(5)
体育が終わり、教室に戻る頃には通常通りフードを被っていた埜亞だが、内面的にはフードの一枚や二枚とったような気持ちでいた。
昼休みになると一斉に生徒達は散らばり、また同じように埜亞の前席の女子生徒は埜亞を通り越して後ろの席の子を食堂に誘う。
埜亞は唇を噛みしめて、ぐっと堪えた。
さっき声をかけてくれた聖花の顔を思い出すと気分が中和される。不思議と最初のように気分は沈まなかった。
「なーに突っ立ってんだよ」
突っ立ったまま教室を後にする女子生徒二人組の背中を見ていた埜亞は、肩を叩かれ、全身に電流が走ったかのようにびくつかせる。
「な、なんだよ……驚かせて悪かったな」
そのあまりの驚きように思わず声をかけた主は謝ってしまう。
「ざ、座覇くん! と、妬類くんも……!」
深呼吸し、気を落ち着かせ、振り返るとそこには輝十と杏那が立っていた。
「飯行こうぜ、飯」
あたかも当たり前の流れかのように誘う輝十。
返答に困っている埜亞を見て、
「あ、わりい。もし誰かと約束してんならそっち優先で」
はっとして気遣いの言葉をかけた。
埜亞は水浴びした子犬のように、小刻みに首を振って、
「い、いえっ。ぜ、ぜひっ、ご一緒させて、ください」
ぺこり、と頭を下げる埜亞。
輝十達と一緒に昼休みを過ごせる。それだけで埜亞は嬉しかった。
なんだろう、このほっとする感じ……。
あるべき場所に戻るかのように吸い寄せられ、二人といると居心地がよかったのである。
それに聖花さんともまたお話出来るかもしれないっ。
唯一の接点である彼らと一緒にいることで、もしかしたらまた話す機会があるかもしれない。それはそれで、また埜亞にとっての楽しみとなった。
三人が教室を出た後、まるで狙っていたかのようなタイミングで聖花がずけずけと教室に入ってくる。
自分の教室ではないというのに、堂々と我が物顔で入ってくるその姿は人目をひいていた。
「いないじゃないの」
一通り教室内を見回したところで、口を尖らせて拗ねる聖花。
「ちょっと、あんた達。輝十くん見なかった?」
そして消息を確認すべく、秀でて綺麗な顔立ちの男子生徒達に声をかけた。
「輝十……?」
その反応にいらっときたらしい聖花は、腕を組んだまま舌打ちする。
「蜜の香りが異常に強いピルプのことよ」
「ああ。彼なら妬類杏那とピルプの女の子と一緒にさっき教室出てったけど」
「はぁ!? 出ていった? どこに!」
「さあ?」
本当に知らない様子で、男子生徒達は顔を見合わせる。そして聖花に顔を近づけ、
「なに、おまえあのピルプと知り合いなの? 紹介してよ。あの匂いは反則でしょ。マジたまんないんだよね」
耳元で艶っぽく囁く。
「はぁ? 冗談じゃないわよ、この淫乱家畜風情の下級脳。同じクラスのくせに……私だって同じクラスがよかったのにぃ……!」
恨み言をグチグチ言いながら、男子生徒達を睨み付ける。
男子生徒達はそれを小馬鹿にするような態度で、
「同じクラスつったって……なぁ?」
「ああ。あのピルプの傍らにはいつもあの妬類杏那がいるんだぜ?」
それを聞いた聖花がひきつった顔で、彼らを見る目を細める。
「悪いことは言わない。あのピルプにそそられるのはすげーわかるけどさ。妬類杏那のお手つきなら辞めとけって」
「だよな。同じ下級悪魔とはいえ、あいつは……」
聖花は地団駄を踏み、そのまま椅子を蹴っ飛ばす。あくまで力には頼らず、ただ八つ当たりするかのように椅子を蹴っただけだ。椅子はガタン、と音を響かせて倒れる。
「ふん、悪魔が悪魔を恐れてどうするのよ。そんなのピルプがピルプを恐れるのと同じじゃない」
男子生徒達は顔を見合わせて、肩をすくめる。
聖花はそれ以上何も言わず、あからさまに不機嫌さをまき散らして教室を出ていった。
一方、その頃。
教室を後にした輝十達は、昨日の石碑前のベンチを陣取っていた。
相変わらず昼休みというのに、石碑のある屋上には他の生徒の姿が見当たらない。
「ここ穴場だよなぁ。他に人こねえし」
輝十がそう漏らすと杏那は苦笑した。
埜亞は二人がベンチに腰掛けたのを見て、どこに座ればいいかわからず、おろおろしていると、
「ん? なにやってんだよ、座れば?」
それに気付いたらしい輝十が自分の隣を手で叩き、座るよう促してくれた。
「あ、ありがとう、ございますっ」
埜亞は元気よくお礼を言い、そっと輝十の隣に腰を下ろす。
何事もなかったかのようにビニールからパンを取り出し、コーヒー牛乳のパックにストローを射している輝十を横目で見て、埜亞は急に顔が熱くなるのを感じた。
どうしてこんな私なんかに優しくしてくれるのだろう。なんで昼食も誘ってくれたのかな……。
