(2)
「そこに座りなさい、輝十」
「は?」
家に帰ると卒業式から先に帰宅していた父が玄関で何故か正座していた。
「つーか、なにやってんだよ。んなとこで」
「いいから、座りなさい」
「……おい。今度はなにしやがった?」
輝十は知っている。自分の父がこんな真摯な顔つきをするような人間ではないこと、こういう時は何か裏があるに違いないということを。
「まさかまた店の金を女に使ったとか言わねえだろうな」
「それとこれは別だろう」
「図星じゃねえかよ! てめえ!」
輝十は父の胸倉を掴んで上下に揺するが、父は余裕の薄ら笑いを浮かべるだけで悪いという認識はゼロのようである。
「あれほど店の金には手をつけるなと! 潰すつもりか!」
「かつて母は言っていた。男はいくつになっても女を追う生き物なのよ、と」
「もしかして母さんがいないのって、死んだんじゃなくて逃げられたんじゃねえだろうなおい!」
父は輝十の手を払いのけ、わざとらしく咳払いする。
「いいから、とりあえず座りなさいって」
輝十は父を睨み付けながら仕方なくその場で胡座をかいた。
西洋菓子店を営んでいる父からは、相変わらず甘い匂いが漂っていた。甘い匂いのするおっさんなんて気持ち悪いだけである。輝十は幸い母親似だ。
「改めて。卒業おめでとう、輝十」
「あ? ああ、どうも」
「これから高校生になるおまえに話がある」
「女子高生紹介しろとか言ったら小麦粉詰めにするぞ」
「もちろんそれもあるが……それより先に話すことがあるんだよ」
不機嫌さを隠さない輝十は、胡座をかいた上に頬杖をついて完全に上の空だった。
こんなクソ親父の話なんぞ、まともに聞く方が損するに決まってる!
そんな無駄なことに時間を費やす必要ははない、と考えた輝十はとりあえずおっぱいについて考えることにする。
あの母性の象徴であるおっぱいというものは本当に素晴らしい。おっぱいが嫌いな男なんてこの世にはいないはずだ。巨乳派、美乳派、貧乳派……色々あるが、そんな派閥をつくること自体が馬鹿げている。おっぱいがある、それだけで素晴らしい。小さな膨らみも大きな膨らみもすべて同等に素晴らしいものなのだ。おっぱいに求められるものはその膨らみの存在であり、そこに弾力や柔らかさが加わるわけだが、それもみんな違ってみんないい。つまりおっぱいというものは、あの膨らみを見てわかるように揉む為に存在し、吸われる為に存在し、だからこ……、
「実はおまえには婚約者がいるんだ」
「…………は?」
さすがの輝十もおっぱいのことは一旦忘れ、その言葉に反応を示した。
「フィアンセがいる、と言ってるんだよ」
「何言ってんだ、親父。あれか? フィナンシェと同じ焼き菓子の類か?」
「うむ、それはフィアンセを焼き菓子のように食べたいという承諾と性的意識で間違いはないな?」
「どこをどう解釈したらそうなんだよ!」
輝十はがばっと立ち上がり、うんうんと頷いている父を見下ろして叫んだ。
あまりの突然すぎる発言に輝十は理解出来ず、また父の頭が更にアレな感じになってしまったのかと疑わずにはいられない。
「婚約者、フィアンセ、つまり許嫁ってことだ」
「……いい奈良漬け、じゃなくて?」
「俺は生憎、たくあん派なのでな」
「聞いてねえよ! つーか、どういうことなんだよ。なんだよ婚約者って!」
父は腕を組んで呻りながら悩ましい顔をする。
「うーん、なんだと言われてもな。婚約者だとしか」
「勝手に決めてんじゃねえよ……」
輝十は反論することに疲れたと言わんばかりに、その場で項垂れた。
「なんだ、好きな女でもいるのか?」
「べ、別にそういうんじゃねえよ。ただ勝手にんなこと決められて黙ってらんねえだろ! 俺は認めねえからな!」
「いいか、輝十」
地団駄を踏んで子供のように怒りを露わにする輝十に、父は子を諭すような優しい口調で。
「こういうのを“運命”というのだよ」
「てめえが勝手に決めただけだろーが! もっともっぽく言うんじゃねえよ!」
父の胸倉を掴み、上下左右に思いっきり揺らす輝十。
「だってぇーどうしようもなくなーい? 助けたお礼におまえをやるって約束しちゃったんだしぃー」
「それが本音かてめえええええ!」
揺さぶられすぎて目が回ったらしい父が玄関でぐったり倒れ込む。輝十は息を切らしながら親の敵を見るような目で親を上から睨み付けていた。
「まあとりあえず会ってみろって。同じ栗子学園に入学することになってるから」
「……おい、それってもしかして」
父は玄関の床に這いつくばったまま、輝十から目を逸らしてわざとらしく口笛を吹く。
輝十は無言で父の腰を踏む準備に取りかかる。
「待って! 待つんだ! 腰は辞めるんだ! 俺のヘルニアが暴れ出す!」
父は亀がひっくり返るかのように仰向けになって、手を振りながら輝十に待ったをかける。
「とりあえず会うだけ会って見ろって! 妬類杏那っていうんだが、凄い美人なんだぞ?」
「へえ。で?」
「待って! 待つんだ! 腹は辞めるんだ! 俺の胃腸炎が暴れ出す!」
すぐ上まで落ちてきた輝十の足に抱きついて、父は必死に訴えかける。
「もしかしたらおまえ好みに成長してるかもしれないだろ? 後は自分の目で確かめればいい。おっぱいとかおっぱいとか、おっぱいを」
輝十は足を退けて、深い溜息をついて諦めた。
「親父が勝手に決めたんだ。俺は認めねえからな! 以上」
言って、輝十は部屋に向かう。
父はあたたた、と腰をさすりながら起き上がり、後ろ姿からでも苛立ちが感じ取れる輝十を見て苦笑いを浮かべた。
「運命、か。そうさせているのは俺か、それとも……」
輝十はいらいらしながら自分の部屋に戻り、必要以上に大きな音をたててドアを閉めた。
そして雪崩れ込むようにベットに寝転ぶ。
「なんだよ、婚約者って。何勝手に決めてんだよ、ふざけんじゃねえええええ!」
怒りをぶつける相手がおらず、枕を抱きしめて寝返りを打つ。
この家には父と輝十しかない。母は他界し、姉は放浪癖があってほとんど家にはいなかった。実質二人暮らしである。
特にやりたいことも、夢もない、だからといって特に捜す気もない。
輝十は今時といえば、今時の学生だった。だからこそ進学先を決める時も学費を払ってくれるのは親だということもあって、父と担任に相談した結果、これから通うことになる栗子学園に決めたのである。
そこに婚約者がいる……だと? どう考えても仕組んでたんじゃねえかよ!
そうとしか思えず、輝十は遺憾に思う。そもそもそういう父親なので、進路相談なんてした時点で間違っていたのかもしれない。
「妬類杏那……か」
もちろん輝十とて年頃の男の子である。人並みに彼女が欲しいだとか、彼女を脱がしたいとか、あわよくばこの聖なる童貞を捧げてしまいたい、とか思わないわけがなかった。
全く興味がないわけではない。婚約者として認めたわけじゃないし、すぐすぐ付き合うつもりにもなれない。
「美人かそうじゃないかなんて大した問題じゃねえ」
それでも輝十は思う。
「重要なのはおっぱいだろ、俺的に考えて」