(9)
「!」
フレームが外れ、そこに広がるのはいつも以上に広大な視界。曇った世界ではなく綺麗にくっきり見える世界。
空気を肌で感じ、髪を撫で、光が自分を照らしているような気さえする。
そして直に感じる――その場にいる人達の視線。
埜亞の小さな体はぷるぷる震え始めていた。目からは涙が溢れて零れそうになり、下唇を噛んでそれを堪えようとしている。
「の、埜亞ちゃん……?」
その状態を心配する輝十だったが、それ以上に埜亞が想像以上に可愛らしい女の子だったことに驚いた。
眼鏡をとったら美少女、なんていうベタな展開はよくあることだ。しかしそれに加えて彼女はフードを深々と被っていたのだから、正直顔なんて全くわからなかった。気付いていたのは、おっぱいが大きいということぐらいである。
きっと一度もいじっていないであろう真っ黒な髪は、光を反射して輝くほど艶やかだった。ボブヘアーというよりおかっぱと表現した方が的確だろう。人を選ぶ真っ直ぐに揃えられた前髪もよく似合っている。
それだけの可愛らしい容姿とおっぱい兵器を持ち合わせていながら、何を恥ずかしがることがあるのだろう。
輝十はそう思っていたのだが、埜亞にとってはフードと眼鏡をとられるということは一生一度の一大事だった。
それを身をもって思い知るはめになる。
「い、い、いっ……」
俯いてぷるぷる小刻みに震えながら、握った拳を胸の前で振り、必死に堪えてはいるものの……、
「おい? おーい、埜亞ちゃん? ちょ! 待っ……」
それが爆発するであろうことは、何度も目の当たりにしている“輝十には”安易に想像出来た。
「くる!」
耳を抑えた輝十が叫んだ頃には、時既に遅し。
「イヤァァァァァァァァァァッ!」
あの殺人ボイスが突き刺すように響き渡った。
よっぽど素顔を晒されたことがショックだったのだろう。格段に威力が増している。
「な、な、なにするんですかぁあっ!?」
叫んで少し冷静を取り戻したのか、尽かさずフードを被って眼鏡を装着。そして怒気を含んだ声色で、涙を拭きながら杏那を責める。
「ごめんごめーん。それより眼鏡を拭いても涙は拭けないんじゃない?」
「ほ、ほっといてくださいっ!」
カチャカチャと眼鏡のレンズを一生懸命擦っていた埜亞は顔を真っ赤にして、杏那の胸元をとんとん叩く。
「まあまあ、落ち着いて。ほら、見てごらんよ」
杏那は埜亞を宥めながらヘッドホンを外し、その状況を見るよう目配せする。
「ひっ!」
口元に手を添え、その残骸を目にする埜亞。その片隅で、
「なに食って育ったらそんな声が出んだよおまえ……」
目を白黒させ、ふらふらしながら立ち上がる輝十の姿があった。
「ざ、座覇くん! だ、だいじょうぶ、ですか!?」
「ああ、耳以外はな。……って、あれ? 体が動く!」
手をぐーぱーぐーぱーさせながら、自分の体が自由になったことを確認する。
「どういうことなんだ? これは」
埜亞の声に絶えられたのは輝十とヘッドホンをしていた杏那だけだった。その場にはまるで殺虫剤をかけられた虫のように、蠢きながら気を失っている女子生徒達と聖花の姿があったのである。
「わ、わた、私っ、なんてことを……」
あわあわしている埜亞の肩に手を置き、杏那がそれを手を振って否定する。
「悪魔にとって攻撃的な音波になるよう、黒子ちゃんの声に予め俺の力をちょっと上乗せさせてもらったんだ。人間で言うと黒板を引っ掻いたような音を何倍にもしたようなやつ?」
杏那はテーブルに置いていた紙袋を再び手に取り、中からチョコクッキーを出してみせる。
輝十と埜亞は揃って引きつった顔をしていた。想像もしたくない音だからだ。
「悪魔的に……ねえ」
輝十が意味深に呟き、そんな輝十を埜亞が見つめ、杏那はわざと首を傾げて見せた。
「ま、とりあえずここじゃなんだから移動しよーよー」
チョコクッキーを口に運びながら背を向ける杏那。
埜亞は輝十に視線を送り、どうするのかを窺っている。その輝十はというと、
「おいどうすんだよ、こいつら」
倒れたままの三人を眺めながら杏那に問いかけた。
「んー? ああ、放っておいても大丈夫大丈夫。俺ら頑丈だから」
杏那は振り返りもせず言って、そのまま臨時食堂を出ていった。
「ざ、座覇くん……」
急かすように埜亞が輝十の名を呼び、
「んあああああもう! 大丈夫つっても放ってはおけねえだろ!」
頭をわしゃわしゃ掻き乱し、一人一人臨時食堂の入口に運ぶことにする。
「そ、そう、ですよねっ!」
それを見た埜亞は口元を緩め、女子生徒達の足を持ってそれを手伝った。
「ああ、心配すんな」
「え……?」
埜亞が女子生徒の足を持ったことに気付き、輝十は突然声をかける。
「俺、パンツ興味ないから」
