(12)
「……ターン!」
掛け声と共に光の柱が天を貫く。目の前に黒い石と化した生徒が現れると埜亞はほっと胸を撫で下ろした。
あれから遭遇する生徒と何度か対峙し、相手側を石にすることで二人は敗退を免れていた。
「慣れてきたみたいですね」
渡り廊下にて、役目を果たした埜亞がへたり込むように階段に座り込んでいると目の前にペットボトルが差し出される。
「水でよかったです?」
「あ、は、はいっ! あ、ありがとう、ございます」
気を利かせて飲み物を買ってきた慶喜は、埜亞の隣に腰を下ろして自分のペットボトルの蓋を開けた。
埜亞からじーっと張り付くような視線を送られ、
「どうかしました? あ、僕達でも普通に水分をとるのか気になりました?」
慶喜は優しく微笑みかけながら問い返す。
「い、いえっ! そ、その……!」
「ご存じかと思いますが、普段の僕達は常に摂取出来ない精の代わりに糖分を摂取して補っているので」
「えっ、えっと……」
「あ、もしかして夏地さんが精を摂取させて下さるんですか?」
「ふえっ!?」
顔を真っ赤にして慌てふためく埜亞は、手元から落ちそうになったペットボトルを必死に食い止める。
「あはは、冗談ですよ」
慶喜は笑って自分のペットボトルに口をつけた。中身はカロリーゼロではないコーラである。
「そ、そのっ!」
さっきから何かを言おうとしている埜亞は覚悟を決めたのか、ペットボトルを両手に握り締めて声を張る。
「はい?」
「け、けっ、けいご……」
「僕の名前は慶喜ですが……」
「そ、そそそ、そうじゃないですっ!」
慶喜が困った顔をすると埜亞は俯くなり、握ったペットボトルに力を込める。
「け、敬語……じゃなくて、いい、ですっ!」
「なるほど。わかった、じゃあ御言葉に甘えてそうさせてもらうよ。夏地さんもそうして」
「ど、努力、しますっ!」
ははは、と力なく笑う慶喜。
そんな作り笑顔をする慶喜を横目に、埜亞は不信感を募らせていた。それは決して“敵なのではないか”という不信感ではなく、彼の抱えている闇のようなものに抱いていたのだ。
せっかく一緒に行動しているのだから、少しでも距離を縮めたい。もし出来ることがあるのなら力になりたい。埜亞はそう思いながらも口にする勇気はなく、ただただそわそわするだけたった。
埜亞は貰ったペットボトルを握り締めたまま顔を上げることが出来ず、地面と睨めっこしている。
「どうかした?」
「ひえっ!? あ、い、いえ……その……」
このまま自分がおどおどしていては千月くんにも失礼だ、と埜亞は思う。
もう自分は昔のままの自分とは違う。いつも被っていた真っ黒なフードを脱ぎ捨てたのだ。だから……!
首を傾げる慶喜に、埜亞は目を泳がせながら問いかける。
「あのっ、ど、どうして、微灯さんを……?」
どうしても彼がそういう人には思えなかった。人ではないので、勝手な思い込みかもしれないし、それこそが手口なのかもしれない。
ならば、どうして彼はこんなに元気がないのだろうか。
穢れなき真っ黒な瞳で真っ直ぐ見つめられ、慶喜は表情を取り繕うのを忘れてしまう。さっきまで笑みを刻み続けていた彼の顔は、冷え切った無表情へと化していた。
慶喜は苦手だったのだ。埜亞のような瞳が。
退化していく過程で、個人差はあるが悪魔にもそれなりに“こころ”が存在している。
見下し、下等な生き物だと馬鹿にし、言動すべてが理解し難いものであった人間。その人間達と共存する道が出来て以来、その“こころ”の変化はめまぐるしかった。
それでも人間を嫌う悪魔はその“人間のようなもの”をもっとも嫌うし、認めようとはしない。
慶喜も認めたくなかった。こんな不要なモノ、なくして欲しかった。
それがなければ、こんな気持ちになることなんてないのに。
「どうして、か。少なくとも俺は理由なく襲ったりしないよ」
「そう、ですよ、ね……やっぱり、な、なにか、理由がある、んです、か?」
「ある、と言ったらきみがどうにかしてくれるわけ?」
つい強い口調で言い返してしまった慶喜は、はっとして気まずそうに顔を逸らす。
「ご、ごめんなさいっ……わ、私……!」
「いや、俺こそごめん。今のは忘れて」
だから人間は苦手だ、と慶喜は埜亞の視線を感じ取りながら思う。
友人達を襲い、友人の家をめちゃくちゃにしたような自分をどうしてそんな目で見るんだ……どうして、そんな優しい目で見るんだよ。
敏感に感情を読み取り、そこに手を差し伸べようとする……そんな人間が特に苦手だった。
見返りを求めないその行為は理解し難いし、どう接すればいいのかわからないのである。困惑してしまうのだ。
