(4)
「あ、あのっ! 朝は、そ、そそ、その……ありがとうございましたっ!」
埜亞は真っ赤に熟した顔をフードで覆い隠し、廊下を歩きながら傍らを歩く輝十に頭を下げる。
その奇妙な光景を目の前にして、菓汐は言葉を失っていた。それもそのはずである。埜亞はまるで前屈運動をするかのように、床すれすれまで頭を下げているからだ。
「い、いいってもう。忘れよう。忘れようぜ、あれは……」
つい羽目を外した、と輝十も反省していた。
「この深々としたお辞儀はなんだ? おまえへの服従の証か何かなのか?」
菓汐は埜亞をちらちら見ながら輝十に耳打ちする。
「ち、ちげえ! 俺も知らん! つーか、もう頭あげろって、埜亞ちゃん!」
「は、はいです」
埜亞は「もうあげていいんですか?」と言わんばかりに恐る恐る頭をあげた。
「あ、あのぅ……座覇、くん」
「うん、もう大丈夫。大丈夫だから頭下げんなよ、絶対下げんなよ」
「は、はい! そ、その、う、嬉しかったですっ。か、可愛い、なんて言ってもらえて……」
にっこりと微笑むその顔がフードの中からしっかりと見てとれ、輝十は心底恥ずかしくなった。埜亞の言葉には裏がなく、それが本音であることがいやってほど伝わってくるから余計にだ。
可愛いという単語にどれほどの価値があるかなんて、男の自分にはわかりやしない。わかるのは、埜亞が心から嬉しそうにしているということだ。
「そ、そうか。それはよかった。お、俺は嘘は言ってねえからな」
「はい、です! 菓汐さんも、嬉しかった……ですよね?」
「へぇっ!?」
突然の振りに変な声を出してしまう菓汐。
当然かのような流れで同意を求める埜亞。その穢れのない顔を見て、何と答えればいいか菓汐は悩む。
「……ほ、保健室。保健室に着いたぞ」
その時、運良く目的地に到着し、話を逸らすことに成功した。
輝十も埜亞も保健室に来るのは初めてである。二人は興味深そうに入口をじっと見て、菓汐が扉を開ける。
「おはようございます」
菓汐の凛とした中音ボイスが静まり返った保健室内で響き渡る。
「お、おはようございます」「お、おはよう、ございますっ」
慌てて輝十と埜亞も目の前の女性に挨拶する。
保健室の主とも言える彼女は、無言で回転椅子をくるりと回転させ、
「……ん、誰だ」
酒焼けか、それとも歌いすぎか、はたまた天然か。低くハスキーな声で呟く。
輝十はその顔に見覚えがあった。三大式典で指揮を執っていた女性である。
「ほう。女を両手に侍らせて登校とはいい身分だな」
養護教諭は自分の顎を撫でながら、そのきりっとした顔立ちを緩める。
「両手に、女を、侍らせて……?」
輝十はその単語を復唱し、自分の今置かれている状況を見直してみる。
ゆっくりと左右に目をやる。
言われてみればそうだ。全く意識していなかったが、なんと俺は女子生徒二人と一緒に登校していた。
「ハーレムじゃないか」
自覚し始めた輝十に気付き、養護教諭はからかうように茶々を入れる。
「!」
ま、まさか、俺がハーレム……だと……?
