狼たちの茶会
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天正8年 —— 伊賀・国境 無人の古寺
その古寺は、物理的な気温以上に冷え切っていた。
肌を刺すのは冬の風ではない。濃厚な「殺気」である。
腐りかけた床下の闇、煤けた天井裏の梁。そこには、呼吸を殺した何十もの「気配」が蠢き、いつでも交渉の席を修羅場に変える準備を整えていた。
本堂の中央、朽ちた仏像の前で対峙するのは、織田の代表者たちと、伊賀惣国を牛耳る三人の頭領——百地丹波、藤林長門、服部保長である。
織田側の席には、場違いなほど能天気な笑顔を浮かべる織田信雄。
その横で、青ざめた顔で胃薬の袋を握りしめている筒井定次。
そして、彼らを守るように、歴戦の鬼・滝川一益が、仁王の如き沈黙を守って座していた。
「……織田の次男坊殿」
沈黙を破ったのは、伊賀の実質的な指導者・百地丹波であった。
「我らに何用でござるか。我ら伊賀者は、力ずくでは屈さぬとご存知のはず」
百地の低い唸り声と共に、周囲の殺気が一気に膨れ上がる。
一触即発。誰かが咳払い一つすれば、次の瞬間には首が飛ぶ。
そんな極限の空気を切り裂いたのは、あまりに意外な音だった。
「イヨーッ、ポン!」
信雄が、唐突に懐から小鼓を取り出し、打ち鳴らしたのである。
あろうことか、彼はすっくと立ち上がり、伊賀の頭領たちの前で舞い始めた。
大倉五郎次直伝の、優雅だが、必死すぎてどこか滑稽な舞。
張り詰めていた空気が、ガクッと崩れ落ちる。
「……は?」
百地をはじめ、伊賀の頭領たちは毒気を抜かれ、呆気にとられて開いた口が塞がらない。斬り込むべきか、見守るべきか、天井裏の忍びたちも混乱している気配が伝わってくる。
ひとしきり舞い終えた信雄は、額の汗を拭いながら、どかりと畳に胡座をかいた。
「まあ待て、百地。そう怖い顔をするな。今日は『戦』の話をしに来たんじゃない。『茶』を飲みに来たんだ」
信雄は懐から、ゴロリと何かを取り出し、三人の前に転がした。
それは無骨で、黒く焼け焦げたような土塊——焼成されたばかりの『伊賀焼』の茶碗だった。
「どうだ。お前たちの足元の土で作った器だ。……俺には、これが黄金に見える」
「土くれが黄金だと? 戯言を」
藤林長門が鼻で笑う。
その侮蔑に対し、それまで沈黙を守っていた滝川一益が、ゆっくりと口を開いた。
「戯言ではない」
その声は低く、重く、古寺の床を震わせるほど腹の底に響いた。
「……伊勢長島を見よ」
たった一言で、場の空気が再び凍りついた。
数年前、織田信長が行った長島一向一揆の殲滅戦。女子供に至るまで焼き殺されたあの地獄絵図は、隣接する伊賀にとって他人事ではない。
一益の眼光が、三人の頭領を射抜く。
「お主らは仏や神にすがり、山に籠もって戦うか? 無駄だ。神仏は現世の腹を満たさぬし、鉄砲の弾も弾かぬ。……だが、『織田経済圏』は違う」
一益は、信雄の転がした茶碗を無造作に指差した。
「信長様は、この土塊を『名物』とし、千金の価値を与えようとしている。
死兵と化して織田と刺し違え、焦土となるか。それとも、織田という巨大な市場の中で、その技と土を売り、子々孫々まで生き残るか。
……現世でお主らを救えるのは、神でも仏でもない。『利』のみだ」
圧倒的な「暴力」の裏付けがあるからこそ、「利」の提案が妖しく輝く。
これが、滝川一益という男の恫喝だった。
動揺が走る伊賀衆に、信雄は畳み掛けるように身を乗り出した。
「単刀直入に言うぞ。伊賀を『織田信雄の直轄領』とする。……ただし、統治はせん」
「……何?」
「『伊賀惣国』の自治を認めると言っているんだ。俺は面倒なことが嫌いだ。山に入って指図などしたくない。
その代わり、お前たちが納めるべきは『年貢』ではない。『情報』と『茶器』だ」
ここで、筒井定次が無言のまま巻物を広げ、具体的な「仕組み」を提示した。
——忍びの一括管理。
織田が窓口となり、他大名への諜報・傭兵派遣を斡旋する。伊賀には正規の報酬が入る。
——茶器の生産。
堺の千宗易の指導の下、伊賀焼をブランド化し、織田が高値で買い上げる。
「どうだ? かつての堺と同じだ。名は捨てて実を取れ」
信雄は、屈託のない笑顔を見せた。その目は「支配者」のそれではない。「共に生き残ろう」とする、弱者ゆえの必死さが滲んでいた。
「お前たちは『野良犬』から、織田という大商家を守る『番犬』になるんだ。……悪い話じゃなかろう? 誰も死なんし、腹も膨れる」
三人の頭領は顔を見合わせた。
彼らは馬鹿ではない。この提案が、甘い砂糖でくるんだ「毒饅頭」であることは理解していた。
経済システムに組み込まれれば、伊賀は豊かになる。だが、豊かになれば、人は死を恐れるようになる。
時間をかけて、伊賀の牙は抜かれ、織田の手足として飼い慣らされていくだろう。
服部保長が唸るように呟いた。
「……力で潰されれば、我らは歴史から消える。だがこの話に乗れば、形を変えてでも『伊賀』は残る」
「情報は高く売れる……か。悪くない商いだ」
藤林もまた、計算高い眼差しで茶碗を見つめる。
最後に、最強硬派の百地丹波が口を開いた。
彼は信雄の目をじっと見つめ、そして、前にある伊賀焼の茶碗を手に取った。掌の中で、土の感触を確かめるように。
「……織田信雄。うつけと聞いていたが、食えぬ男よ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「よかろう。伊賀惣国は、織田の『御茶湯御政道』とやらに賭ける。
……ただし、我らの牙が完全に抜け落ちたと思うなよ」
「ああ。せいぜい噛みつかれないよう、美味い餌を用意し続けるさ」
張り詰めていた糸が切れ、古寺に乾いた笑い声が響いた。
交渉成立。
その瞬間、信雄は全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。
「(……い、胃に穴が開くかと思った……)」
定次がそっと、震える信雄の手に陀羅尼助を握らせる。
滝川一益は、そんな若者たちを見て、微かに口元を緩めた。
「(力攻めよりも骨が折れるわ。……だが、面白い世になるかもしれんな)」
こうして、血で血を洗うはずだった伊賀攻めは、歴史の裏側で行われた「茶室での密約」によって回避されたのである
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