(22)
「あれ、夏地さんはー?」
「トイレ行くって言ってたけど」
周囲をきょろきょろしながら一茶が聖花に問うが、聖花は悠然とグラスに注がれたドリンクを口にした。
「一人にしてだいじょうぶー?」
「大丈夫でしょ、子供じゃあるまいし」
聖花は素っ気なく返して、目の前のケーキを食べることにする。
トイレにすら一人で行けないようじゃ話にならない。それにペアの誰かさんはやたら埜亞に入れ込んでいることを聖花は気付いている。何かあれば彼が動くはずだ。
「ふーん、冷たいんだぁー」
そう言う一茶に、
「あのね、ベタベタするばかりが女友達じゃないのよ」
子供を諭すように言った。
一方で、トイレを終えた埜亞は道に迷っていた。
「ど、どっちだろう……」
あわあわしながら進むと全く違う方向に進んでしまい、余計に迷ってしまう。二つの学園が合同で長期泊まれるほどの宿泊施設であり、設備も整っている。それだけ部屋も多く、迷路のようになっていた。
幸い学園の所有している無人島の施設なので、他の客がいるということはない。なので変なおじさんに絡まれるということはないが、生徒だけでも結構な数が宿泊しているわけで。
「おい」
「!」
突然、背後から肩を叩かれ、埜亞はびくぅ! と大げさに驚いた。
「いやいや、驚きすぎだろ」
「は、はい! す、すみ、すみません!」
埜亞は振り返って、肩を叩いてきた男子生徒に大きく頭を下げる。頭上が地面につくほどの大きなお辞儀に、さすがの男子生徒もひいていた。
「おまえ、ここでなにしてんの?」
「ひえぇっ!?」
見知らぬ男子生徒に声をかけられ、埜亞は反応に困ってしまう。しかも見たことがない男子生徒……きっと守永学園の生徒だ。
茶色に染まった髪に所々金髪が交じっている。
「ふ、ふ、ふ……りょう……!?」
「はぁ?」
埜亞にはそんな彼の姿が不良にしか映らなかった。
乱雑に染められた髪に少しずらしたズボン……手を腹部に当てており、服が捲れてそこからはパンツのゴムが見え隠れしている。埜亞は目線に困り、俯いてしまった。
鋭い目つきをしており、まるで肉食動物のような雰囲気を感じたのだ。
「なに? 俺がこわいわけ?」
しかしそんな埜亞の反応を楽しむかのように、埜亞を壁に追いやっていく男子生徒。
「ひいっ……」
埜亞は恐怖のあまり、腕で顔を隠した。男子生徒は八重歯を見せて不敵に笑い、埜亞に顔を近づける。
「人間の女のいい匂いがする……雌の匂い」
ぞわっと怖気が走り、しかし相手が悪魔だとわかると好奇心が沸き上がる埜亞。
勇気を降り出して顔をあげ、男子生徒を見据える。
「あ、あの! あなた、悪魔なんですか!?」
「ああ、そうだよ。人狼って知ってる? あれだよあれ、赤ずきんちゃん食べちゃうやつ」
「狼さんなんですね!?」
突然、積極的になった埜亞に困惑しながらも男子生徒は楽しげに続ける。
「そうだよ。狼は人間の女の子が大好きなんだわ。言ってる意味、わかるよね?」
言って、埜亞の両手を掴んで壁に抑えつける。
「…………え?」
もちろん埜亞にはその意味がわからなかった。悪魔は怖くないし、むしろ自分にとっては大好きな存在。怖いと思ったことはなかった。だからどうして自分が震えているのかがわからずにいる。
今、自分はこわいと感じている――この掴まれた手首も、迫り来る男子生徒の顔も、なにもかも。
「い、いや……!」
顔を避けることが精一杯の埜亞の抵抗だった。無意識に彼から顔を避けたのである。
こわい、やだ、ちがう……そんな気持ちがぐるぐるとどろどろと埜亞の脳内で渦を巻く。
「なにしてるの?」
男子生徒の唇が頬を伝おうとした、その時だった。通りがかった男子生徒が異様なその光景を目の当たりにして、声をかけてきたのである。
「女の子は嫌がってるみたいだけど」
男子生徒はそんな声かけを無視し、埜亞の手を引っ張って連れ去ろうするが、
「あのさ、なにしてるの? って聞いてるんだけど」
その声には静かな怒気が含まれていた。綺麗な透き通った声が低く発せられている。
「…………ッ!」
