魔王の沈黙、凍てつく安土
天正7年(1579年)秋 —— 安土城 天主
「…………」
広間には、呼吸の音さえ許されない静寂が満ちていた。
織田信長は、上段の間で微動だにしない。ただ、その手にある鉄扇が、小刻みに震えていることだけが、臨界点を超えた怒りを示していた。
平伏する信雄の背中に、冷や汗が滝のように流れる。
(殺される。比喩ではなく、ここで首が飛ぶ)
「……茶筅」
信長の声は、怒鳴り声よりも恐ろしい、地獄の底から響くような低音だった。
「兵を退いただと? 敵前逃亡か! 織田の面汚しめ、このうつけ者が! 勘当だ!!」
信長が立ち上がり、鉄扇を振り上げる。
信雄は反射的に身を縮めたが、言葉だけは叫んだ。
「ち、違います父上! 逃げたのではありません! 『損切り』です!」
振り下ろされかけた鉄扇が、寸前で止まる。
信雄は更に続ける、「あの山岳地帯でゲリラ戦など泥沼です。丸山城の修築も囮!
修築を餌に敵を釣り出し、その隙に下山甲斐という最高の案内役のみを確保して撤退しました!
これ以上の兵の損失を防ぎ、確実に勝つための、戦略的転進でございます!」
信長は冷ややかな目で息子を見下ろした。
その視線は、鋭利な刃物のように信雄の心臓を抉る。
幾分か怒気が収まった信長は、「……ほう。口だけは達者になったな。だが、結果が全てだ」と言いつつ、鉄扇の先を、信雄の喉元に突きつけた。
「ならばその口が真実か試してやる。期限は2年。
それまでに伊賀を我が手中に収めよ。ただし、無駄な兵は損耗するな。策が成らねば、織田の家督に関わることまかりならん。……去れ!」
首の皮一枚。
だが、信雄はここで退かなかった。震える声で、最後の一手を打つ。
「最後に一つ、父上……いや、上様にお願いがございます。
某を独断専行の咎で、半年間、大和・筒井家預けの謹慎処分としていただきたく!」と、信雄は床に額を付けるように頭を下げた。
意外な願いに戸惑う信長「……何だと?」
「反省の色を示すためでございます(……というのは建前で、伊賀に隣接する大和で策を練るためです!)」
信長は鼻を鳴らし、興味なさげに手を振った。
「好きにせよ。だが期限は変わらんぞ。……失せろ」
信雄は深々と頭を下げた。
(勝った……! これで安土の監視を離れ、堂々と作戦会議ができる!)




