凡庸な二世同盟成立
天正8年(1580年)春 —— 大和・筒井城 奥御殿 「……兄上。顔色が土気色ですよ。また父上に怒鳴られる夢でも見ましたか?」
久しぶりに対面した妹・藤姫の一言に、信雄はギクリと肩を震わせた。
京風の雅な着物を着ていても、信雄の背中は自信なげに丸まっている。
「ふ、藤……。お前はいいな、筒井のような平和な家に嫁いで。俺なんか、毎日が針の筵だ。伊賀を攻めろ、成果を出せ、さもなくば勘当だ……ああ、胃が痛い」
信雄は出された茶に口もつけず、畳の上でごろりと横になりかけた。
「長いものに巻かれたい」が口癖の兄。しかし、今の織田家という「長いもの」は、巻きついた相手を絞め殺す大蛇になってしまっている。
そこへ、ふらりと一人の若者が現れた。 筒井家の次期当主、筒井定次である。
「やあ、義兄上。ようこそ大和へ。……今日はいい天気ですねぇ。雲が流れていく。我々もあのように、風の向くまま流れたいものですなぁ」
定次はニコニコしているが、目が笑っていない。
あるいは、本当に何も考えていないのか。 「曖昧」であることが筒井家の処世術とはいえ、この掴みどころのなさは、切羽詰まった信雄を逆にイラつかせた。
苛立ち交じりに信雄はまくし立てた。
「定次殿! 俺は呑気な世間話をしに来たんじゃない。伊賀だ! 隣のお前なら知っているだろう、あの化け物どもをどうにかする方法を!」
「はてさて。伊賀の方々は気難しいですからなぁ。触らぬ神に祟りなし、と言いますし……まあ、茶でも飲んで落ち着きましょう」
のらりくらりと核心を避ける定次。
必死な信雄。 噛み合わない二人を見て、藤姫が静かに、しかし力強く茶碗を「ドン!」と畳に置いた。
「……お二方とも、いい加減になさいませ」 その凛とした声に、二人は縮み上がる。
藤姫は、二人の男を交互に見据えて続けた。 「兄上は『父上が怖い、死にたくない』。
定次様は『面倒ごとは嫌だ、責任を取りたくない』。 ……違いますか?」
図星を突かれ、二人は黙り込む。
「似た者同士なのです。 父・信長、父・順慶。偉大すぎる父を持ち、その影で『自分は凡庸だ』と縮こまっている。
でも、だからこそ見えるものがあるはずです。
英雄たちは『勝つこと』しか考えませんが、あなた達は『負けないこと』『死なないこと』に関しては天才的でしょう?」
藤姫は、懐から二つの黒い薬包を取り出し、二人の前に置いた。
「定次様、あなたがいつも隠し持っている陀羅尼助です。
兄上にも差し上げてください」
「……おや、バレていましたか」
「……陀羅尼助?」
大和の伝統薬だ。
強烈な苦味が胃腸を整えるという。
「ええ。父の『筒井城奪還』の苦労話……何度負けても這い上がったという講釈を聞くたびに、胃がキリキリ痛みましてね。……義兄上もですか?」
信雄も、わが意を得たりとした表情を浮かべ、深く頷いた。
「……ああ。父上の『天下布武』の文字を見るだけで、吐き気がするんだ」
二人は顔を見合わせた。 初めて、心の底からの共感が生まれた。
「英雄になれない苦しみ」を知る者だけの連帯感だ。 定次はようやく、曖昧な仮面を少しだけ外した。
「……義兄上。正直に言います。伊賀とまともに戦えば、織田は大怪我をします。そして隣接する我が筒井も、その飛び火で焼け野原だ。それは困る」
「だよな!? ああ、逃げたい……。でも父上が『やれ』って顔で見てくるんだ」
「……なら、『負け方』を工夫なさいませ。適当に戦って、適当に負けて、命だけ持って帰るのです。
勝とうとするから死ぬんですよ」
定次の声のトーンが下がった。そこには、したたかな策士の響きがあった。
「戦わずして勝つ……いや、戦ったフリをして、実利だけ奪うのです。 私と義兄上で、巨大な茶番を仕組むのですよ。 信長公には『伊賀侵攻の橋頭堡を築いた』という報告を。
伊賀の連中には『織田は深追いしない』という安心感を。
……我々には、『時』と『平穏な日々』を」 信雄はゴクリと唾を飲み込んだ。
それは父・信長なら激怒するであろう、卑怯な策だ。
だが、誰も死なない。
自分も、伊賀の民も、妹の嫁ぎ先も守れる。
「……やれるか? 俺たちごときで、父上や家康殿を騙せるか?」
「一人では無理です。ですが、二人なら。
織田の『威光』と、筒井の『コネ』。
そして……」 定次は藤姫を見た。
「藤、そなたが証人だ。
我ら『凡庸な二世同盟』は、天下を獲るためではなく、今日を生き延びて美味しい茶を飲むために手を組むとな」
藤姫は満足げに微笑み、二人の茶碗に茶を注いだ。
「ええ。天下は英雄たちに任せておけばよろしいのです。 私たちは、したたかに、しぶとく生き残りましょう。
……さあ、まずはその苦い陀羅尼助を飲んでから、作戦会議です」
こうして、歴史の裏側で密やかな談合が成立した。
信雄は、「下山甲斐の保護」のみを第一次伊賀攻めの必達目標とし、「丸山城修築は中止」、そして「即時戦略的転進」によって時を稼ぐことを決心したのだった。