輝十は再び物凄い剣幕で左右を確認する。主におっぱいを凝視。
ついている。彼女達にはついている。あの弾力感、本物だ。間違いない。菓汐は膨らみが弱く判断しかねるが、俺のセンサーが本物だといっているので間違いない。
二人が女を装った男だという可能性はない。
いいのか? こんなに順調でいいのか? 今までのホモどこいった? という疑念を抱く程、輝十の今まで歩んできた人生は茨の道であった。
「ざ、座覇くん……もしかして、身分の高い方なんですか?」
「え?」
途端に埜亞の質問で現実に引き戻される。
「だ、だって、いい身分だなって……」
「あ、いや、うん。平民だから安心して」
輝十は力のない笑顔で言った、言ってやった。
俺はもっと冷静に考えるべきだ。彼女相手にハーレムラブコメが可能がどうかを。
二人がそんな会話を繰り広げている間に養護教諭は立ち上がり、菓汐に近づいていく。
「やられたのか」
丁寧に撒かれた包帯を目にしても、養護教諭の表情は無のままだ。先程の緩んだ顔がまるで見間違えかのように、鋼のように堅くキツイ印象を受ける。
菓汐も背は高かったが、ヒールを履いているせいか養護教諭はもっと高かった。
「こい」
養護教諭は菓汐を見下ろし、一言そう言ってベットに座らせた。
「どうしたんだ、これは」
包帯をとって傷口を見ながら養護教諭が言うと、菓汐は顔を反らして口を噤んだ。
「ほう。私を前にしてそういう態度をとるか」
養護教諭は無表情のまま、怪我をしている部分を鷲掴みにする。
「……ッ!」
菓汐は声にならない悲鳴をあげ、苦痛に顔を歪めた。
「ちょ、なにやって……!」
輝十が慌てて止めに入ろうとするが、
「心配するな。この程度でどうにかなる奴らではないわ」
言って、養護教諭はその場を離れ、消毒液の調合を始めた。
その後ろ姿を見て菓汐は口を開くか悩んだが、そっと独り言のようにそれを吐く。
「……生徒に、やられた」
養護教諭はうんともすんとも言わず、無言で調合を続ける。
彼女は聞かなくとも最初から気付いている。わかっていながら、彼女達に事の重大さの自覚を促す為にあえて聞いているのだ。
「生徒同士の争いごとに首を突っ込むつもりはないが、度を超えたら話は別だ。私は一応教育者だからな」
言いながら、消毒をし、薬を塗って弾法していく。
それを興味深そうに目を輝かせて見ている埜亞。そんな目を輝かせている埜亞が気になり、輝十が視線を送ると、
「魔術婦っていうんですよ。恐らく……」
埜亞がそれを察して答え、
「ああ。医術士の資格も持っている」
養護教諭が口を挟んだ。
全く理解出来ておらず、置いてけぼりの輝十に気付いた養護教諭は丁寧に補足する。
「悪魔の傷はなかなか癒えないし、人間とは勝手が違う。そこのケアの専門といえばわかりやすいだろう。この資格を持った教師を魔女教諭とも呼ぶんだが、その名の通り“魔女のようなことの出来る人間”の総称だ」
「魔術婦は先生のような養護教諭の方や薬品系を扱う方の資格です。それと合わせて取得することが多いと言われているのが医術士で、悪魔のお医者さんみたいなものです」
養護教諭の説明に更に埜亞が補足し、関心するように養護教諭は頷いて見せた。
「色んな資格があるんだな……」
「世の中資格だからな。それは人間も同じだろう」
教師らしからぬ発言で生徒に現実を叩き付けたところで、弾法が終わり、処置が完了した。
「なにかあったらすぐこい。傷の手当てぐらいならいつでもしてやる」
言って、すぐ回転椅子に戻っていく養護教諭。相変わらず無表情で愛想無かったが、
「……なにもなくても来ていいぞ。茶飲みがてら話ぐらいなら聞いてやろう」
椅子を半回転させ、優しく養護教諭が微笑むとその場にいる三人の顔にも笑みが零れた。
菓汐は照れくさそうに頷き、
「かたじけない」
言って、頭を下げた。
それを横目に埜亞が不思議そうに首を傾げ、「も、もしかして……お、お辞儀の角度って、あ、あれが本当なんですか……?」と問うてきたが聞こえないふりをしておいた輝十である。
「あ、やべ。俺、今日一回もコーヒー牛乳飲んでねえ!」
保健室を出て教室に向かう途中、輝十は一日のお勤め(朝)を果たしていないことに気付く。
「わりぃ、二人とも先に行っててくれるか? 俺ちょっと自販機寄ってくるわ」
言って、踵を返し、二人に手を振って廊下を猛ダッシュする輝十。
「そんなにコーヒー牛乳が大事なのか?」
その慌てようを目の当たりにして、菓汐が素朴な疑問を口にする。
「座覇くん、コーヒー牛乳がだいすきみたいです。前にすごく熱心に言ってましたっ。「そりゃコーヒーと乳の結合だからな。おっぱいに苦みを加えたようなもんだ」って」
まるで名言を語るかのように、堂々とソレを口にする埜亞を菓汐はじと目で見た。