コピーの才能
人は、誰かを理解したとき、
その人に一歩近づいた気がする。
癖を知り、考え方を知り、
どうしてその選択をしたのかがわかると、
世界は少しだけ優しくなる。
けれどもし——
理解することで、相手の力を使えてしまうとしたら。
理解することが、相手の居場所を奪ってしまうとしたら。
それでも、人を理解したいと思うだろうか。
これは、
「使える力」を持ちながら、
「使わないこと」を選び続けてきた少年の物語。
そして、
その選択を静かに壊していく、
たった一人の親友との出会いの話だ。
相馬理人は、周囲から見れば「器用な人間」だった。
運動も、勉強も、人付き合いも。
何かを頼まれれば、そつなくこなす。初めて触れることでも、二、三度見れば形になる。失敗は少なく、無駄がない。教師からは「飲み込みが早い」、同級生からは「要領がいい」と言われる。
それは、半分は正しくて、半分は致命的に間違っていた。
放課後の校舎。
夕日が窓ガラスをオレンジ色に染め、廊下に長い影を落としている。
理人は一人、体育館の裏手に座り込んでいた。コンクリートの冷たさが制服越しに伝わる。掌を見つめる。何度も、何度も見慣れた自分の手。骨張っていて、特別な形はしていない。
――できる。
頭の中で、誰かの動きが再生される。
さっき見た先輩のフォーム。力の入れ方。重心の移動。呼吸のタイミング。
再現しようと思えば、できる。
だが、理人は立ち上がらない。
「……やめとけ」
誰に言うでもなく、呟いた。
胸の奥が、ひりつくように痛む。
それは恐怖ではない。焦りでもない。もっと嫌な感覚――自分が自分でなくなる予感だ。
理人は昔から、人をよく見ていた。
それは努力というより、癖に近い。
表情の変化、言葉の選び方、歩く速さ、怒る前の沈黙。気づけば頭が勝手に拾っている。
そして、理解してしまう。
理解した瞬間、体が“知っている”と錯覚する。
筋肉の動きも、思考の流れも、「そう動けばいい」と自然にわかってしまう。
それが、相馬理人の能力だった。
誰かを深く理解することで、その人の“力”を一部使える。
完全ではない。長くも続かない。それでも、十分すぎるほどだった。
――だからこそ、使いたくなかった。
教室では、今日も同じ光景が繰り返されていた。
「相馬、これできる?」
「理人ならいけるでしょ」
「ちょっと手伝って」
頼られる。期待される。
それに応えられる自分が、そこにいる。
でも、理人の中ではいつも疑問が渦を巻いていた。
――これは、俺の力か?
黒板の前で問題を解くときも。
体育で見本をやるときも。
誰かの代わりに役割をこなすときも。
頭の中には、必ず「元」があった。
誰かのやり方。誰かの考え。誰かの才能。
それを、なぞっているだけ。
緑色のノートに走り書きされた文字を、理人は何度も消しては書き直していた。
《自分の力って、何だ?》
答えは出ない。
能力を使えば楽になる。
周りは喜ぶ。結果も出る。
でも、そのたびに胸の奥が空洞になる。
――ヒーローになりたいのに、力の使い方がわからない。
そんな言葉が、ふと脳裏をよぎった。
昔見たアニメの主人公の姿が、重なる。
力はある。だが、それをどう使えばいいのかわからず、苦しみ続ける少年。
理人は、あの少年が羨ましかった。
悩んで、悩んで、それでも前に進もうとしていたからだ。
自分はどうだ?
