金柑の苦悩、茶筅の覚醒
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天正10年(1582年)5月 —— 安土城
絢爛豪華な饗応の裏で、織田信雄は廊下の陰に立ち尽くしていた。
視線の先には、接待役を解かれ、憔悴しきった明智光秀の背中がある。
「……似ている」
信雄は、古傷が疼くのを感じた。
あれは、2年前の自分だ。第一次伊賀攻めの前夜、父・信長の理不尽な重圧と、「能無し」の汚名返上に追い詰められ、破滅的な独断専行へと走ろうとした、あの時の自分と同じ目をしている。
比叡山の焼き討ち、母の死、無碍にされた外交、そして敵地同然の国替え命令。
真面目な者ほど、糸が切れた時の反動は大きい。
「危険だ。あれは、壊れるぞ」
信雄の脳内で、生存本能の警報がけたたましく鳴り響いた。
父・信長と兄・信忠は京に無防備に滞在している。もし明智が暴発すれば、織田家は崩壊する。そうなれば、信雄が夢見る「畳の上での大往生」など夢のまた夢だ。
「……やるしかない。俺の老後のために」
信雄は震える手で扇子を握りしめ、闇に潜む影——自身が構築した「伊賀共存共栄圏」の連絡役を呼びつけた。
「百地へ繋げ。京までの最短ルート、安全な抜け道を確保しろ。それと、伊賀衆を総動員だ。戦うためではない、壁を作るために」
信雄は筆を執った。
走らせる筆先には、脂汗が滲む。
「四通の書状を送る。伊賀者よ、命に代えても届けよ! 俺の為にも死ぬなよ、父上、兄上! ……血迷うなよ、日向守! 『金柑頭』なんてあだ名、俺の幼名『茶筅』や兄上の『奇妙』より、よほどまともじゃないか!」
信雄は、なりふり構わぬ「土下座外交」ならぬ「土下座通信」を開始した。
【第一信:四国征伐軍・織田信孝へ】
『明智に不穏な空気あり。万が一の場合、軍の一部を京へ反転させよ。兄として頼む、油断するな』
【第二信:明智の娘婿・津田信澄へ】
『貴殿はうつけの俺とは違う。織田一門として賢明な判断を請う。動くな』
【第三信:盟友・細川藤孝、忠興親子へ】
『日向守が何を言おうと耳を貸すな。味方すれば、伊賀で見つけた国宝級の茶器と壺を贈る。勝ち馬を見誤るな』
そして、最後の一通。
【第四信:悪友・筒井定次へ】
『定次殿。今回だけは……今回だけは態度を明確にして、織田家を助けてくれ。「洞ヶ峠」を決め込んでいる場合ではない。俺たちがこれからも、美味い茶を飲んで笑い合うために』
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