちにしてくれている。
「……私も甘くなったものだな」
菓汐は無意識に歯がみしていた。この流れがどうしても納得いかないのである。
目の前で命の灯火が消えようとしている、この状況も。自分の目的の為に悪魔さえも利用する、この悪魔も。
柄じゃないのはわかっている。わかっているけれど……。
そんな姿を嘲笑うかのように見ていた歩藍は背を向け、今度こそ屋上から立ち去ろうとする。
「もう少し、もう少し頑張るんだ」
言って、菓汐は全をそっと地面に寝かせて立ち上がる。
菓汐は小さく深呼吸をし、右の中指を左手で掴み、ゆっくり引っ張るようにして“なにか”を伸ばしていく。
その“なにか”はまるで菓汐の中指に絡みついて離れないかのようで、この世のものとは思えない半透明のムチのような形状をしていた。
「行かせんッ!」
そのムチのようなものを歩藍の全身に絡みつけ、縛り上げ、動きを封じる。
「このねっとりしたヒモ、昔から嫌いなのよ。細いナメクジみたいで気持ち悪い」
しかし難なく引き千切られてしまう。
「くっ……!」
「無駄よ。あなたが私に勝てたことなんてあったかしら?」
ふふふ、と笑いながら歩藍はそのままバックに高々と飛び、菓汐を飛び越えてフェンスの上に立つ。
「私にはどうしても手に入れたいものがあるの。あなたに構っている暇なんてないのよ。この出来損ないのクズ」
両腕を広げ、そこに嫌味な笑みだけを残し、歩藍は背中から飛び降りる。
「歩藍ッ!」
フェンスに駆け寄り、下を見下ろす。
「これは……!?」
下に輝十達の姿を発見し、歩藍がそこへ向かって落下したことに驚愕する菓汐。嫌な予感しかしない。
「くそッ!」
フェンスを叩き、すぐに踵を返して下に向かおうとして――タブレット端末から音がする。
「無事か、微灯」
「先生!? すみません、私が無力なばかりに!」
養護教諭から通信が入り、タブレット端末にかぶりつくように声を張る菓汐。
「言い訳は後で聞く。それより中の状況を詳しく説明しろ」
「中、ですか?」
「ああ。おまえは中にいるからわからないだろうが、外から見ればドーム上の結界が張ってあるんだ。教員は皆それを破る作業に入っている」
菓汐は周囲を目を配り、薄い膜が張ってあること、そして下の地面が真っ黒であることに気付く。
「いいか、よく聞け。おまえには今からある場所へ行ってもらう。タブレット端末を開け。中に小型ワイヤレスヘッドフォンが入っている。それを装着しろ。指示は私が出す」
屋上から可憐に舞い降りた歩藍の姿はまるで女神のように感じられた。しかし降り立った彼女を前にして誰もそんなことは口にしない。
ここには人間と悪魔しか存在せず、目の前の彼女が悪魔であることは聞かずともわかっているからだ。
地面にへたり込んだままの慶喜は、その姿を前にしてすべての答えを悟っていた。
彼女の傍らにいるはずの親友がいない。それでも聞かずにはいられなかった。
「……全はどうしたんですか?」
低く活気を失った声で歩藍に問いかける。
「彼なら屋上にいるわ」
「!」
慌てて屋上を見上げる慶喜に、
「生きている、とは限らないけれど」
いつも秀麗な笑みを浮かべながら現実の矢を突き刺す。
「なっ……! なんで!? なんでなんですか!? 取引したはずでしょう!」
慶喜は立ち上がって駆け寄り、歩藍の胸倉を掴んで揺さぶるが、涼しい顔で平手打ちされてしまう。
「気安く触らないで頂戴。取引したはず? バカを言うのね。悪魔との取引が真っ当なものだとお思いで?」
慶喜は叩かれた頬を手で抑えたまま呆然とする。きっと痛みより傷みが彼を蝕んでいるのだろう。
「その友人の為に必死になるあなたの姿、とても人間くさいのよ。気持ち悪い」
その言葉を聞いて我に返った慶喜は、俯いて怒りに肩を震わせる。
「どうして……なんで……」
「どうして? なんで? そんなこと説明しなければわからないの? あなたは賢い方だと思っていたのだけど」
歩藍は慶喜をつまらなそうに見て肩をすくめる。
「知ってたんだろ……わかってたんだろ……全は、全はッ! あんたのことがッ!」
熱くなる慶喜に反して、痛くも痒くもないといった感じで歩藍は無表情を貫く。
「なに? 恋心とでも言うのかしら? 気持ち悪い」
返す言葉も、込み上げてくる怒りの行き先も、すべてを見失う慶喜。
ただただ、ふつふつと溢れ出す憎しみと悲しみと自分の不甲斐なさに溺れていく。
「ふふ、だったらきっと彼も本望ね。大好きな私の犠牲になれるのだから」
込み上げてくる笑いを堪えきれず、声を出して笑う歩藍。
「そんな大好きな友人の為に自ら犠牲になるあなた……似たもの同士じゃない。仲良くお逝きになったら? それぐらいお手伝いしますけど」
何も言い返すことの出来ない慶喜は怒りに体を震わせ、その行き場のない怒りは涙となって頬を伝った。