(7)
男子生徒はちょこまか避ける輝十に対し、段々苛立ちを隠しきれなくなっていた。
ペットボトルの水も底を突こうとしており、グシュッという音をたててベットボトルを捻り潰す。
「……殺すなよ。殺すのはまずい。それにあいつを抱えてるのは人間だろ」
「うるさいな! わかってるよ!」
隣から冷静に指示され、ペットボトルの男子生徒は語気を荒げる。
手の平の上でペットボトルを逆さにし、残った水をすべて手の上で球体に練り上げていく。
「一撃で決める」
男子生徒の瞳が髪と同じ薄いグリーンの輝きを灯し、同時に球体が膨張を始める。そして球体が反時計回りに回転し始めた、その時――
「ざ、座覇くんっ……!」
開いた窓から埜亞が裸足で飛び出してきた。
「なっ……黒子ちゃん! ちょ、待って!」
窓際で様子を窺っていた杏那の横を通り過ぎ、輝十の元へ駆けつけようとする。
「の、埜亞ちゃん!? なんで来るんだよ! つーか、こっち来んな!」
輝十は駆け寄ってくる埜亞に向かって叫ぶが、既に覚悟を決めている埜亞にその言葉は届かない。
荒れ果てた庭、怪我をしている菓汐、それを助けようとしている輝十……それだけ目に入れば埜亞には十分だった。
一か罰か。
試したことはないし、知識上のものでしかない。きっとそれはただの神話の類。それでも“ソレ”を否定したら埜亞はここにいる意味がなくなってしまう。信じるしかなかった。
非現実的な彼らの前で、非現実的な“ソレ”を。
「今、助けますから!」
埜亞は分厚い本をペラペラペラと高速で捲り、あるページで止めてそこを開く。
「本気だね、彼ら。まずい」
そこで男子生徒が手にしていた球体を輝十達に向かって投げ付ける。手から離れた瞬間、グッと手を握り締めると球体は主の意志を受け取るかのように更に膨張し、回転を速める。
今まで“ある理由”により手出しが出来ず出方を窺っていた杏那だったが、さすがに我慢の限界だった。
「おい、バカ! 余所見をするな!」
「え……?」
迫り来る巨大な水の球体。それに気付いた菓汐が声をあげるが、輝十は不覚にもその声を聞くまで駆け寄ってくる埜亞に意識が集中しており、全く気付かない状態にあった。
「なッ!」
さすがに避けきれない。
確実に近づいてくる球体が輝十の目を射た。一歩遅かった。今までより格段に大きいその球体を避けることは困難を極める。
「黒子ちゃん、その本を輝十達に向かって投げて! 早く!」
埜亞の背中を追った杏那が叫び、埜亞は言われるがまま本を思いっきり投げた。そして穴のでこぼこに躓いてそのまま転倒する。
瞬間――杏那の髪がふわりと浮いて逆立ち、目が茜色に光る。
球体が直撃したら絶対に無事では済まない。それでも抱きかかえている彼女だけは守らなければ……!
それは義務でも試練でも何でもない。輝十の男としての本能だった。こんな状況に立たされても尚、自分のことよりも腕の中の女の子の安否を心配する。それが座覇輝十であり、本当に女の子が好きな(主に乳的な意味で)彼の一つの信念だった。
「……おまえ」
球体が能力で膨張して限界に到達したのか、水滴が漏れ、顔や全身を濡らす。
二人は同時に目を瞑り、覚悟を決めた。
「座覇くぅぅぅぅぅんッ!」
埜亞は地面に突っ伏したまま、宙を舞う本と今にも接触しそうな球体と輝十達を見て、泣き叫んだ。
「大丈夫。自分を信じてあげてよ」
「……え?」
突っ伏した埜亞の傍らに立つ杏那が呟き、その瞬間を睥睨する。
光と水の衝突。
その場にいる杏那以外の誰もが事態を飲み込めないまま、あまりの眩しさに瞳を閉じた。
「なんっ、なんだよこれ」
眩しさに眉間にしわを寄せたまま、細々とした目でソレを直視する。
顔を叩き付けるように飛んでくる水滴は決して痛くない。ただの水でしかなかった。
「どうして魔法陣が……」
菓汐は光の文字で描かれたソレを見て呟く。
ソレは埜亞の本からまるで立体で映写されたかのようだった。円に模様や見たことのない文字が刻まれたものが輝十達の盾となって球体と衝突し、その力をねじ曲げようとしている。
「ちっ、そんなものッ!」
「辞めとけって。ただの人間が魔法陣を発動出来るわけないだろ!」
更に球体に力を込めようと手を翳す男子生徒をもう一方の男子生徒が止め、無理矢理手を下ろさせる。
「うるさいな! ここまで追い詰めたんだ! 最後まで……!」
「落ち着けよ。おまえも気付いてるだろ。引き際を考えろって。このままだと俺達が追い詰められる側になる」
駄々をこねる男子生徒を宥めるように、しかしきつく言い放つ。すぐにゲーム感覚で熱くなってしまう男子生徒と常に冷静な判断を下す男子生徒。二人はそれでバランスがとれていた。
しかし手を翳した分の力を球体はしっかり受け取っており、自爆するかのように更に楕円状に膨張し、輝十達に迫る。もちろん魔法陣による二人を守る防壁もその進入を許さず、更に光が増す。
力と壁の衝突。
どちらも退かなければ、それはまるで磁石の反発しあう同じ極同士のように――
「危ない!」
声を失って呆然とそれを眺めていた埜亞の腕を杏那が引っ張り、無理矢理立たせてその場から離れさせる。
尻餅ついた埜亞が次の瞬間、目にしたのは……。
「ざ、座覇……くん……? 座覇くんッ!」
反発しあう力が爆発し、爆風と共に爆発した球体の水が雨を降らせる。
埜亞の視界が水滴で遮られる。何度も何度もレンズのない眼鏡をパーカーの袖で拭き、輝十達がさっきまでいたはずの場所に視線を送っていた。視界を歪ませるのが飛び散った水なのか涙なのか、埜亞自身もわかっていない。
しかしさっきいたはずの場所に輝十達はおらず、そこには埜亞の本だけが閉じて地面に落ちていた。
埜亞はどうすればいいかわからず混乱していた。その答えを求めるかのように自分を引っ張ってくれた杏那に目配せしようと傍らを見て、杏那の姿がないことに気付く。
今さっき、この瞬間までいたはずなのに……どうして?