それでも慶喜は思う。思ってしまう――そんなところは嫌いではない、と。
そういうところは興味深く、その優しさに甘えてしまいたくなる時だってある。
何度も、何度も、ある。
しかし慶喜にとってそれは許されなかった。その手をとってしまったら、大事な親友の手を離さなければいけなくなってしまうから。
「……千月くん?」
表情を取り繕って、再び笑みを刻もうとしていた慶喜の頬を涙が伝う。
埜亞の驚いた顔を見て、慶喜は初めて自分の仮面が割れてしまったことに気付いた。
「違う! 違う! これは……違うんだ!」
割れてしまった仮面にすがるように、その破片を必死に集めるように、慶喜は現実を拒絶し、声をあげながら立ち上がって埜亞から距離をとる。
葛藤。きっと何かと何かの狭間で激しく揺れ動いているのだろう。その辛さが、痛さが、埜亞は自分のことのように思えて悲しかった。こうなるまできっと誰にも打ち明けられなかったのだろう。あんなに親しげな人がいるのに……どうして。
埜亞は余計にどうにかしたい気持ちに駆られる。
それは自分が輝十達にしてもらったように、明るい外へ出してもらったように、闇から出れずにいる彼を出してあげたい。そういう想いだったのである。
どうすればいいんだろう。こういう時、座覇くんはどうするんだろう。どういう言葉をかけるのかな。
埜亞は意を決して、立ち上がり、力んだ表情で千月に近づいていく。
「く、くるな……寄るな!」
拒絶する言葉を無視し、埜亞は慶喜を壁まで追いやっていく。
「あ、悪魔だって……い、淫魔だって……」
慶喜の手からペットボトルが落ち、地面をゆっくりと転がっていく。
埜亞は慶喜の手を掴み取り、両手でぎゅうと力強く握り締める。
「泣いていいんだよっ! 辛かったら……我慢しないで、泣いていいんだよっ!」
叫んでいるのか、泣いているのか、わからないような声で埜亞は言った。
「も、もっと周りを頼って……いいんじゃないかなっ!」
まるで昔の自分に言い聞かせるように、新しい自分に再確認させるかのように、埜亞は叫ぶ。
今までどもっていた彼女が勢いよく叫んだものだから、慶喜は勢いに圧されて聴き入ってしまう。
「ご、ごめんなさいっ。え、えら、偉そうなこと言って、しまって……で、でも私がそうだった、から」
埜亞は腕でごしごし目を擦り、鼻を啜りながら言う。
「わ、私、ずっと一人で……と、友達なんか、いたこと、なくて……ずっと一人で、なんでも我慢、してきて。で、でも、どうすることも、出来なくて。仕様がない、って、思ってたんです。じ、自分に、課せられた、ものかなって。ほ、本当は……すごく、すっごく、嫌だったのに。で、でもっ! そんな私に、優しくしてくれた人がいて」
埜亞は掴んだ手に自然と力が入る。慶喜の目を真っ直ぐ見つめ、微笑みかけた。
「とっても嬉しかったんです。とっても心強かったんです……だから! だから、私も他の人のそうでありたいっ!」
慶喜は目を逸らして俯き、唇を噛みしめる。
「ど、どうしても、私には、千月くんが、わ、悪い人には思えなくて、その……」
きっと何か理由があるはず。埜亞はそう思わずにはいられなかった。だって、自分達と同じように涙を流すことが出来るのだから。
「なんで……なんでそんな優しくするんだよ。なんで? なぁ、なんでなんだよ。俺が悪い人には見えない? はは、意味わかんねえ」
慶喜は俯いたまま、力なく嘲笑った。それはまるで今の無様な自分の姿を笑うかのように。
何か言おう、何か言わなきゃ、と埜亞が口をぱくぱくさせた時だ。
「……埜亞?」
自分を呼ぶ声がして、埜亞は反射的に振り返る。
「ざ、座覇くんっ!」
偶然、徘徊していた輝十達と鉢合わせしたのだ。
邂逅――それは終わりを告げていた。
埜亞が嬉しそうにその名を呼ぶ。その声を傍らで聞いた慶喜に無情な終わりのゴングが鳴り響く。
慶喜の視界に輝十の姿が映り、次に杏那が映る。そして――輝十に笑顔を向ける埜亞を故意的に映し出した。
込み上げてくる脱力感。なんとも情けなく、無様な自分。中途半端なせいで、脆く、意図も簡単に崩れてしまった仮面。
「……その優しさに甘えるなんて、きっと俺には許されない」
慶喜は蚊の鳴くような声で呟き、
「え?」
問い返す埜亞の声は聞かなかったことにする。
「何かを選べば、何かを失う。誰かが笑えば、誰かが涙する。それは人間達の仕組みと同じようなものだろ?」
「ど、どういう、意味……?」
それは埜亞に聞こえる程度の声量で。
突然、低い声色で囁くように語る慶喜を訝しむ埜亞。しかし慶喜はそれ以上何も語らなかった。
何かを失うのは俺だけでいい――
慶喜は唇から血が滲み出るほど噛みしめ、覚悟を決める。