織田の守護神
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天正10年(1582年) 秋 —— 安土城・大広間
季節は巡り、安土の山々は燃えるような紅葉に彩られていた。
しかし、織田家の勢力図はそれ以上に劇的な変化を遂げていた。
あの日、京を震撼させた明智光秀の謀反未遂。
信雄の機転によって未然に防がれたその凶行の首謀者・光秀は、信長の「慈悲」——という名の政治的配慮により、処刑を免れた。剃髪のうえ、高野山への永蟄居。
(噂では、天海と号し、密かに徳川と通じているとも囁かれるが、それはまた別の物語である)
そして今日、論功行賞の広間において、織田信長は全世界に向けて宣言した。
「予はこれより家督を信忠に譲り、『大御所』として隠居する!」
隠居。その言葉に騙される者は、この広間には一人もいない。
実務を息子に押し付け、自分は自由気ままに天下を弄ぶつもりだ——全員がそう確信し、平伏した。
「さて……茶筅!」
上段の間から、上機嫌な大音声が響く。
信長は、満面の笑みで下段に降りてくると、信雄の肩をバシンと叩いた。骨が軋むほどの衝撃だった。
「貴様の機転と『伊賀共存共栄圏』、見事であった! あのタヌキ親父(家康)も、貴様の情報網を恐れて縮み上がっておるわ!」
「は、はあ……恐悦至極に存じます……(もう帰って寝たい。胃が痛い)」
信雄は愛想笑いを浮かべながら、必死に気配を消そうとしていた。
クーデター鎮圧の功労者として注目されるのは御免だ。目立てば、また面倒な仕事が降ってくる。
望みは一つ。静かな領地で、茶を点てて暮らすこと。
「そこでだ。その手腕を見込んで、貴様に新たな領地を与える」
信雄の目が輝いた。
(まさか、近江の安全な土地か? あるいは、茶の湯三昧の隠居生活か?)
信長はニヤリと笑い、広げられた日本地図の東側を扇子で指し示した。
「伊勢・伊賀・尾張に加え、旧武田領である『甲斐』と『信濃』……合わせて百万石を任せる!」
「……は?」
信雄の思考が停止した。
甲斐と信濃。
そこは、つい先日滅亡した武田家の旧領であり、山深く、国人衆が割拠する難治の地。
何より恐ろしいのは、その立地である。
南には、駿河・遠江・三河を領する徳川家康。
東には、関東の覇者・北条氏政。
北には、越後の軍神・上杉景勝。
信雄の顔色が、土気色を超えて白紙のように褪せていく。
「ち、父上……? お言葉ですが、あそこは……」
「うむ。猛獣どもの檻の中だ」
信長は悪びれもせず言い放った。
「徳川のタヌキは、今は従順な振りをしているが、腹の中では何を考えているか分からん。北条もまた然り。
だからこそだ。貴様が甲斐・信濃に入り、その『伊賀の情報網』と『経済力』で、奴らに睨みを利かせよ!」
つまり、こういうことだ。
一生、あの徳川家康という古狸の真横で、北条や上杉という化け物に囲まれながら、「防波堤(生贄)」として神経をすり減らす冷戦を続けろ、と。
「む、無理です! 絶対に無理です父上!
俺はただ、畳の上で死にたいだけで、雪山で野垂れ死にたくはありません!」
信雄はなりふり構わず叫んだ。だが、魔王は聞く耳を持たない。
「ええい、問答無用!
貴様ならできる。武力で勝てぬなら、貴様の得意な『損得勘定』で奴らを飼い慣らせばよいのだ!
期待しておるぞ、『織田の守護神』よ!」
「守護神じゃなくて人柱でしょうがぁぁぁ!!」
信雄の絶叫は、信長の高笑いにかき消された。
広間から人が去った後。
そこには、あまりの絶望に真っ白に燃え尽き、灰のようになった織田信雄の姿があった。
「定次……。甲斐って、冬は寒いよな……」
「ええ、極寒でしょうね。温泉は多いそうですが」
「……胃薬、樽で発注しておいてくれ」
天下泰平の世。
しかし、織田信雄の「生存戦略」という名の戦いは、ここからが本当の地獄(本番)であった。
完
織田信雄が内政チートでもなく、武力無双でもない、あくまで信雄らしいまま歴史を変えるという思いつきにお付き合い頂きありがとうございました。




