(19)
訓練場を出てすぐの段差に座り、生ぬるい風に当たりながら涼む。
「気分はどう……?」
慶喜は心配そうに買ってきた水を埜亞の目の前に差し出した。
「あ、ありがとうございます。なにから、なにまで、本当にごめんなさい……私……」
あからさまにしゅんとしてしまう埜亞を見て、慶喜が弱々しく微笑んだ。
「そんなに誤らないで。組んでもらったのは僕の方なんだし」
そう言って、埜亞を不安にさせないよう笑顔を向けると手元のコーラを口にする。
その笑顔に覇気がない。まるであの時のように、何かに追い込まれているかのように――埜亞はその笑顔を目の当たりにして、そう思った。
だからこそ余計に言わなければ、と思ったのだ。今ここで、少しでも彼との距離を縮める為に。
「あ、あの……もしかしたら前も言ったかもしれませんけど……」
「?」
ペットボトルに口をつけたまま首を傾げる慶喜を前に、埜亞は力んだ様子で、
「け、敬語! 敬語辞めませんか!? 私なんかにそんな丁寧な言葉使わなくて大丈夫です!」
身を乗り出して捲し立てる。
勇気を振り絞って言ったせいか、それを口にした後ほっとした顔をしたのを慶喜は見逃さなかった。思わず噴き出してしまう。
「ひえっ!? わ、私! な、なにか変なこと言いました?」
「ううん、違うよ。そんな“私なんか”なんて言わないで。ね?」
そう言って、タオルで埜亞の額に光る汗を拭ってやる慶喜。
「あなたには敬意を払わざるを得ない。深く傷つけたのに全も助けてもらったしね」
埜亞は首を横に振る。
「そ、それだと……せっかくペアになったのに、千月くんが遠い気がして……」
どうしてだろう。彼はいつも笑顔を向けてくれるのに、優しくしてくれるのに、遠い。凄く遠くて、何故か悲しい人。
埜亞は慶喜の横顔を見て、複雑な気持ちになる。また彼は何か隠しているような、そんな気がして。
その視線に気付き、慶喜ははっとする。
「わかった、夏地さんがそう言うなら普通にするよ。俺のことも慶喜でいいから」
「そ、それは!」
埜亞は頬を赤らめて困った顔をし、口ごもってしまう。彼女にとって名前を呼ぶという親しい間柄の特別な行為は、高貴で難易度が高いのだ。
予想通りの反応を示す埜亞を優しい片目で見つめ、
「だから……俺も下の名前で呼んでもいい?」
同意を求める。
「その方が親しい友人っぽいかなって」
決して強制ではなく、流れに任せて頷いてしまうような言い方で。
埜亞はそのたった一言で恥ずかしさよりも嬉しさが上回ったようで、大きく頷く。
「そうですねっ! 私もそうします!」
慶喜のその言葉が嬉しくて仕様がない様子で、無邪気に返事をした。
友人、か……。
自分で言っておいて、慶喜はその言葉を深く噛みしめる。寂しげに無邪気に微笑んで水を飲み出す彼女の横顔を見つめた。
ペアになった今、彼女の気持ちが痛いほど流れ込んでくるので嫌でもわかるのだ。
彼女はまた自分を心配してくれている……友人として。
「なに考えてんだろうね、俺は」
そんな贅沢なこと、言える立場じゃないのに。
埜亞に聞こえない程度の声量で呟き、空になったペットボトルを握りつぶした。グシャッとペットボトル特有の無機質な音が手の平の中で痛々しく鳴く。
それよりも、彼女を守らないと。
一日のカリキュラムが終わり、終わったペアからそれぞれ部屋へ戻っていく。
「先輩達、本気出し過ぎだろ……」
すっかり外が暗くなるまで扱かれた輝十はぶつぶつ文句を口にしながら、重い体を半ば無理矢理動かして部屋に戻るところだ。
「もうみんな部屋に戻って準備してる頃だっつーのによ」
「俺達も早く着替えてパーティーホール行かないと。ね、微灯さん」
「……え? あ、ああ、そうだな」
杏那が気を遣って菓汐に声をかけるが、菓汐が気まずそうに小さく頷くだけだった。
それを見て輝十は苦い顔をする。輝十もまたどう対応すればいいかわからず、あえていつも通りを装っているつもりだった。しかし女性経験が皆無な輝十が上手く装えているはずもない。
ギスギスした空気が漂っており、それをいかに溶かすかを杏那が思案するが、異性間の問題はそう簡単にはいかないだろう。話を振るのと変えるぐらいがやっとだ。
