(2)
「うーん……」
輝十は頬杖をついて、移り変わる窓の外を眺めていた。
杏那の言っていた“覚えていない”が、どうしても引っかかるのである。
覚えていながら嘘をつき、自分に言わないだけなのか。それとも本当に覚えていないのか。
「悪魔ってそんなに物覚えわりいのかよ」
輝十は窓の外を睨むかのように目を細める。
そんなはずはない、と思うのである。もちろん悪魔について自分はよく知らない。しかし語り継がれてきた空想上の生き物として考えても、そんな簡単に記憶を失うようには到底思えなかったのだ。
「そのうち埜亞ちゃんに聞いてみるか」
彼女なら色んなことに詳しそうだしな。
きっと自分は知らないことだらけなのだ。彼らのことも、学校のことも、自分がどういう立場に置かれているのかも。
貞操を狙われたことをきっかけに、輝十の中で少しずつ関心が沸いてきていた。
櫻都市に到着すると、見ての通り地獄のような坂道が待っていた。これを生徒達が地獄坂と呼んでいることを知ったのは、ついさっきのこと。
もはや名物となりつつある、通学路の最後の難関である坂道の前で輝十は足を止めていた。
前回のような無意味な争いはもうしない、と心に決めている。
なによりあの散らかったものを片付けるとなれば、早々追いついてはこないだ……、
「今日はバスで行くの? 輝十」
と、思っていたら背後から聞き覚えのある声がし、振り返りたくない気持ちを押し殺して、ゆっくりと振り返る。
「おまえぇ……」
「あ、片付けなら終わったよん。輝十」
これが今の時代、悪魔が執事を行っているという所以か。人間とは思えない早業で片付けも準備も行い、尚かつこの場にやってきている。いつもこいつどうやって通学してんだよ。
しかし男性型に戻っているところを見るに、カロリーを消費しているということになる。片付けをしたのは本当だろう。
「そ、そうか。片付けが終わってるなら別に文句はねえ」
「うん、つまり一緒に通学しても問題ないよねぇ。輝十」
「てめえさっきから俺の名前呼びたいだけだろ!」
そんな定番となりつつある二人のやりとりに気付いた彼女は、自分なんかが話しかけていいものか悩み、ただそれを遠くから見つめていた。
仲良くしようと初めて言ってくれた彼――座覇輝十。
しかし仲良くするということは、具体的にどういうことなのか彼女にはわからなかった。
たった一言「おはよう」と声をかけることを躊躇ってしまうほどに。
遠目で見ていた彼女に輝十が気付き、手を振りながら声をかける。
「よう、おはよう」
埜亞は後ろを振り返り、左右を確認し、その相手が自分なのかを確認する。
「そんなにきょろきょろしなくても黒子ちゃんのことだよ。おはよー」
杏那の言葉に安堵し、埜亞は小走りで駆け寄って、深々と頭を下げる。
「お、おっ、おはよう、ございますっ!」
すると頭を下げすぎて、また頭部が地面についてしまい、
「ほんっと体柔らかいよな、埜亞ちゃん……」
輝十が関心と驚愕が混じった微妙な表情で突っ込む。
「そんなに頭下げなくていいのにねぇ」
杏那が輝十に同意を求め、埜亞は慌てて頭を上げる。
「えっ!? あ、は、はいっ。すみません……」
「いやいや、そんな謝らなくても」
「そうですよね、すみませ……あっ! ご、ごめんなさい! ああっ!?」
「まあまあ、落ち着いて」
輝十は慌てている埜亞を落ち着かせようと笑いかける。
「黒子ちゃんっていっつもあわあわしてるよねぇ」
「す、すみません……」
杏那の言うことはもっともだった。だからこそ埜亞は分厚い本を抱きしめてしゅんとしてしまう。
「おまえな、余計なこと言うんじゃねえよ」
「えー? 俺がいつ余計なことを言ったのかな?」
「存在が余計なんだよ! てめえは!」
埜亞は二人のやりとりを顔を隠した本の隙間から覗き、苦笑する。
もちろんその笑みは二人には見えていないし、埜亞自身も見せるつもりはなかった。
喧嘩腰だが、埜亞の瞳には二人が決して仲が悪いようには映らない。むしろ仲がいいからこそ、これだけ本音でぶつかれるのではないだろうか。
もちろん自分にはそんな“友達関係”については記述程度の知識しかない。
それでもこうやって側で見ていると感じるものがあった。
だからこそ思う。
ここに自分はいて、いいのだろうか……?