使える力から、目を逸らしているだけじゃないのか。
放課後の校庭で、誰かがボールを蹴る音が響く。
笑い声。呼び声。生きている音。
理人は立ち上がり、影の中に身を置いた。
――コピーは、オリジナルになれない。
そう信じていた。
誰かの人生を理解し、なぞることは、
その人の努力や選択を奪うことだと思っていた。
昔、一度だけ。
「助けたつもりで、壊してしまった」経験がある。
それ以来、理人は決めた。
この力は、使わない。
使ってはいけない。
たとえそれが、正解への近道でも。
夕日が沈み、空が紫に変わっていく。
一日の終わりが、静かに訪れる。
その日、相馬理人はまだ知らなかった。
自分が「使わない」と決めたその力を、
心から「使いたい」と思う相手に出会うことを。
そしてそれが、
自分の人生を決定的に変えることを。
このときは、まだ。
夕方の空気は、昼の名残と夜の気配が混ざり合って、どこか落ち着かなかった。
相馬理人は帰宅途中、普段は通らない裏道を歩いていた。
理由はない。
強いて言えば、今日は誰とも話したくなかった。
住宅街と商店街の境目。古いビルが並び、昼間でも人通りが少ない路地。アスファルトには細かいひびが走り、電柱の影が歪に伸びている。
――嫌な場所だな。
そう思った瞬間だった。
怒鳴り声が、空気を裂いた。
「だから金出せっつってんだろ!」
反射的に足が止まる。
路地の奥。視線の先に、三つの影が見えた。
壁際に追い詰められているのは、見知らぬ少年だった。制服姿。理人と同じくらいの年齢。
取り囲んでいるのは、明らかに年上の男たち。酒の匂いが、ここまで流れてくる。
――関わるな。
頭の中で警鐘が鳴る。
スマホを出して通報すればいい。そうすべきだ。賢い選択だ。
なのに。
少年の目が、一瞬こちらを向いた。
怯え。
混乱。
それでも、逃げようとする意志。
その表情を見た瞬間、理人の頭は勝手に動き始めていた。
――ああ、こいつ……
観察。理解。
足の位置。距離。相手の体重移動。男たちの癖。
一人は右利きで踏み込みが雑。もう一人は短気で、先に手が出る。
そして、壁際の少年。
――殴られ慣れてない。
――でも、立とうとしてる。
理解してしまう。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……最悪だ」
理人は、深く息を吸った。
使わないと決めた。
もう二度と、と思った。
でも、ここで目を逸らしたら。
それこそ、自分は何者なんだ。
「やめろ」
自分の声が、思ったより低く響いた。
男たちが振り向く。
「あ?誰だお前」
「関係ねぇだろ」
理人は前に出た。
足が勝手に動く。思考より先に、体が答えを出している。
一人目が殴りかかってくる。
理人は避ける。
――いや、“知っている動きで”流す。
二人目の蹴り。
角度、速度、タイミング。
最小限の動きでいなす。
視界が研ぎ澄まされる。
音が遠のく。
――やめろ、これは俺の力じゃない。
心の中で叫びながら、それでも動く。
男の腕を取って体勢を崩し、もう一人との距離を作る。
完璧じゃない。
それでも十分だった。
数秒後。
男たちは舌打ちを残し、逃げるように去っていった。
路地に残ったのは、静寂と、荒い呼吸音だけだった。
理人はその場に立ち尽くしていた。
手が、微かに震えている。
――使ってしまった。
助けた。
でも、その事実よりも先に、嫌悪感が胸を満たす。
「……大丈夫か」
自分でも驚くほど、平坦な声だった。
壁際の少年は、しばらく呆然としていたが、やがて顔を上げた。
そして。
「すげーな、お前」
その声には、恐怖よりも、純粋な驚きがあった。
「え、何あれ? 喧嘩慣れしてんの? それとも武道? いや絶対違うよな? タイミングおかしかったし」
間髪入れずに、質問が飛んでくる。
「どうやった? どこで覚えた? 今の見た? あの人の顔!」
理人は、完全に面食らっていた。
――怖がらないのか?
普通なら、怯える。距離を取る。
なのに、この男は。
「なあなあ、名前は? 同じ学校? いや違うか、見たことないし」
息継ぎすらしない勢いで、少年は笑った。
「俺、真田直哉。助けてくれてありがとうな!」
屈託のない声。
握手を求めるように差し出された手。
理人は、その手を見つめた。
――理解できない。
恐怖の直後なのに。
力を見せつけられた相手に対して。
この男は、距離を詰めてくる。
「……相馬、理人」
短く名乗ると、直哉は目を輝かせた。
「相馬! マジでさ、さっきのもう一回できる?」
「できない」
即答だった。
「えー!? なんで!?」
「……理由がある」
直哉は少し考えてから、にっと笑った。
「じゃあさ、理由ごと教えてくれよ」
その言葉に、理人の胸が、わずかにざわついた。
理解しようとしないのに、踏み込んでくる。