「ええっ?」
言って、女子生徒の脇の下に手を入れ、胸の前で手を組んで運んでいった。
埜亞の立ち位置だとパンツを拝むことが出来るだろうが、どう考えてもおっぱいに手があたるこっちの位置の方が俺得だ。
二人は淡々と臨時食堂の入口に三人を運び出した。
「とりあえず廊下に出しときゃなんとかなるだろ」
ふぅ、と汗を拭う仕草をしながら手の感触を確かめる輝十。
「人助けに見せかけて実はおっぱい触りたかっただけだよねぇ、輝十くんって」
壁にもたれかかって輝十達を待っていた杏那が冷静に突っ込んだ。
「おまえな、俺をなんだと思ってんだ」
「おっぱい星人」
「そうだ、俺はおっぱい星からやって来たおっぱいの素晴らしさを伝道するための使者である」
腕を組んで頷きながら、まるで政治を語るかのような口調で言う輝十を無視して、
「黒子ちゃんいこいこー」
「え? えっ!?」
杏那は埜亞を誘って先に歩き出し、埜亞は輝十と杏那を何度も見比べて困っていた。
「おい! 無視すんな!」
使者の務めを語っているうちにどんどん先に進んでいく杏那に気付き、怒りながら追いかける輝十。
それを見て埜亞は安心し、ほっと胸を撫で下ろして二人の背中小走りで追った。
「うん、ここなら丁度いいね」
杏那の後を追って辿り着いたのは、高いフェンスに囲まれた緑色の地――屋上だった。
校舎が洋風で高級感溢れている割に、屋上は割と一般的だった。もちろんフェンスが異常に高いところや、所々にベンチが備わっていたり、石碑のようなものがあったり、と突っ込みどころはある。それでも地面が見慣れた緑色でふにふにした感触がする、というだけでなんだか安心するのだった。
「誰もいねえんだな、昼休みだってのに」
周囲を見回しながらベンチに腰かける輝十。
「うーん、ここは石碑があるからかな」
言って、杏那は輝十の横に腰掛ける。
「え、え、えっとぉ……」
もちろんベンチにはあと一人、しかも女の子が座るぐらいのスペースは十分ある。しかし多少は密着せねばなるまい。
埜亞は残されたスペースに自分なんかが座っていいものか、と立ったまま葛藤していたのだった。
「ん? なんだよ、座ればい……」
「黒子ちゃん。せっかくだからそのまま講義したげてよー」
輝十の声を遮って、杏那が埜亞の分厚い本を指しながら提案する。
「講義ぃ? つーか、黒子ちゃんって誰だよ黒子ちゃんって」
「黒子ちゃんは黒子ちゃんだよ。ね、黒子ちゃん?」
二人の視線が同時に突き刺さり、分厚い本で顔を隠したままおどおどする埜亞。
「彼女が教えてくれるってさぁ。輝十くんのわからないカタカナについて」
「お、そうか! そりゃ助かるぜ。わっけわかんねえんだよ。なんかもう全部!」
埜亞はそれを聞いて意を決したのか、ゆっくり本を下ろして開いた。
「わかりました! 頑張ってみますっ!」
中から一本のチョークを取りだし、緑色の地面に絵を描いていく。
「まず“ピルプ”ですが、これは私や座覇くんのこと、つまり“人間”を指します」
埜亞が人間とは思えない、幼児レベルのイラストを描いていく。
「いやでもよ、それ見た感じ妖怪じゃね?」
「に、人間ですっ! このイラストはイメージです!」
その画力でお菓子のパッケージだったら、イメージと違いすぎてかなりクレームくるだろうなぁ、なんて思いながら輝十は黙って耳を傾ける。
「そして妬類くんやあの女子生徒達は“悪魔”で“淫魔”です」
「はい、先生!」
手をあげる輝十の名を恐る恐る呼ぶ埜亞。
「淫乱な悪魔と書いて淫魔、つまりそれですか?」
顔を真っ赤にして二の句が継げずにいる埜亞をフォローするかのように、
「男の姿をしているものを男性型淫魔“インクブス”、女の姿をしているものを女性型淫魔“スクブス”っていうんだよん」
その次を説明する杏那。
「インクブスは言わば人間の男と大差ないよ、見た目が美しいだけで」
「スト―――――ップ!」
輝十が尽かさず杏那の言葉を遮る。
「なにー?」
「見た目が美しいだけで、に意義あり!」
「はぁ? どう見たって美少年でしょ、俺。一人猿の惑星が何を反論しようっていうのかなー?」
「ひ、一人猿の惑星!?」
聞き捨てならない語句に反応した輝十が杏那の胸倉を掴み、
「お、落ち着いてくださいぃいっ!」
慌てて止めに入ろうとする埜亞。
埜亞の介入で二人は一旦離れて落ち着きを取り戻す。そして杏那が補足を続ける。
「ま、スクブスよりマシってこーと。スクブスはほんっとえげつないもん。あれこそ淫乱だし、下品だし、精をなんだと思ってんのかねぇ」
ほとんど後半は愚痴のようで、同じ悪魔でも型によって不仲なんだということが理解出来る。
呆れながら杏那が語り終えたのを確認し、埜亞が続きを説明する。