輝十自身に深い意味はなく、三大式典で知り合ったのも何かの縁だし、腐女子ではないし、同じ学校に通う者同士仲良くやっていこうぐらいにしか思っていない。
しかしそんななにげない優しさが彼女の心の隙間を優しく包み込むように埋めていた。
さっきの聖花の時とは違う、嬉しさが込み上げてくる。どうして二人でこうも感覚が異なってしまうのだろう。
杏那は紙袋からチョコチップマフィンを取り出して口に運びながら、お弁当箱を膝の上でもそもそと開けている埜亞を見ていた。見ていたといっても決して“行動”だけを見ていたわけではない。杏那は杏那で彼女の心の移り変わりを察していたのである。
「埜亞ちゃんって自分で弁当作ってんの?」
「えっ!? あ、はい、です。ざ、座覇くんは……パン、ですか?」
「ああ。俺料理出来ねえし、母さんもいねえしな。男所帯だから」
「そう……なんですか……ご、ごめんなさい。へ、変なこと言って」
聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、埜亞は一人で落ち込み出す。
「いやいや! 別に気にしてないって! んな母さんいなくて寂しがるような歳じゃねえって」
杏那がうんうん頷きながら、
「輝十のお父さん、お菓子以外の料理も上手だし、単に弁当持っていくのが恥ずかしいだけだよ。だから黒子ちゃんが気にする必要ないない」
紙袋から再びマフィンを取り出す。
「てめえが言うとなんっかむかつくんだよな」
「えー? だって事実でしょ? これもおじさんがくれたやつだもん」
言って、杏那はマフィンを見せびらかしながら口に運ぶ。
それを見た埜亞は、言わねばと思っていたことを勇気を出して口にする。
「こ、このっ、間! も、もらったクッキー……すごく美味しかった、です。て、輝十くんのお父さんが作った、クッキー!」
拳を握り締め、力んで言う姿を見て、
「そ、そうか。ならよかった。ま、あんなクッキーでよけりゃいつでも食わしてやるよ。店やってるし」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。ケーキでもいいし、一応西洋菓子は一通りあるからよ」
箸を握り締めて、顔をあげる埜亞。ぐるぐる眼鏡で表情がはっきりわからなくとも喜んでいることぐらい雰囲気でわかる。
たったそれぐらいで心底嬉しそうにしてくれる埜亞が可愛く思え、輝十がほっこりした気持ちでいると、突然突風に煽られる。
その嫌な風に全身を煽られたのは、初めてではない気がした。
風向きが不自然で、まるで巨大な扇風機があるかのように屋上の入口から風が溢れ出ている。
「……せ、聖花?」
輝十が台風の目のごとく、風の中心部にいる人物を呼んだ。
何故怒っているのか輝十にも埜亞にもわからなかったが、明らかに穏やかではなさそうだ。
「!」
輝十は殺気を感じ、埜亞の腕を引っ張ってベンチの後ろに隠れる。突風に吹かれ、ベンチはガタガタガタと震える音を響かせる。
びくともしない杏那はめんどくさそうに溜息をつき、
「ちょっと時間稼いでくるから」
輝十ではなく、あえて埜亞に向けて言った。
首を傾げる輝十の横で、埜亞はその言葉の意味を必死で探る。
「あのさぁ、もう少し力を制御したらどうなの? 石碑なかったら人間死んでると思うんだけど」
向かってきていた聖花を通せんぼするかのように、杏那は目の前に立ちはだかって言う。
「う、うるさいわね! そもそもあんたがいけないのよ、妬類杏那!」
「えーなんで?」
「私が輝十くんとお昼一緒に食べようと思ったのに! ぬけがけして屋上に、しかもまたコテージガーデンなんかに連れ込みやがってェ……」
悔しそうに言う聖花に向けて、再び盛大な溜息をついてみせる杏那。
「あのねぇ、ちょっと考えればわかるでしょ。学園内ならここにいた方が輝十達は極力安全なんだから」
「それは! そうだけどぉ……」
杏那は歩み出て、
「ちょ、ちょっと! なにすんのよ! 気安く触るなバカ!」
聖花の背中を入口まで押し、屋上から追い出す。
「はいはい。落ち着いて。昼食なら後で交ぜてあげるから」
「キィィィィィ! なんっであんたはそう上から目線なのよ! どうせ見下してんでしょ、私が下級悪魔だからって……」
杏那から表情が消え、目の色が変わり、さすがの聖花もそれ以上何も言えなかった。
「ほんっと血の気が多いね、スクブスは。ちょっとは落ち着けないのかな」
「う、うっさいわね。ほっときなさいよ」
その言葉の通り、さっきからずっと怒鳴り散らしてばかりの聖花。
しかし杏那がまともに相手していないことに気付いたのか、気を落ち着かせ、核心に迫ることにする。