(1)
「やっぱりパンにはコーヒー牛乳だよなぁ。ま、俺は飯にコーヒー牛乳でも平気だけど」
「ざ、座覇くんはすきですね、コーヒー牛乳」
「そりゃコーヒーと乳の結合だからな。おっぱいに苦みを加えたようなもんだ」
うんうん、と深々と頷きながら語る輝十を白々しい目で見て、
「なんでもおっぱいに結びつけるのやめなよね」
杏那が冷静に突っ込んだ。
その傍らで埜亞は反応に困っておろおろしている。しかし今までよりも落ち着いており、どもった喋り方もましになっていた。
あの一件があってから、彼女の中で彼女を硬く深く覆っていた殻が破れたのだ。
制服の上に羽織っている真っ黒なパーカーは相変わらずだが、決定的に違うのは……。
「ね、気になってたんだけど。それってレンズないの?」
杏那が埜亞の眼鏡を見ながら問いかける。
「は、はいっ。今流行っていて、オ、オシャレとお聞きしたので……」
頬を赤らめて恥ずかしそうに眼鏡をかけ直す埜亞。
埜亞のかけている眼鏡はあられちゃん眼鏡といわれる、黒縁でフレームの大きな眼鏡である。レンズがない為、フレームだけの完全ファッション用商品だ。
「え! マジ? それレンズねえの!?」
輝十は隣にいながらもそれに気付かなかったようで、興味津々で埜亞に顔を近づけてまじまじと見つめる。
「ひえええっ!?」
埜亞は慌てて顔を逸らし、輝十から逃げるようにして体を離した。
「おい、なんで逃げんだよ」
それを追いかけようとする輝十に、
「女心を汲み取ってあげたら?」
杏那が苦笑しながら溜息交じりで突っ込んだ。
杏那の言っている意味が全く理解出来ていない輝十は深く気に留めず、そのまま屋上へ向かう階段を上っていく。
「ま、レンズがあるにしろないにしろ、あのぐるぐる眼鏡より全然そっちの方がいいと思うぜ」
埜亞はぐるぐる眼鏡を卒業し、あられちゃん眼鏡に変え、そしてフードを被ることを辞めたのである。
「あ、ありがとうございますっ」
嬉しそうにお礼を言う埜亞の頭上を見ながら、輝十は顔をしかめた。
「しかしそれ……それは一体どういう心境の変化なんだ?」
「それは俺も興味があるねぇ」
輝十と杏那は二人して、埜亞の頭上についているものを不思議そうに見る。
埜亞は頭上のソレを触りながら、
「こ、これですか? これは……せ、聖花さんがくれたんです。あんた地味だからつけてなさいって」
えへへ、とはにかみながら言う埜亞に二人は何も言えなかった。
埜亞の頭上には赤くて大きなリボンがついていたのである。
「そ、そうか。いや、まあ、可愛いんだけどよ。可愛いんだけど、目立つっつーかなんっつーか……」
輝十はそれ以上、何も言わなかった。言えなかった。制服にそのリボンは何か違うだろ、なんて。
「うーん、それどっかで見たことあるんだよねぇ」
杏那が首を傾げながら、リボンを睨み付けるように見つめる。
「あ、えっと、なんでも宅配便をしている魔女がモチーフだそうです。聖花さんがそう言ってましたっ!」
今までで一番嬉しそうに、しかもはきはきとした声で言う埜亞。恐らく“魔女”がモチーフだからだろう。目の輝きが増している。
「ああ、あれか。有名な映画だよね。俺も見たことある」
「私もですっ! 大好きな作品の一つです!」
二人が名作の話を熱く交わしている間に、輝十は一足先に屋上の入口へ辿り着く。が、今日は先客がおり、その姿に最初に気付いたのは輝十だった。
「あれ? あんた確かクラスメイトの……」
灰色の制服――それだけで一際目立つ彼女。
クラスメイトとはいえ休み時間は教室にいないし、物静かで一人を好む性格なのか誰とも関わろうとはしない。ゆえに灰色の彼女の名前を輝十も覚えてはいなかった。
なんだろう、この感じ……。
輝十は彼女の顔をはっきりと見たのは、この時が初めてだった。
悪魔的な綺麗な顔立ちや可愛い顔立ちの多い中で、彼女の整った顔立ちはどこか身近に感じた。素朴な綺麗さというのだろうか。造られすぎておらず、整いすぎてもいない。そんな印象だった。