真似しようともしないのに、興味だけは本物。
――なんなんだ、こいつ。
夕暮れの路地で、二人の影が並ぶ。
この出会いが、理人の「使わない」と決めた世界を、静かに壊し始めていることを。
まだ、誰も知らなかった。
路地を抜けるころには、空はもう紺色に沈みかけていた。
街灯が一つ、また一つと点き始める。
「なあ相馬、家どっち?」
真田直哉は、さっきまで命の危険があったとは思えないほど軽い足取りで歩いている。
その横を、理人は半歩遅れて歩いた。
「……逆」
「そっか。でも途中まで一緒な」
断る理由はあった。
関わらない方がいい。深入りするべきじゃない。
それなのに、理人は何も言えなかった。
沈黙が流れる。
だが、直哉はそれを気にする様子もなく、ぽつぽつと話し始めた。
「さっきのさ、俺ほんとヤバいと思っててさ。殴られる直前、変に冷静になったんだよ。あ、これ逃げ遅れたなって」
理人は、横目で彼を見た。
「でもさ、怖かったかって言われると、そうでもなくて。むしろ悔しくてさ。何もできない自分が」
――ああ。
その感情は、理人にも覚えがあった。
「だからさ」
直哉は歩きながら、空を見上げた。
「助けてくれたのが相馬で、よかった」
その言葉は、驚くほどまっすぐだった。
理人は足を止めた。
「……俺は」
「うん?」
「別に、正義感とかじゃない」
「知ってる」
即答だった。
「正義感ある奴は、もっとカッコつける」
理人は思わず息を詰まらせた。
「相馬はさ、やりたくなさそうな顔してた。でも、それでも動いた。そういうの、嫌いじゃない」
理解されている。
だが、コピーされていない。
その感覚に、理人は戸惑った。
別れ道に差し掛かる。
「じゃあな、相馬」
直哉はあっさりと言った。
「連絡先、交換しとこ。命の恩人だし」
拒否する理由は、あったはずだった。
だが、気づけばスマホを取り出していた。
画面に表示された名前を見て、理人は小さく息を吐く。
――真田直哉。
その日から、二人の関係は始まった。
もっと正確に言えば、切れなかった。
最初は、直哉からの一方的な連絡だった。
《今日さ、また変なのに絡まれた》
《相馬ならどうする?》
《今度、ちゃんと礼させてくれ》
理人は短く返すだけだった。
《知らない》
《自分で考えろ》
《別にいい》
それでも、直哉は連絡をやめなかった。
違う高校。
生活圏も、友人関係も違う。
それなのに、会話は不思議と途切れなかった。
ある日、電話がかかってきた。
「今、大丈夫?」
夜十時。
理人は机に向かっていた。
「……何」
「いや、声聞きたくなって」
意味がわからない。
「今日さ、部活でミスってさ。俺、やっぱ才能ないなって思って」
理人は黙って聞いた。
直哉は、何かを期待しているわけではなかった。
解決策も、慰めも求めていない。
ただ、話している。
それが、理人には新鮮だった。
――理解しなくていい会話。
能力は発動しない。
再現も、必要ない。
ただ、聞いているだけ。
気づけば、通話時間は一時間を超えていた。
それからは、習慣のようになった。
毎日ではない。
でも、二日に一度。三日に一度。
気がつけば、毎日のように電話をしていた。
学校のこと。
将来のこと。
どうでもいい話。
「相馬ってさ、器用だよな」
「……そう見えるだけだ」
「それが器用ってことだろ」
週末には、会うようになった。
街の端にあるファミレス。
ゲームセンター。
特に目的はない。
ただ、同じ時間を過ごす。
理人は、直哉を理解しようとしなくなっていた。
正確には、理解できないと知った。
直哉は、再現できない。
能力が反応しない。
でも、それが不思議と心地よかった。
――コピーできない相手。
――奪えない存在。
親友、という言葉は、まだ使われなかった。
だが、確かにそこに、名前のない関係が育っていた。
依存ではない。
恋でもない。
競争でもない。
ただ、隣にいる。
夜、電話を切ったあと、理人は自分の手を見つめる。
あの力は、確かに自分の中にある。
消えたわけじゃない。
でも今は。
「……使わなくても、いいか」
そう思える時間が、確かに増えていた。
相馬理人は、まだ知らない。
この関係が、
いつか自分に「使わない」と決めた力を、
再び選ばせることになるということを。
相馬理人は、まだ答えを持っていない。
自分の力が正しいのか、
使うべきなのか、
それとも、存在してはいけないものなのか。
ただひとつ確かなのは、
彼が出会ってしまったということだ。
理解しても、再現できない男に。
奪うことも、代わることもできない存在に。
この出会いは、奇跡ではない。
運命でもない。
ただ、
「使わない」と決めた少年が、
「それでも使いたい」と思ってしまう未来への、
最初の引き金にすぎない。
答えは、まだ先にある。
——物語は、ここから始まる。




