魔王の裁定
数多ある作品の中からお選び頂きありがとうございます。
約束の期限 —— 安土城・大広間
その日、安土城の空気は、張り詰めた弓弦のように軋んでいた。
約束の二年。
織田信長が信雄に課した、伊賀平定の期限である。
上段の間には、天下人・信長。
その御前、下段に平伏するのは、織田信雄、筒井定次、そして滝川一益の三名であった。
「…………」
信長の視線が、物理的な重圧となって三人に降り注ぐ。
扇子がパチリ、と閉じる音が、雷鳴のように響いた。
「……茶筅。首級はどうした」
短く、冷淡な問い。
「敵を殲滅した証を持ってこい」という、暗黙の命令であった。
信雄の背中を、嫌な汗が伝う。だが、ここで引けば待っているのは廃嫡か、あるいは死だ。
「首よりも……価値あるものを持ち帰りました。父上、ご覧ください」
信雄は震える手を抑え込み、捧げ持った包みを解いた。
現れたのは、血濡れの生首ではない。
ゴロリとした、無骨で力強い、黒く焼けた土の塊のような茶碗。
そして、一巻の巻物であった。
「ほう……?」
信長の目が、怪訝そうに細められる。
「伊賀を焼き払うのは簡単です。しかし父上、そうすれば、この茶碗を生む土も、忍びの技も灰になります。
死兵と化した忍びとの泥沼の戦いは、百害あって一利なし。
我々は伊賀を、織田家直轄・情報及び茶器生産特区として再編しました」
すかさず、滝川一益が低い声で補足を入れる。
「名目上は『伊賀惣国』の存続を許しましたが、実質は織田の影の軍団として機能させます。
彼らはもはや、織田経済圏なしでは生きられぬよう、徹底した仕組みの中に組み込みました」
信長は眉をひそめ、鼻を鳴らした。
「生意気な口を利くようになったな。……で、その薄汚い土くれに、我慢を強いられるほどの価値はあるのか?」
空気が凍る。魔王の機嫌を損ねれば、即座に手討ちだ。
ここで信雄は、隠し持っていた最大の切り札を切った。
「この伊賀焼……既に堺の千宗易殿に送り、指導と評価を依頼しております」
「……何?」
「宗易殿いわく、『この荒々しき土味、まさに天下一の茶の湯にふさわしき逸品なり』と!」
その瞬間、信長の目が変わった。
殺気が消え、代わりに強烈な関心の光が宿る。
武力による天下布武と並行し、「御茶湯御政道」を推し進める信長にとって、茶頭・宗易のお墨付きと、新たな「名物」の産地確保は、城を一つ落とす以上の戦略的価値がある。
「……宗易が、そう言ったか」
信長は身を乗り出し、信雄の手から茶碗を奪い取るように手に取った。
掌で転がす。
ざらりとした土の感触。歪みの中に宿る、作為のない美。
「……悪くない手触りだ」
信長は独りごちた。
広間に、安堵の空気が微かに流れる。
「武力でねじ伏せるだけが能ではない。
堺の会合衆と同じく、時間をかけて骨抜きにするか。……よかろう」
信長は口元を歪め、ニヤリと笑った。それは、息子に向けられた初めての、まともな称賛の笑みだったかもしれない。
「茶筅。貴様は武人としては三流だが、商いの才はあるようだな。
その伊賀の仕組み、存分に使いこなし、織田の蔵を富ませてみせよ」
信雄は、額を床に擦り付けんばかりに平伏した。
「は、ははーーっ!! (……い、生きた……!)」
隣で平伏する筒井定次もまた、深い吐息を漏らしていた。
「(……やれやれ、また胃薬の在庫が減る)」
こうして、第一次伊賀攻めの「損切り」から始まった信雄の奇策は、成就した。
伊賀を焦土にすることなく、織田家の巨大な「金脈」と「情報網」へと変える。
それは、臆病な男が生存本能だけで手繰り寄せた、歴史の特異点であった。
貴重なお時間を頂きありがとうございました。