「!」
そんな疑問は聞こえた声によって上書きされる。
「いってえ……さすがに死ぬかと思ったぜ」
輝十は上半身を起こし、ずきずきと痛む頭を抱えた。
「おい、大丈夫か?」
「ん……ああ、私は大丈夫だ」
菓汐は輝十の胸の上にいることに気付き、即座に体を離そうとするが、
「うぐっ……」
全身が軋むように痛むのと最初に負った左の臑の傷が裂けるように痛み、堪えきれずこもるように呻き声をあげた。
それでも擦り傷だらけの輝十に比べ、菓汐の傷は初期に負ったものより大して増えてはいない。
菓汐は不思議そうに輝十を見る。
「なぜ、私を助けた」
爆発の瞬間、自分を抱え込むようにして守ってくれた。爆風で転がる時も頭を抱えるようにして、身を挺してまで守ってくれている。そこまでしてもらうような仲でもなければ、義理もないはずだ。
菓汐には不思議でならなかった。
「なぜって言われてもなぁ。いてて……人助けるのに理由とかいるのか?」
全身の擦り傷を見ながら答える輝十。菓汐は目を丸くする。
「理由がない……だと?」
「ああ、別にねえよ。あるとしたら、ここが俺んちだってことと……」
言って、輝十は菓汐の胸元を指す。
「それ、だな。ああ、うん。実にそれだ。俺はそれの為に生きているようなものだからな」
うんうん、と深く頷きながら語る輝十。
輝十は菓汐の胸を指したつもりだったが、菓汐にとっては“自分”を指されたも同然で、
「なっ……どういう意味だ、それは」
頬を染めて、動揺を隠しきれずにいた。
「どういう意味って言われてもなぁ。本能なんじゃねえの? 俺にとっちゃ、当たり前すぎて意味なんて考えたことねえよ。芸術だもん。女神だもん。大好きなんだもん、それ」
「な、な、な、なにを言ってるんだ、おまえは。この変態。見るな、寄るな、触るな!」
菓汐はお尻歩きで輝十から必死に離れようとする。
「おい、おまえもしかして……」
足を引きずるようにしてお尻歩きする菓汐を見て、輝十は苦い顔をする。
痛むであろうことは一目瞭然だったが、それは歩けないほどだったらしい。喋れるほど元気だということとは裏腹に、思っていた以上に傷は深いらしい。
「座覇くん! 微灯さん! 大丈夫ですかっ!?」
その時。起き上がった輝十に気付き、埜亞が駆け寄ってくる。
「ああ、俺はなんとか大丈夫だ」
と、輝十と改めて近くで目が合い、埜亞ははっとして気まずくなり目を逸らした。
「あ、あの……その……」
待ってろ、と言われて待たずして部屋を飛び出し、来るな、と言われても無視して駆け寄っていった。埜亞はそのことに対し、輝十に怒られるのではないかと思っていた。もちろん覚悟の上だったが、いざ直面すると息が詰まるのである。
輝十は埜亞の様子を見るなり、それを感じ取っていた。
もちろん怒るつもりはなかったし、結果埜亞に助けられた形になる。それでも言わずにはいられなかった。
「俺、部屋で待っててって言ったよな」
埜亞はびくぅ! と体を震わせ、強ばらせる。
やっぱり怒っているのだろう、と埜亞は思い、俯いて何も言えなくなってしまった。
輝十はそんな埜亞を見るなり、笑みを零しながら息づく。
「ま、すぐ戻るっつって戻らなかった俺も約束破ったわけだし。お互い様だな」
それを聞いた埜亞は顔をあげる。
「それに結果、埜亞ちゃんに助けられたわけだし。ありがとな」
埜亞はまさかお礼を言われるとは思わず、その言葉を噛みしめるように何度も瞬きをした。
「そ……そ、そんなっ! わ、私はっ! お礼を言われるようなことは、な、何もっ!」
「お礼を言われるようなことをしたかしてないかは俺が決めることだろ。いいんだよ、俺が助かったっつってんだからよ」
埜亞は顔が熱っぽくなるのを抑えることが出来ず、まるで沸騰するやかんのように蒸気が漏れ出していた。それを隠すかのように濡れて重くなったフードを被り、顔を隠す。
「は、はいですっ」
そして照れくさそうに、しかし込み上げてくる嬉しさに心を震わしながら、埜亞は小さく頷いた。