グランフェルト帝国
帝国の馬車はぺぺの魔法を使わずとも快適だった。
国境付近では少し感傷に浸っていたものの、ぺぺがまたおしゃべりに付き合ってくれたので、今までとなにも変わることのない旅だ。時折、帝国の騎士たちが気を利かせて同乗し、話相手になってくれたがパトリシアは余計な事は話すまいと相槌を打ってやり過ごした。
パトリシアを乗せた馬車は安全性に配慮してスピードを落としても一週間かからずに、帝都から馬車で二時間程度の大きな街に到着した。そこで一泊し、朝から正装して帝都に入るらしい。
「パトリシア王女殿下。本日はこちらのお召し物でお願いします」
「私共にもお手伝いさせてください」
「ええ、よろしくお願いします」
午後の早い時間に帝都に入り、その後皇帝に謁見し本日の予定は終了らしい。カエラという女性の護衛騎士がパトリシアの着替えを手伝いながら教えてくれた。
「また、明日は結婚式です。王女殿下におかれましては突然のことに戸惑いもあるでしょうが、ご了承のほどお願いいたします」
ペリドラン王国では婚約式の後、早くとも結婚式は半年後だ。だいたいは一年後、王族や高位貴族なら準備に二、三年費やすのも通常だった。
しかし、帝国には婚約式というものが存在せず、一般的に婚姻も紙切れ一枚にサインすれば、事実上夫婦と同じと認められる。これは帝国の歴史上戦争が多く、自分が死んだ後に恋人に財産を残したいという男たちの願いを叶えるため、簡略化した結果らしい。
「わかりましたわ」
「ありがとうございます。王女殿下は理解が合って助かります」
「中には〝結婚式は盛大にしないと嫌だ〟と仰る方もいらっしゃるので」
「移動も速やかにご協力していただいて改めて感謝申し上げます」
パトリシアは苦笑程度に止めて聞き流した。
変に口を挟むと、他国の王女を非難したと捉えられてしまうかもしれない。
パトリシアが話に乗ってこないとわかったのか、彼女たちは口を閉ざした後、ややしておしゃべりを始めた。時折カエラが苦言を呈する一面もあったが、パトリシアがうるさく言わないとわかったせいか遠慮がない。それでも雰囲気が悪いわけではない。気楽で気安い。パトリシアは彼女たちの話に時々相槌を打ちながら、身を任せた。
「こちらでいかがでしょうか」
髪は緩く巻いてハーフアップに。メイクは薄付きではあるものの、艶があり、目鼻立ちがはっきりと分かり、いつもより美しく見えた。
「ええ、構いません」
「それでは、帝都まで今しばらくお待ちください」
「失礼致します」
宿を出て、馬車に乗り込むと今日はもう日が随分と高かった。
ペリドラン王国では、王都周辺と言ってもあまり高い建物はないが、この辺りにはいくつもの高い建物がある。
(帝都はどんな感じなのかしら……)
言い方は悪いが、ペリドラン王国は国土が広いだけの農民地だ。
かつての王がペリドラン・ぺドリフィスと「国を戦場にしない」「民を兵士にしない」と盟約を交わしたことで、軍事力も持たずに今日まで歩んできた。
よって、昔から大きな変化がない。王都に商業施設はあっても、基本的にペリドラン王国の民は自然を愛している。商売をするより土をいじる方が好む国民性だ。
だからか、パトリシアは前世を思い出して少しワクワクした。人々の活気のある声が、賑やかさが、知らない世界を教えてくれる。
ぺぺはいつの間にかパトリシアの膝で寝転がっており、パトリシアはただ過ぎていく街並みを眺めていた。
「ペリドラン王国、第一王女殿下、ご入場です」
馬車は帝都に到着すると、一直線で皇城に向かった。ルディウスにエスコートされ、謁見の間の扉の前に立つ。この国は少々せっかちなのか、パトリシアに休憩を取らせてもくれなかった。
