第二十七話 Hello!
夕方になり、グウジさんたちも帰った。
もうすぐお母さんが私を迎えに来るはずだ。
私服に着替えを済ませて社務所で待っている。
英会話教室などという、おしゃれかつ大人の世界に飛び込むのだから、
当然お気に入りのワンピとジャケット着用である。
「今日、美希ちゃんの英会話教室に行くのよね?」
そわそわとしている私に佳乃さんが声を掛ける。
「はい、もうすぐお母さんが迎えに来てくれるかと!」
「送り迎えがあるから大丈夫だと思うけど、真っ直ぐに帰ってくるのよ。遅くなると明日の朝が辛いからね」
こくこくと頷く。
ふふっと笑顔が返ってくる。
お試しだし、何も持って行かなくてもいいらしいのだが、実家からノートとペンを持ってきてもらうように伝えてある。
こつこつ。
カーテン越しに、社務所の小窓が叩かれる。来た来た。
きっとお母さんだろうと思ってカーテンを開けてみると、お父さんが覗いている。
「あれ、送ってくれるのって、お父さん?」
窓越しにうんうんと頷いているから、どうやらそうみたい。
「よ、佳乃さん、それでは、私、英会話教室に出発します!」
ビシっと気を付けの姿勢で出発の報告。
佳乃さんはいつも通りにこにこ。
「そんなに気を張らないでも大丈夫よ、どうしても遅くなるようなら連絡してね」
はい、と大きく挨拶して社務所を出る。
「お父さんお待たせ、ノート持ってきてくれた?」
「大丈夫、持ってきてるよ」
薄い手提げ鞄を持ち上げて言う。
まあ、鞄というか、お母さんがスーパーに持って行く、花柄の買い物袋である。
ダサいなと思いながらも、持ってきてもらった手前、私は文句を言える立場ではない。
「今日お母さんが送ってくれるのかと思ってた」
「たまには紗凪の顔を見たくてね」
「ふーん。子離れできてないなー」
「そうさ、まだまだお父さんでいたいからね」
恥ずかし気もなく良く言えたものだと感心しながら、階段を下りて車に乗り込む。
英会話教室は最寄り駅の側にある。最寄りと言っても、それは隣町。
車で三十分近くはかかるから、自転車などで行くとなると、かなりの労力が必要なのだ。
バスなど一時間に一本あるか、ないかだしな。
久しぶりの父と二人だけの車内は非常に気まずい。
おしゃれして来たつもりなので、余計に。
さて、どうしたものか。
「嬉しいね、紗凪が英語を勉強したいなんて言い出してくれて」
父が沈黙を打開するように言う。
「神社には、案外海外のお客さんも多いんだよねー。私もちょっとは話せるようになった方がいいかなってさ」
照れ隠しで大げさな言い方になったが、決して嘘ではない。
「紗凪は勉強熱心だねぇ」
ははっと笑う父に、まあね、と軽口を言ってみせる。
決して、美希さんに誘われたから、などと言ってはならない。
今日はこの後も、“出来る大人の振る舞い”をせねばならんのでな。
自己を鼓舞してこそ、戦に挑めるというもの。
駅の近くの小さなビルに“ネイティブ英会話教室”と大きく書かれた看板。
間違いなくここだろう。
「じゃ、じゃあ、八時になったら迎えに来て」
「ああ、わかった。頑張ってな」
「い、言われなくても!」
ノートが入った買い物袋を肩に担ぎ、胸を張って入口をくぐる。
「こ、こんばんはー……」
入口を入ってすぐの廊下に、小さな受付。
誰も座ってなくて、ここで合っているのかと心配になってくる。
「こ、こんばんは!」
誰も出てこない。不安になって逃げだしたくなるのをぐっとこらえる。
目の前には“御用のある方は鳴らしてください”と、ベルが置かれている。
これはもう鳴らすしかない。勇み足で入ってきたのだ。逃げることは許されん。
い、いざ!大人の扉を開かん!
ちーん!!
思った以上の音量でビビる。
いや、しかしこれでいいはずだ!来たのだ、私が!逃げも隠れもしない!
ぶるぶる震えていると、隣の部屋の扉が開いて、金髪の女性が顔をのぞかせる。
年配とは言えないが、若いというのも違うような、大人の女性。
「はい、いらっしゃいませ、何か御用ですか?」
「あの、み、美希さんに紹介を受けて、体験入学に来ました!」
「Oh! Welcome to our English school!」
(オー、英会話教室へようこそ!)
笑顔で笑う女性。
いきなり言語が切り替わって度肝を抜かれ、放心。
「You’re a bit early. You can sit over there and wait.」
(少し早いから、あちらに座って待っていてもいいよ)
「あ、あの……」
な、なんて言っているんだ!?
ウェルカム以外一切意味が分からない。
どうしよう、でも何か言わなければならない気もする。
「は、はろー」
一気に赤面してくる。しかし、口に出したものは後には引けないのだ。
「Hi! Don’t worry, you’re fine.」
(ハーイ!大丈夫、大丈夫!)
女性が笑顔で出て来て、私の肩を抱きながら廊下に並んだ椅子に案内する。
距離が近くてドキドキ。たぶん座っていなさいってことだろう。
笑顔で部屋の中に戻っていく女性。
ああ、また知らない世界に来てしまったのではないだろうか。
ぼんやりと考える。