「守永学園との交流会でしょ? やだなーほんっとやだなーあいつに会うと思うと胃が重い」
「あいつ?」
珍しく弱音を吐く杏那に輝十が反射的に問い返す。
が、杏那がその問いに答える間もなく、エントランスホールを通り抜けてA棟に向かおうとしたところで埜亞を発見した。
「お、埜亞ちゃん!」
埜亞の姿を見つけ、輝十が声をかけると埜亞は嬉しそうに振り返った。
「座覇くん! お疲れさまっ」
埜亞の姿に釘付けになっていたせいで、自然と余計なものが視界からシャットアウトされいたのだろう。だから慶喜が埜亞の傍らにいることに気付いた時、輝十には驚きと動揺が同時に駆け巡った。
なんであいつらが一緒に? そう思った時にはその答えが視界に嫌でも入り込む。慶喜の左の薬指には指輪が光っていたのだ。
さすがの輝十も埜亞のペアが慶喜であることを察した。
「あ、あの、慶喜くんが私と組んでくれて」
独りにならなかった、その報告を埜亞は輝十達にしたかったのだ。深い意味はもちろんない。そんなことは輝十もよくわかっている。わかっているけれど、今日はわかりたくなかった。
なんとなく、そう感じられなかったからだ。
「また後でね、埜亞」
「うん、またね」
慶喜は埜亞に手を振り、埜亞もまた手を振る。慶喜は何事もなかったかのように輝十の横を通り過ぎて行った。
「座覇くん達もまた後でねっ」
埜亞は輝十達にも恥ずかしそうに手を振り、B棟へと駆けていく。
「……輝十?」
固まって動かなくなってしまった輝十を気遣い、杏那が気まずそうに声をかける。しかしその声は輝十の耳まで届かなかった。
今、あいつ埜亞ちゃんのこと呼び捨てしてたよな? しかも埜亞ちゃんもあいつのこと下の名前で……この短期間に一体何があったんだよ。たった数時間であんなに距離が縮むもんなのか……?
ショックを隠しきれないでいる輝十を見て、彼女はいたたまれない気持ちになった。もうここにいたくない、いれない、逃げ出したい。
「座覇、私も行くよ。またな」
平然を装って、菓汐が声をかけるなり背を向ける。
「え? あ、ああ! うん! また後でな!」
明らかに動揺している様子の輝十は元気なく手をあげ、それを確認した菓汐はB棟に向かっていった。
その様子を見ていた杏那は眉間に皺を寄せ、怒気を含んだ声色で、しかし穏やかに言う。
「なに、あからさまに動揺してるのさ」
「えっ!? い、いや……だってよ……」
「千月慶喜と黒子ちゃんの距離か縮まってたから?」
「…………」
図星で何も言えない輝十は子供のように口を尖らせた。
そうだ、その通りだ。俺はショックを受けてる。自分でもびっくりするぐらいダメージを受けてる。堪えきれない、やり場のない悔しさに飲み込まれてしまっている……。
杏那は小さく溜息をついた。
「仮とはいえペアなんだから当然でしょ。嫉妬するのは勝手だけどさぁ」
「し、嫉妬って! 別に俺は!」
杏那は涼しげな顔で輝十の胸元を指す。
「別に? 別になに?」
「あ、いや……」
そういえばこいつらには考えや気持ちは筒抜けなんだったな。こいつ、ら……?
「!?」
輝十は何かに気付いたようで、慌ててB棟を見た。しかしその相手の姿はもうそこにはない。
「もう遅いよ、今頃はっとしても」
菓汐にも筒抜けだったんだ。さっきの俺の気持ち……俺はなんてことを……きっと彼女を傷つけたに違いない。
「なんかあいつには悪いことしたな……」
「でもそればっかりは仕方ないよ。輝十の気持ちは輝十の気持ちだからね」
「それはそうだけど、よ」
慶喜と埜亞のやりとりを見て、自分が凄く嫌な気持ちになった。黒く、濁った、嫉妬という気持ちに苛まれた。それをきっと菓汐も感じたはずだ。勝手に人の気持ちが流れ込んでくるというのは、どういう気持ちなんだろう。きっとそれは計り知れないほど痛いはずだ。いやそれ以上に……。
そう思うと胸が締め付けられる。
確かに俺の気持ちは俺の気持ちだ。でも俺の気持ちで菓汐を傷つけ続けるのは嫌だ。じゃあ一体どうすれば……?
杏那はあからさまに落ち込んだ様子の輝十の背中を押す。
「ほら、もう時間ないんだからさぁ。とりあえず部屋戻ろうよ、部屋」
そして半ば無理矢理歩き出させた。その場で立ち止まってしまわぬように。