第四章 長岡駅周辺にて
あまり長居して邦夫と鉢合わせても上手くないので、私たちは早々にホテルを出ることにした。帰りがけに従業員に訊いてみたところ、邦夫は何泊と期日は指定せずに連泊を続けていることが分かった。今日が火曜日なので、すでに四泊していることになる。
「金曜日って」と丸柴刑事が、「邦夫さんが黒田さんに電話をかけた日よね」
「そう」と応じた理真は、「外食しに行った出先で、でも、目的の外食はせずに、どういうわけだか突然、持ちかけられていた自宅土地売買の話を詰める、という目的で」
「考えるほど怪しいというか、腑に落ちないわよね。そもそも、外食というのは虚偽の発言で、実は別の目的のための外出だったとか?」
「それはありえるけど、黒田さんと土地売買の話をしたっていうのは本当だろうね。電話を受けた黒田さんが、会社に連絡を入れてその旨を伝えているから」
「そうね。外食だったかどうか目的は不明だけど、ともかく、金曜日の午前中に邦夫さんは外出した。外出先が、ここ長岡駅近辺だということも間違いないでしょうね。黒田さんに電話したときの電波発信基地局が示しているから」
「――そうだ、丸姉、由宇も」
「なになに? 何か閃いたの?」
「お腹すいてない? もうお昼の時間だよ。ちょうどいいからさ、邦夫さんが行く予定だった洋食屋でランチにしようよ」
瞳を輝かせた理真とは対称的に、期待を込めていた丸柴刑事の目は沈んだ。私は、まあ、予想の範疇だったかな。
狭い階段を上り、二階に位置する店舗に入る。いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ、と店員が迎えてくれ、私たちは四人がけテーブルを囲んだ。この店の看板メニューは、何と言っても洋風カツ丼だ。新潟でカツ丼といえば、新潟市のタレカツが有名だが、ここ長岡では甘辛いデミグラスソースをかけた洋風カツ丼が定番グルメとして人気を博している。カツ丼といっても、どんぶりではなくプレートに盛られ、サラダも添えられており、見た目からもおしゃれで、まさに〝洋風〟と呼ぶに相応しい。三人ともがその洋風カツ丼を注文した。新潟市のタレカツは、その名のとおりタレを染みこませたカツの味わいが絶品なのだが、この洋風カツ丼にかかっているソースは粘性が高く容易に衣に染みこんでいかないため、カツのサクッとした食感を存分に堪能できるのが売りだ。甘辛ソースとサクサクのとんかつとが奏でるハーモニーがたまらないのだ。
広くない店内のうえ、ランチどきということでお客さんも多いため、食事中に事件の話をするのははばかった。長岡グルメを堪能して店を出ると、理真が、
「ねえ、せっかくだからさ、フレンド版イタリアンも食べていこうよ」
そういう目論見だったのか。理真が私たちと同じ量しか食べないなんておかしいと思った。
〝イタリアン〟といえば、その筋では有名な新潟が誇らなくていいB級グルメだが、同じ名前でも〝みかづき版〟と〝フレンド版〟の二種類が存在し――詳しい説明については割愛するが――理真が言った「フレンド版イタリアン」というのは、長岡を中心とした中越地域で提供されており、理真や私が居住する新潟市では食べられない代物なのだ。
「一番近いフレンドは……長岡駅だね」
スマートフォンで調べると理真は意気揚々と長岡駅に向かって歩き出し、私と丸柴刑事は、互いに顔を見合わせてから、その背中を追った。猛暑日の太陽が脳天から照りつける。
駅に向かう道すがら、〝長岡まつり大花火大会〟開催を知らせる看板、ポスターなどが目に留まるようになってきた。長岡まつり大花火大会の開催日は八月二日と三日の両日。今日が七月二十九日だから、四日後となる。長岡花火は、今や全国規模の一大花火イベントと化した。今年の開催日はちょうど土日と重なるため、例年以上に凄まじい人出となることが予測されており、戦々恐々としている市民も少なくないのではなかろうか。この手の花火イベントは、たいてい何月の第何土曜、あるいは日曜、と週末に合わせてくることが多いが、長岡花火はそういった日程のずらしを行うことがなく、どの年でも必ず〝八月二日、三日〟に開催すると決まっている。というのも、これは単なる娯楽やお祭りのための花火ではないからだ。
〝八月一日〟この日を忘れる長岡市民はいないだろう。今から八十年前、太平洋戦争ただ中の、一九四五年八月一日。ここ長岡に米軍による無差別爆撃が行われた。〝長岡空襲〟だ。大型戦略爆撃機B29により投下された焼夷弾は長岡の夜空を赤く染め、街一帯を文字どおり火の海に変えた。午後十時三十分に開始された無差別爆撃は、翌午前零時十分まで、じつに百分間にわたり続けられたという。この爆撃による死者数は一四八八人(平成31年2月1日現在)に及んだ。
