信雄の苦悩と弱者の覚悟
天正8年(1580年) 深夜 —— 伊勢・松ヶ島城
「……あ、あぁッ!!」
獣のような悲鳴と共に、織田信雄は寝所から跳ね起きた。
全身が冷や汗で濡れ、寝間着が肌に張り付いている。呼吸は荒く、早鐘を打つ心臓の音が耳奥で鳴り止まない。
また、あの夢だ。
夢の中で、信雄は三瀬御所の庭に立ち尽くしていた。
足元には、かつての義父・北畠具教が転がっている。
剣豪として名高かった義父が、信雄が送った刺客たちの手で無惨な肉塊となり、その光を失った瞳で、じっと信雄を見上げていた。
『茶筅よ。これが天下布武か。これが、人の所業か』
「はぁ、はぁ……。俺は、俺は、父上の言う通りにしただけだ……」
信雄は震える両手で自身の顔を覆った。
織田家の版図を広げるため。名門・北畠家を乗っ取るため。
そして何より、父・信長に「でかした」と言われたいがために、信雄はこれまで心を殺して手を汚してきた。
だが、もう限界だった。
精神の均衡は、音を立てて崩れ落ちそうだった。
「伊賀……。あんな、化け物どもの巣窟を、攻めろというのか」
闇の中に、父の低い声が響く気がした。
——『伊賀の凶徒を根絶やしにせよ』
無理だ。絶対に無理だ。
彼らは侍ではない。野山を駆け、影から毒矢を放ち、火を操る「見えざる敵」だ。
正面から数万の大軍を叩きつければ勝てるかもしれない。だが、その代償にどれだけの血が流れる? そして、生き残った伊賀者は永遠に織田を恨み、影から寝首を掻きに来るだろう。
「俺に、父上のような『魔王』にはなれん。……だが、失敗すれば勘当だ」
進むも地獄、退くも地獄。
思考が袋小路に入り込み、窒息しそうになった時、ふと、ある顔が脳裏をよぎった。
「……お藤」
そうだ、妹の藤だ。
彼女は数年前、大和国の筒井家に嫁いでいた。
筒井家。あの一族は不思議だ。
かつて大和国は、「戦国の梟雄」松永久秀に支配されていた。あの悪辣な松永弾正に何度も煮え湯を飲まされ、居城を追われながら、筒井順慶とその一族はしぶとく生き残り、最後には松永を滅ぼして大和の主に戻った。
世間は『強きに媚び、弱きを挫く』『日和見』と陰口を叩く。だが、あのしぶとさ、あの「生き残るための嗅覚」には、何か秘密があるのではないか?
松永という怪物と渡り合い、伊賀という魔窟と隣接しながら、のらりくらりと生き延びている筒井家。
「……会いに行こう」
信雄は決意した。
表向きは、妹・藤の顔を見るための親睦の訪問。だが真の目的は、筒井家の次期当主・筒井定次に会うことだ。
彼なら、この「詰み」かけた盤面をひっくり返す、あるいは「盤面から逃げ出す」知恵を持っているかもしれない。
夜明け前。
信雄の瞳に、わずかながら理性の光が宿っていた。
それは武人としての闘志ではなく、「何としてでも生き延びる」という、切実な弱者の覚悟だった。