もちろん輝十にとって、それは一瞬の中で感じた感想だ。
大事なのはそれよりも膨らみ、形、弾力の三大原則についてである。神が女性にだけ与えし、美の芸術こそ乳房だけなのだか……、
「どこ見てるの、輝十」
杏那の声ではっと我に返り、
「ざ、座覇くん……やっぱり……」
埜亞は寂しそうに輝十を見つめ、パーカーのファスナーに手をかける。
「ち、ちげえ! 名前思い出せないからちょっとおっぱい見てただけだろ!」
「なんで名前思い出すのにおっぱい見るんだよ」
「そりゃおまえ、おっぱいで女子生徒を覚えてるからだろ」
「さらっと最低なことを言うよねぇ。インクブスの俺でもひくレベ……」
と、杏那が言いかけたところで灰色の彼女は踵を返し、階段を降りていこうとする。
「え? ちょ、屋上行くんじゃねえの?」
輝十が声をかけると灰色の彼女は足を止め、振り返って輝十を見て不愉快そうな顔をした。
俺なんかしたっけ? と不安になっているところで、埜亞が輝十の制服の裾をくいくいっと引っ張る。
「……び、微灯さん、いつも一人でいるんです」
そして小声で輝十にそう告げた。きっと自分と重ねているのだろう。悲しげな顔をしてまるで自分のことのように、輝十にすがるのである。
輝十は埜亞に笑顔で頷いてみせ、
「なぁ、もしかしておまえもいつもここに来てんの? だったら一緒に昼飯食おうぜー」
両手を口元に添え、メガホン変わりにして大声で誘う。
灰色の彼女は輝十に笑顔を向けられて一瞬目を見開くが、そのまますぐに細めた。
「つーか、上ってこいよーどうせ昼飯これからなんだろー」
輝十の声を無視し、灰色の彼女は再び踵を返す。そして灰色のスカートを揺らし、階段を降りていった。
「あ、あれ? だめだった?」
てっきり呼べば来るものだと思っていた輝十は拍子抜けてしまう。
見えなくなっていく灰色の彼女を埜亞は寂しそうに、杏那は意味深げに、異なる理由を胸に黙って見つめていた。
昼食後、昼休みも残り少しと迫った頃。
「わりい、俺もっかいコーヒー牛乳買ってくるわ」
三人で教室に向かっている途中、輝十は二人の前で手をあわせて謝り、先に行くよう促す。
「はぁ? まだ飲むつもり?」
「んだよ、てめえだって四六時中甘いもん食ってんだろーが」
一触即発な雰囲気になってしまったのを、
「わ、私ついていきますっ!」
マイペースな埜亞がそう言って小さく手をあげたおかげで、いつものように喧嘩にならずに済んだ。
「いやいいよ。買ってすぐ追いつくし」
輝十は教室とは反対の廊下を指差しながら言う。
「そ、そうですか」
少し残念そうにしゅんとしてしまう埜亞の肩を杏那が叩く。
「じゃ先に行ってよ、黒子ちゃん。輝十みたいな鈍足じゃ俺に追いつくわけないんだけどねぇ」
「んだとてめえ! すぐ追いつくから見てやがれ!」
輝十は杏那を指して宣戦布告するように吐き、自動販売機の場所へ向けて廊下を走り出した。
言われた通り、教室に先に向かおうとする埜亞だったが、
「……と、妬類くん?」
杏那が立ち止まったまま歩き出さないことに気付き、舞い戻って傍らに並び立つ。
「この先、匂うなぁ」
杏那は鼻を犬のようにひくひくさせながら、廊下の先を見据えた。
「匂う、ですか?」
「うん。多分、自動販売機があるあたり」
「ええっ!?」
埜亞も杏那を真似るように鼻をひくひくさせながら、
「な、何の匂うですか!? 人間のですか!?」
「うーん、うん。人間のだけど、この匂いの変化は……」
杏那は自分の鼻先を触りながら、口元がにやけるのを抑えることが出来なかった。
「いい? 黒子ちゃん。俺の姿が見えなくなって三分後にゆっくり歩いて自動販売機の所までおいで。わかった?」
「え? あ、は、はいです」
埜亞はわけがわからないまま頷き、その場で突っ立ったまま杏那の姿が見えなくなるのを待った。