(ま、いいけどね。ダラダラと時間を潰すよりはさっさと終わらせる方が楽だし)
そして扉が開くや否や、パトリシアはひとり広間の真ん中を歩いた。部屋の奥には高い位置から周囲を見下ろすように、帝国の皇帝、ジスラン・グランフェルトが座っている。
パトリシアは直視しないようわずかに視線を下げ、足元に気をつけながら示された場所まで歩いた。どこか侮るような笑い声が周囲から聞こえる。パトリシアは気にしなかった。そして、頭を下げたまま声をかけられるのを待つ。
「顔を上げろ」
低くしゃがれた声が命じる。パトリシアは言われた通り顔を上げた。
王座にどっかりと座る男は赤褐色の短い髪を撫で付け、ヘーゼル色の瞳をギラリと光らせる。パトリシアはたおやかに微笑んでみせた。その瞬間、周囲がまたざわめく。
「名は?」
「パトリシア・フォン・ペリドランと申します」
「……ほう。珍しい色だな」
ジスランはパトリシアを見て瞠目し、面白そうにニヤリと笑った。
子どもが新しいおもちゃを見つけた時のような、もしくは面白い悪戯を思いついた時のような、意地悪い顔だ。
ジスランは椅子から立ち上がると、周囲の制止も跳ね除けて悠々と階段を降り、パトリシアの前に立ち塞がった。服の上からでも分かるぐらい、がっちりとした身体付きだ。上背だけでなく幅もあるせいで、非常に圧迫感を感じる。もっと腹の出た狸のようなおっさんか、もしくはひょろ長の狐のような男かと思っていたが、これは紛れもなく屈強な戦士。トラかライオンか、つまり肉食動物だ。
50代半ばとは思えぬほど身のこなしは軽やかで、弛んだ肉もない。肌艶がいいのは、毎晩後宮に入り浸っているせいだろうか。あと50年は余裕で生きられるぐらい元気そうだ。パトリシアは警戒心を強めながらも笑みを崩さず見上げた。
「よく見せてみろ」
ジスランの手がパトリシアの細い顎に伸ばされる。しかし指先が顎に触れた途端、その手を弾く大きな音がした。
「……っ!」
ぺぺの神気がパトリシアを守るように包み込む。パトリシアの周囲に薄い壁ができて、ジスランはたたらを踏んだ。呆然としていた彼はしばしして、なにが起こったのか理解したらしい。
クツクツと面白そうに肩を揺らして大笑いし出した。会場が揺れる。獅子の咆哮と思うぐらい声がでかく、よく響いた。
「ハハハッ! なるほどな。ーーしかし神よ、人間には人間の掟がある。王女がなぜ帝国まで来たか、俺に嫁ぐことになったのか、その理由を考えろ。あまりにも介入しすぎると、我が国も考えるぞ?」
ジスランは周囲を見回しながら、ペリドラン・ペトリフィスに告げる。
子ウサギはそんな皇帝に向かって中指を立てながらニヒルな顔で笑っていた。あとでしっかり叱っておこうと思うパトリシアである。
「すでに、我々は夫婦だ。ーーなにをしても文句あるまい」
前世でいう婚姻届は、パトリシアと父のサイン入りで帝国の使者に渡されている。結婚式は明日だが、この書類が受理されれば、式をしようがしまいが、パトリシアはジスランの妻だ。
「パトリシア王女殿下よ。明日お待ち申し上げる。ーー久々に楽しくなるな。ワハハハハ!」
獰猛な笑みを向けられて、パトリシアの背筋が凍る。しかし、隣に知った気配があり、冷静さを欠くことなく、礼はできた。
ジスランはこれ以上は無用だといい、あっさりと引き上げる。その潔さはまさに軍人らしい。
高笑いしながらパトリシアより先に部屋に出て行く背中を見送ると、始めと同じく「ペリドラン王国、第一王女殿下、ご退場です」と宣誓された。




