(2)
「ねーってば、俺は別に喧嘩する気なんてさらさらないんだけど」
と、杏那が言ったところで睨み付けたまま動こうとしない輝十。
二人の視線が無言で交差する。
「もう、ちょっと聞いてるー?」
杏那は輝十と拳を交える気は一切なかった。しかし輝十の方はすっかりいきり立っており、まともに話を聞いてくれそうにない。
杏那は全く緊張感がなく、めんどくさそうに深い溜息をつく。
「で。俺が勝ったらどうしてくれるわけー?」
「あ? んなもん勝ってから言えよ!」
「んー勝つから言ってるんだけどなぁ」
前髪をいじりながら答える杏那。
また見せるその余裕な態度に、輝十ははらわたが煮えくりかえる。
と、その瞬間――
「!」
輝十の視界から杏那が消え、その代わりに目前に枕が飛んでくる。
杏那が投げた枕が輝十の顔面目がけて飛んできたのだ。
「はんっ、こんな目くらまし……!」
輝十は難なく枕を避け、恐らく枕の後にくるであろう杏那の攻撃に備えて神経を研ぎ澄ませる。
「家が壊れないといいんだけど」
「なっ!」
しかし杏那の拳も蹴りも襲ってはこず、その声の先を見て仰天した。
それは一瞬。
ベットのスプリングを利用して飛び上がった杏那は天井を蹴り、輝十の背後に逆立ちで降り立つ。
しかし輝十も反射神経はいい。即座に振り返って杏那の攻撃に備えたが、既にその場には杏那はいなかった。
「えっ!?」
と、杏那は腕の力だけで更に飛び上がり、輝十の頭上をこえて更に背後をとったのだ。
「こっちこっち」
杏那は肩をつんつんと叩いて、振り返った輝十の頬に人差し指を突きさす。
頬に指がめりこむ感覚がし、輝十は視線の先にある杏那の笑顔を見て二の句が継げない。
速すぎて見えなかった……だと?
パターンは読めていたのに、動きが速すぎてついていけなかったのである。
俺が? この俺が!?
輝十は呆然として、その場でへたり込んでしまう。
「はーい、俺の勝ちぃ。文句ないよね?」
後頭部で手を組み、左足の臑を右足で掻きながら余裕綽々に言う杏那。
「そうだな……俺の負け……だなッ!」
「っと!」
その余裕の隙をつき、輝十は屈んだまま杏那の足を蹴り飛ばす――が、杏那は飛んでそれを避け、そのまま屈んで輝十に同じ技をかける。
「同じのに引っかかるわけねえだろ」
言って、輝十は飛んで避けてバク転し、距離をとろうとするが……、
「わっ!」
足下に落ちていた雑誌で足を滑らし、背中からベットに倒れ込んでしまう。
「さて。もう逃げれそうにないですけど、どうします?」
杏那はベットに飛び乗り、輝十を押さえつけるように胸元を踏みつける。
自分を見下ろす杏那を今すぐにぶっ殺してしまいたかった輝十だが、どう考えても戦況は不利だ。
「ここで輝十くんに白雪姫と同じことしたら、それこそショックで一生起きれなくなっちゃいそうだよねぇ」
「そのまま踏みつぶされた方が何億万倍もマシだ!」
「なーんでそんな怒ってばっかなのかなぁ、輝十くんって」
「いッ!」
「あ、ごめんごめーん。もちろんわざと!」
胸元を踏みつけている足に力を入れる杏那と呻き声をあげる輝十。
「何回やっても戦況は同じだと思うけど。もう無駄な争いは辞めたら?」
「うるせえ黙れ話しかけんな」
輝十はぷいっと顔を逸らして口を尖らせる。
杏那は苦笑しながら足を退けて肩をすくめた。
「んだよ、踏みたきゃ踏めよ」
「なにそのドM発言。踏んで欲しいならどこでも踏んであげますけどー」
「ちっ、ちげえ! ああもう!」
輝十は子供のように怒鳴り散らしながら枕を投げ付けた。
「……いって」
「?」
その枕はまともに杏那の顔面に命中してしまう。
今まで散々自分を超えるような身体能力を見せつけておいて、あんなもの避けることも掴むことも出来るだろうに。わざとだろうか。
「もうだめ……そろそろエネルギー切れ」
「は?」
居間から父の呼び声がしたのは、杏那が輝十のベットに倒れ込んだ時だった。
「遠慮はいらん。今日は沢山作ったからいっぱい食べてくれ」
呼ばれて居間に向かうとテーブルの上には三人分とは思えない量の食べ物が並んでいた。
その真ん中には父が作ったであろう大きなケーキもある。
「おい、親父。誰がこんなに食うんだよ」
「誰ってみんなでだろう」
「三人しかいねえんだぞ?」
輝十がもっともなことを言っている側で、しれっと席に座る杏那。
「おーまーえーなー」
「だってお腹すいたんだもん。いいじゃーん、早く食べようよ」
「そうじゃーん、早く食べようよ」
「同じ口調で言うな気持ちわりい!」
席についた父が杏那の口調を真似て言うので、輝十は尽かさず突っ込んだ。いい歳した加齢のおっさんが男子高校生の真似してんじゃねえよ!