男子生徒は舌打ちし、埜亞の手を雑に振り払ってその場を去って行く。その様子を確認し、声をかけた男子生徒が埜亞に歩み寄った。
「大丈夫?」
男子生徒は長めの髪を片方だけ耳にかけ、そこだけ赤色に染められている奇抜な髪色をしていた。こういうカラフルな髪型をしている人は悪魔なのかな? と思ってしまう埜亞だったが、なんとなく違う気がしていた。
男子生徒は心配そうに埜亞を見て、乱れた髪の毛を撫でる。
「怖かったね、もう大丈夫だから」
「あ、あの! 助けて下さってありがとうございますっ!」
埜亞は勢いよく礼を言い、頭を下げようとして男子生徒に額を人差し指で止められる。不思議そうに顔をあげて男子生徒を見ると気さくな笑みを浮かべて手を振った。
なぜマスクをしているのか気になった埜亞だったが、もしかしたら風邪気味なのかもしれないので問わなかった。笑みを浮かべているのは目元と声色で充分にわかる。
「いいよいいよ、そんな気にしないで。人間同士なんだし」
「い、いえっ! でも本当に助かったので……ありがとうございます」
お辞儀をすると止められてしまうので、埜亞はもう一度お礼の言葉を口にした。
「でもまたなんでこんな人気のないところに?」
「お、お手洗いに行った帰り、道に迷ってしまって……」
埜亞は頬を染めて恥ずかしそうに俯いてスカートを掴んだ。一人でトイレも行けないだなんて恥ずかしい。聖花さんに怒られちゃう……。
「そっか、じゃあ会場に戻るところ? 案内しようか?」
「い、いいんですかっ!?」
「うん。また迷って襲われたら大変だしね」
「す、すみません……」
男子生徒はしゅんと俯いてしまう埜亞を横目に見ながら言う。
「むしろ謝るのはこっちだよ。うちの学園の生徒の失態なんだし」
やっぱり見たことがないと思ったら、この人も守永学園の人なんだ。
埜亞が自分に少しの興味を持ちだしたことに気付いた男子生徒は、言葉をかける前に微笑みかける。
「俺さ、あの会場の空気が苦手で抜けてきたとこなんだよね」
「わ、わかりますっ。私も実はああいう場は苦手というか、慣れてなくて……」
苦笑しながら頬を掻く埜亞。
もちろんああいう華やかな場所には憧れていたし、初めて参加出来て本当に嬉しかった。
でも実際始まったらどうすればいいのかわからないのが本音だ。グラスを持って立ったまま、どうすればいいかわからないし、声をかけることはもちろん声をかけられてもどうすればいいかわからなかった。
聖花の背に隠れ、気まずくなってはグラスに口をつけ、そんなことを繰り返していたら少し疲れてしまったのだ。
そこでトイレで休憩しようと思って会場と出たところ、迷って戻れなくなってしまったのである。
だから彼の気持ちはよくわかったし、同じことを思っている人がいることに埜亞は親近感を抱いていた。
「んーじゃあさ、いいところがあるんだけど一緒に行かない?」
「え……?」
「大丈夫、ちゃんと交流会が終わるまでには戻るから」
男子生徒はきょとんとしている埜亞の手を掴み取る。
その頃、相変わらず食べながら女子生徒の胸元を観察することに没頭していた輝十は、飲み込む寸前で背中を何者かに叩かれて大きく咳き込む。
「ぐはっ! んごほ、ごほ……」
息苦しそうにする輝十を見て、その元凶はけたけた笑う。
「なにやってんだよ、輝十」
「相変わらずだな、輝十」
聞き覚えのある二つの声に反応し、息苦しさで意識が朦朧とする中、振り返ると、
「お、おまえら!?」
そこには中学の唯一の友人である赤井と青井が立っていた。驚きのあまり、飲み込む為に含んだ水を吹きだしてしまう。
「あ、わりぃ……でもほら、お互い様だろ?」
輝十の口から放出された水で濡れた赤井が怒りで戦慄き、青井がそれを隣で見て笑いを堪えている。
そんな懐かしいやりとりも久しぶりだ。男子生徒に狙われる奇妙な中学校生活を送った自分に、唯一対等に接してくれた貴重な男友達。
「守永学園! そうか、思い出したぜ! なんか聞いたことある名前だと思ってたんだよ。おまえらが通ってる学校だったのか!」
赤井と青井は顔を見合わせる。