本能寺の変(わった)
天正10年(1582年)6月2日 早朝 —— 京・本能寺周辺
都の空は、まだ群青色に沈んでいた。
湿った朝霧が、馬のたてがみと兵の鎧を濡らす。一万三千の明智軍は、歴史を変えるという重圧と興奮で、異様な熱気を帯びていた。
先頭に立つ明智光秀は、愛宕山で詠んだ連歌を反芻していた。
(時は今……。そうだ、我こそが天下を統べる器)
信長は無防備だ。供回りはわずか百名足らず。
堀も石垣もない本能寺など、紙細工のように燃え落ちるだろう。完璧な奇襲。勝利は約束されている。
光秀は、手綱を強く握りしめ、腹の底から裂帛の気合いを迸らせた。
「我が敵は……本能寺にあり!!」
鬨の声が上がり、水色桔梗の旗印が波濤のように押し寄せようとした、その刹那である。
大地が、揺れた。
ドンドンドンドンドン……!
法螺貝と太鼓の音が、前方からではなく、「四方八方」から響き渡ったのだ。
「な、なんだ!?」
光秀が馬を止めるのと同時に、後方の物見の兵が、泥だらけになって転がり込んできた。
その顔は恐怖で歪んでいる。
「も、申し上げます! 後方より軍勢接近! 数、およそ一万!
旗印は『二つ引両』……摂津の織田信孝軍です!」
「馬鹿な! 信孝は四国へ向かったはず!」
光秀が叫ぶ間もなく、別の伝令が悲鳴を上げて駆け寄る。
「西より軍勢! 丹後の細川藤孝・忠興軍! 完全に背後を取られました!」
光秀の顔から血の気が引いた。
細川親子は盟友であり、娘の嫁ぎ先だ。味方につくと計算していた。それが、なぜ。
「南からは大和の筒井順慶・定次軍! 北からは京都所司代の村井貞勝が路地を封鎖!
そ、それに……屋根の上です! 無数の何者かが、我らを監視しております!」
見上げれば、京の町屋の屋根という屋根に、黒い影——伊賀の忍びたちが、冷ややかな視線で明智軍を見下ろしていた。
袋のネズミ。いや、これは「狩り」だ。
明智軍一万三千は、本能寺を襲撃する狩人から、巨大な檻に誘い込まれた獲物へと転落していた。
「謀られた……! 誰だ、誰がこれほどの絵図を……!」
その時。
重厚な地響きと共に、本能寺の山門が、ギギーッと音を立てて開かれた。
朝霧が渦を巻く中、一人の男が姿を現す。
甲冑も着けず、ただ白一色の寝間着姿。
だが、その男が放つ威圧感は、周囲の一万の武装兵を凌駕していた。
魔王・織田信長である。
彼は、取り囲まれた明智軍と、そのさらに外側を埋め尽くす援軍の旗印を、興味なさげに見渡した。
そして、馬上で凍りつく光秀を見つけ、鼻を鳴らした。
「是非も……あるな。金柑、早かったな」
「う、上様……」
信長の声には、怒りも焦りもなかった。あるのは、呆れと、僅かな愉悦。
「貴様の謀反なぞ、想定の範囲内だ。……だが、わしよりも先に、あの臆病者が嗅ぎつけたか」
信長は、南に見える筒井の陣——その奥にいるであろう息子の方角へ顎をしゃくった。
「わしの番頭 兼 臆病者の倅が、貴様が動く前から手を打っていたようだぞ。
伊賀のネズミ共を使い、貴様が謀反の夢を見る前から、この包囲網を編み上げていたのだ」
光秀の脳裏に、あの「うつけ」と呼ばれた次男坊の顔が浮かぶ。
道化を演じ、へらへらと笑っていたあの男が?
自分の完璧な知略が、あの臆病者の「生存本能」ごときに敗れたというのか?
「あ、ああ……」
光秀の手から、采配が滑り落ちた。
カラン、と乾いた音が、静まり返った京の朝に響く。
信長は、寝間着の袖を払い、冷酷に言い放った。
「しまいにせよ。……夜明けにはまだ早い」
その言葉を合図に、四方の援軍が一斉に鬨の声を上げた。
本能寺の変。
それは、戦国最大の下克上となるはずが、戦国最大の「鎮圧劇」として幕を閉じたのであった。




