塀の犬 :約3000文字 :ホラー
――おっ、今日もいるな。
夜の住宅街。仕事を終えて家路についていた男は自然と頬を緩めた。
視線の先にあるのは古びた一軒家。庭はまったく手入れされていないらしく、雑草が競うように背を伸ばし、土が見えないほど密生している。低いコンクリートブロックの塀には縦格子の柵が取り付けられており、ところどころ赤サビが浮いていた。
その柵の隙間から、一匹の犬がひょっこりと顔を覗かせていた。
舌を出し、見るからに人懐っこそうな顔。近くの街灯の光に照らされ、その瞳だけが暗い住宅街の中できらきらと光っていた。
男はある晩、この犬の存在に気づいて以来、この道を通るのを密かな楽しみにしていた。本当は他に自宅に近い道があるのだが、たかが数分程度の短縮にすぎない。それに、あの犬の姿を見ると仕事で疲れ切っていた心と体がふっと緩むのだ。
家の端から歩き始めると、犬も塀の内側に沿って並ぶようについてくる。男が角を曲がれば向こうも同じように曲がり、がさがさと雑草を揺らしながら敷地の端から端まで追いかけてくるのだ。
こちらが立ち止まれば向こうも足を止め、歩調を速めれば小走りになってついてくる。一歩下がれば、また同様に。こちらの動きを面白がって真似しているように見えた。
吠えられたことは一度もない。いい遊び相手とでも思われているのかもしれない、と男は考えていた。
「またな」
角を曲がってその家を後にするときには、犬は塀際までぴったり寄り、格子の隙間から鼻先を覗かせてじっとこちらを見つめる。その姿が名残惜しそうにしているように見えて、男はいつも微笑ましく思うのだった。
ある夜のこと。
男はいつものようにその家の横を歩いていた。犬もまたいつものように塀の内側を並走し、がさがさと雑草を掻き分ける音が静かな夜道に小さく響いていた。男は犬の顔を見下ろし、にっこりと微笑んだ――が、ふと足を止めた。
男は周囲を見回した。もう遅い時間帯だ。人影はなく、家々の窓から漏れる明かりもまばらだった。車の通りもなく、あたりは静まり返っている。聞こえるのは犬のかすかな息遣いくらいだった。
男はもう一度周囲をよく確認すると、にやっと笑い、柵に近づいた。
――ちょっと撫でるぐらいならいいだろう。
柵の前まで歩み寄ると、犬は塀に体をぴたりと押し当て、上目遣いに見上げてきた。
男がここまで近づくのは初めてだった。しかし、犬に警戒する様子は見られない。吠えられもしなければ、歯を剥き出すこともなかった。
男はほっと息をつき、家のほうへちらりと目をやった。窓は暗く、物音も聞こえない。飼い主は留守か寝静まっているようだ。男はそれを確かめると、柵の隙間へゆっくりと手を差し入れた。
だが、その瞬間だった。胸の奥にほんの小さな違和感が芽生えた。何がどうと説明できるほどでも、手を引っ込めるほどでもない、ほんのかすかな引っかかりが。
男は深く考えず、そのまま手を伸ばした。
指先が犬の頭に触れた瞬間、滑らかな毛の感触が返ってきた。男は思わず笑みを漏らし、続けて毛並みに沿って頭頂部から首のほうへとゆっくり撫で下ろした。ほんのりとしたぬくもりが手のひらからじわりと伝わってくる。その熱で張り詰めていた心が少しずつほどけていくようだった。
さらに背中へ手を滑らせようとすると、犬が一歩後ろに下がった。だが嫌がったわけではないらしい。犬はもっとここを撫でてというように頭を突き上げてきた。
男はますます頬を緩め、わしゃわしゃと頭を撫でつけた。親指で眉間をなぞり、耳の付け根を揉み、指先で額を掻く。犬は気持ちよさそうに目を細め、頭を預けていた。
やがて犬は嬉しそうに頭を振りながら、また一歩後ろに下がった。男はそれを追うようにさらに手を伸ばした。
――あれ、そういえば……。
ふと、先ほど胸の奥に芽生えた違和感が蘇った。
男は塀にぴたりと脛をつけ、身を乗り出すようにして柵の内側を覗き込んだ。
その瞬間だった。
犬が嗤った。
実際に笑ったのかどうかはわからない。ただ、男にはそう見えた。口角が裂けるほどに持ち上がり、その目には人間じみた光が宿っていた。
次の瞬間、犬が何かを吐き出した。
男は反射的に手を引いて避けようとした。だが、間に合わなかった。吐き出されたそれが腕にべたりと張り付き、直後、男はぐんと身体ごと前へ引き寄せられた。
胸が柵に叩きつけられ、鈍い衝撃が身体の奥まで響いた。
息が詰まり、男は呻きながら視線を落とした。
それは吐瀉物ではなかった。
犬の口から吐き出されたのは、粘液に覆われた太い紐のようなものだった。まるで生き物の筋肉のように赤黒く、先端は木の根のように幾本にも枝分かれしながら男の腕に絡みついていた。
男は「ひっ」とか細い声を漏らしながらもう片方の腕を伸ばし、指でつまんで一本ずつ引き剥がそうとした。しかし、外してもまるでヒルのようにすぐに別の箇所に張りついた。さらには指までも絡めとろうとしてくる。
男は塀に足をかけ、身体ごと後ろへ引こうとした。
そのときだった。手首にべたりと絡みついた。犬の目と耳からも粘性の紐が伸びてきたのだ。
そういえば、これまで一度も胴体を見たことがなかった――男はそのほんの小さな違和感の正体に気づいた。
柵を乗り上げ、内側へと引きずり込まれ、塀の裏側を見たその瞬間に。
そこには犬の口から吐き出されたものと同じ粘着質の物体が、塀の端から端までびっしりと張り巡らされていた。太い筋と細い筋が幾重にも絡み合い、一つの巨大な肉塊となって脈打つように蠢いている。街灯のかすかな光が濡れた表面を照らし、粘液の膜が湿った光沢を返していた。
肉壁がぶるりと震えた。
直後、踏みつけられた雑草が起き上がるように、無数の筋がゆっくりと男の顔めがけて伸びた。
◇ ◇ ◇
「ぱぱー、あそこにもワンちゃんいるよ!」
「ああ、本当だね――あっ、だめだめ。触らないよ」
とある夜、犬の散歩中の親子。塀の向こうに犬の姿を見つけた子供は弾かれたように駆け出したが、父親に制されるとぴたりと足を止めて振り返った。
「なんでー?」
「ダニやノミがいるかもしれないから。庭も全然手入れされていないみたいだし……というかここ、廃墟じゃないかな――あっ、すみません。おうちの方がいらしたとは……なんでそんなところに、あ、いえ、ははは」
父親は慌てて子供に駆け寄りながらそう言った。ばつが悪そうに頬を掻き、「かわいいワンちゃんですね」と塀の向こうに愛想を振る。
「ねえ、撫でてもいい? いいでしょー?」
父親の様子など気にも留めず、子供は無邪気に尋ねた。
「あはは、すみません。よろしいですか……? あ、ありがとうございます。ほら、そっとだよー」
「うん!」
子供は嬉しそうに柵に近づくと、小さな手を格子の間に差し入れ、犬の頭をそっと撫でた。
「あったかーい」
「ふふふ、いい子ですねえ。何歳くらいですか? ……ん? なんです? すみません、よく聞こえなくて……あの、え? 下ですか? 下に何か……」