仕方なく輝十が席に着くと小さなパーティーが始まった。
もちろん輝十はパーティーだなんて思っていない。クリスマスかよと突っ込みたくなるような三角帽子を被った父が一人で騒いでいる。
輝十は一切無視して、黙々と食事を進めた。
「このケーキは二人の入学祝いと杏那くんの同居祝いを兼ねて、今日帰って来て急いで作ったんだよ」
「ケーキは美味しいしカロリー高いから助かるなぁ。おじさんの作ったチョコレートはないのー?」
「あるある、もちろん作ってあるよ。後で出してあげよう」
そんな父と杏那の会話は一切聞こえないふりをして、輝十は黙々と食事を続ける。
父と杏那は揃って輝十を見て、顔を見合わせた。
ごほん、と父はわざとらしく咳払いし、
「輝十、ならばおまえに話をしてやろう」
「いや、結構」
「それじゃ話が続かんだろう!」
「どーせまた尻と太ももはおっぱいより優れているって話だろ? いらねえよ」
輝十は父に一切の視線もくれず、ご飯を口に運んでいく。
「違うぞ、輝十。今回は真面目な話だ。杏那くんが何故おまえの婚約者なのか、という話だ」
ぴた、と輝十の箸が沢庵の前で止まった。
「なんと杏那くんは父の命の恩人なのだ。な、杏那くん」
「んーそうだっけ?」
本当に身に覚えがないといった感じで、杏那が首を傾げる。
「そうだよ! そうだったよ! そしてお礼に俺の息子をやると決めたのだ」
「スト―――――ップ!」
輝十が勢いよく箸をテーブルの上に置いたので、テーブル上のすべての味噌汁が、ばしゃん、と音をたてて揺れた。
「おかしいだろ! その時点で!」
「どの辺りがおかしいというのだ」
「何でお礼に自分の子供を売るんだよ! しかも男に息子を売るな!」
「ははは。俺の息子といってもだな、その息子ではないんだぞ?」
「知ってるよ!」
「親父ギャグ……」
杏那が味噌汁をすすりながら、じと目で呟く。
「ごっほん。とにかくだな、そういうことでこういうことになったのだ」
「それで納得しろって方が無理な話だな」
輝十は呆れかえって溜息をつき、再び食事を再開させる。
「じゃあこういうのはどう? おじさんの息子は諦めて、俺の息子にしてみるとか」
「てめえは話に入ってくんじゃねえ!」
「ちょっとーご飯粒飛ばしながら喋るの辞めてよね」
怒鳴った輝十の口から飛んできたご飯粒を心底嫌そうな顔で取り除いていく杏那。
そんな二人のやりとりが父には、父にだけは、仲睦まじく見えたのだ。
「いつか……いつか、理解出来る日がくるんだよ、輝十」
その言葉だけは様子が違っており、深くそして重く、感情がこもっていた。いつものお調子者な父らしからぬ顔つきで。
「ったく……もう俺はしらねえ。勝手にやってろ」
もう付き合いきれねえ。好きにしやがれ。
輝十はかきこむようにご飯を口に入れて飲み込んでいく。
そして父がケーキにロウソクをたてて火を灯し始めた時、
「ごちそうさまでした」
輝十は手をあわせ、箸を置き、茶碗を重ねて席を立つ。
「おい、輝十」
「もうお腹いっぱいだから」
流し台に茶碗を置くなり、二人の存在を無視して部屋に戻っていく。
「……悪いね、杏那くん」
「ああいや俺は別に。それより輝十くんって栗子学園がどんな学校かわかってます?」
「うむ、全くわかっておらんだろうな」
「ふーん、つまり“俺ら”のこともまーったくわかってなかったり?」
父は深々と頷いた。
もちろん杏那は承知の上である。
きっと輝十は自分のことを“人間の男”として見ている。人間の男をあそこまで嫌う理由が杏那にはわからなかったが、もし“事実”が伝わったとしても輝十の自分への評価は変わらないだろう。最低と最悪の違いぐらいにしかない。
からかいすぎたのだろうか。杏那はまさかここまで嫌われるとは思っていなかったのである。
「ま、面白いからいいんだけどねーん」
婚約者なんていう人間特有の形式的なものは、杏那にとってどうでもよかった。むしろそんな約束すら忘れていたのである。
しかしあんなに本気で嫌がるところを見てしまったら、からかいたくなってしまうというもの。
「少し驚かせてやろっかなー」
杏那は自分の分と輝十の分のフォークと皿を父に差し出した。