「どうした? 埜亞ちゃん」
「ふぇ!? や、いや……も、問題ないです。す、すみません」
固まっていたかと思えば、再び慌て出す埜亞。
「そ、その……お、お二人は、本当に、な、仲がいいんです、ね」
「どこが!?」
そのやりとりを黙って見ている杏那は、埜亞を横目で見るなり訝しむ。
「ま、婚約者だからねぇ」
「てめえは黙ってろよ、永久に」
「一生喋るなってこと? なにそれ、そんなマニアックなプレイが好きなの? インクブスの俺でもひくんだけど」
「いつ俺がプレイの話をしたんだよ!」
埜亞は喋るタイミングが掴めず、その勢いに圧倒されて、ただただ微笑んでいた。
「ったく、おまえが話に加わるとわけわかんなくなるだろーが」
輝十がぶつぶつ言いながらバス停に向かいだし、杏那もその傍らを歩いていく。
「……埜亞ちゃん?」
そして埜亞がついてきていないことに気づき、輝十は立ち止まって振り返る。
「え、あっ……その……」
埜亞は地獄坂の前から動こうとはせず、輝十達と地獄坂を交互に見た。
「バス、来ちゃうぜ。乗んねえの?」
輝十がバス停を指しながら言うと、埜亞は唇を噛みしめて言うか言うまいか躊躇う。
「今日はもう俺らも競争しないからねぇ。人間の体力じゃ結構きついんじゃない? その坂。黒子ちゃんもバス乗ろうよー」
そして杏那までもが誘ってくれている。
きっとこの場合は二人のご厚意に甘えても罰は当たらないだろう。むしろ甘えたい、そう心の奥で自分が思っていることくらい埜亞は気付いていた。
それでも、
「わ、私……あ、歩いて行きます、ので」
彼女はこう言うしかなかった。
優しくしてくれる、話しかけてくれる、そんな二人を好いているからこそ。
そしてなにより自分自身がバスに乗ることなど、出来るはずがなかったのである。
私なんかが乗っていいはずがないのだから……。
「え? マジ? 今日もこれ歩くのかよ」
どんよりした顔で言う輝十に向かって、埜亞は両手で掴んだ本を左右に振り、
「は、はい。な、なので、座覇くん達は……バスで……」
「座覇くん達は、ねぇ」
その言葉を意味深げに杏那は復唱し、埜亞をしげしげと見ていた。
「なに言ってんだよ。だったら俺らも歩いて行くって。なぁ?」
「女の子が歩くのに俺だけバスで行くなんてかっこわりいだろーが! って輝十は言いたいんだよねぇ」
肩をすくめながら通訳するように言う杏那の胸倉を掴み、何か言いたげに顔を真っ赤にする輝十。
「ええっ!? で、でも……そんなぁ……」
埜亞が俯いてしまったのを見て、輝十は杏那から手を離して向き合う。
「おまえさ、気ぃ遣いすぎなんじゃねーの」
「……え?」
「謝ってばっかだしよ。んな、バスだの歩くだのぐれえで何そんな落ち込んでんだよ」
「は、はい、です……」
言った側から落ち込んでしまった埜亞を見て、輝十は難題の解けない浪人生のごとく、声をあげながら頭を盛大に掻きむしる。
そんな輝十の代わりに、杏那が輝十が言いたかったであろうことを直球で言ってやった。
「もう俺ら友達なんだからさ、そんな気にしなくていいんだよ」
「と、とも、だち?」
そうそう、と頷いていた輝十はおかしな点に気付いて、はっとなる。
「俺と埜亞ちゃんは友達だが、おまえは違うだろ」
「空気って読める? あ、そっかー輝十はお猿さんだから読めないのかー困ったなー」
「てんめえ……!」
友達……? 私が座覇くん達と、友達?
埜亞は何度もその言葉を脳内で繰り返していた。二人のやりとりが効果音程度にしか聞こえない程に。
友達……それはつまり一緒にいてもいい、ということだろうか。仲良くすることと、友達でいること、どう違うのだろうか。
彼らにとって、自分はどう映っているのだろうか。
埜亞の心を嬉しさと恐怖が覆い隠す。今までに感じたことのないその感情からは戸惑いしか生まれず、彼女はどう受け入れればいいかわからなかった。
分厚い本を抱きしめたまま、小刻みに震えている埜亞。
輝十に胸倉を掴まれて揺らされながらも、杏那はその変化を見逃さなかった。