そして終戦を迎え、その翌年の一九四六年八月一日。戦争で亡くなられた人たちの慰霊と、長岡の再びの復興を願い〝長岡市戦災復興まつり〟が行われた。さらに翌年には、戦争のために中止となっていた長岡名物の大花火大会も復活、一九五一年からは〝長岡まつり〟と名前を変えて現在まで続いている。これが、曜日に関係なく長岡まつり大花火大会が毎年八月二日、三日に固定されている理由なのだ。
わずか二時間弱で千五百人近くもの人間が殺された。途方もない数字だ。理真をはじめ探偵や警察が相手をしている、たったひとりを殺すために、場合によっては何年も計画を練るような不可能犯罪が空虚に思えてくる数字だ。こういった戦争や大規模虐殺の話を目にするたび、私はいつも思う。巨大すぎる暴力の前では、探偵はおろか、不可能犯罪を起こす超犯罪者だって圧倒的に無力だ。〝たったひとりか二人を殺すために大層な労力を使ったものだ〟戦争や虐殺という名の圧倒的暴力は、そう言って不可能犯罪を笑うのだ。〈狂既の牙〉(※理真と対決したこともある不可能犯罪テロ組織。「山手線大爆破」(文学フリマ等で配布)参照)の主張に賛同するわけではないが、命に対する視点、価値観、尊厳がまるで違う。〝命を奪う〟という同じ行為をしているとは思えないほどに……。
それにしても暑いなぁ……。長岡駅周辺の歩道はアーケードがついている場所が多いのが救いだ。通りの向こうに、陽炎に揺れる長岡駅が見えてきた。もうすぐだ――と、そこに、歩道の横、建物の自動ドアが開き、中から子供が飛び出してきた。先頭を歩いていた理真とぶつかりそうになったが、理真はひらりと身を躱し――損ねて、見事にその子供と衝突してしまう。「うぐっ」と理真は妙な声を上げ、子供のほうは歩道に尻もちをついてしまった。その拍子に子供の手元から、ぱさりと何かが落ちた。縦長の冊子――パンフレットのようだ。「長岡戦災資料館」と書かれている。子供が飛び出してきたドアを見ると、まさに、そこが戦災資料館だった。長岡空襲を記録、保存し、伝えていくための資料館で、名称のとおり、戦災に関する多くの資料を収集、展示している施設だ。
「きみ、怪我はない?」
丸柴刑事が駆け寄る。
「だ、大丈夫です……」
手を握られて助け起こされた子供――小学校高学年程度の男子――は、ばつが悪そうに丸柴刑事から視線を逸らした。幸いなことにノーダメージだった理真は、歩道に落ちたパンフレットを拾い上げた、が、六つ折りになった表紙部分だけを摘まみ上げてしまったため、折りたたまれていたパンフレットが蛇腹状に広がった。
「戦災資料館を見学していたの?」
丸柴刑事に服の埃を払われながら訊かれた少年は、
「あ、見学したのは、金曜日で……。そのときに忘れものをしたのに気が付いて、取りに来ただけなんで……」
「金曜日ということは、学校の課外授業で?」
「そ、そうです……」
なるほど。長岡市の小学校では、課外授業の一環として戦災資料館の見学を行っているのか。戦災の記憶を後世に伝えていくためにも有意義な試みだと思う。
「飛び出しは危ないわよ。気をつけてね」
丸柴刑事にぽんぽんと両肩を叩かれた少年は、すみません、と頭を下げたが、
「謝るのは、あっちのお姉さん」
そのまま肩を掴まれて、くるりと理真のほうを向かせられる。その理真は、しかし、少年ではなく、拾ったパンフレットを凝視していた。
「すみませんでした……」
ちょこんと頭を下げた少年に、ようやく顔を向けた理真は、視線の高さが同じになる程度に少年の前に屈み込むと、
「ねえ、きみ、小学五年生じゃない?」
「えっ? そ、そうですけど……」
「やっぱり……。それで」と、丸柴刑事に代わって少年の両肩に手を置くと、「金曜日に課外授業でここに来たって言ってたよね。その時間って、午前十一時くらいじゃなかった?」
「え、ええと……」理真に顔を近づけられて、若干頬を赤くした少年は、「そ、そうです。課外授業は三時間目と四時間目だったから、ここを出たのが、十一時くらいでした……」
「きみのクラスに、長屋健児くんって、いない?」
長屋健児。長屋邦夫の甥。そういえば、小学五年生だと父親の道郎が言っていた。
「い、います」
「健司くんも、課外授業には参加してたよね?」
「はい」
「課外授業を終えて外に出たとき、健司くん、誰か大人の人と話をしてなかった?」
「してました。男の人と。叔父さんだって言ってた。偶然会ったみたいで、課外授業のこととか話をしてました」
健児の叔父、ということは、長屋邦夫? どういうことなんだ? さらに理真の質問は続き、
「そのあと、その叔父さんは、この戦災資料館に入ったと思うんだけど、どうだろう? そこまで見てた?」
「はい、そうです。健児と話し終わると、その叔父さん、すぐに資料館に入っていきました」
「…………」数秒間無言の理真は、ゆっくりと立ち上がると、もう一度目を落としたパンフレットを畳んで少年に渡し、「ありがとう。とても助かったわ」
にこりと微笑んだ。
「す、すみません……」
何に対してか分からないが詫びの言葉を口にすると、少年は足速に去って行った。「車道に飛び出したら駄目よ」との丸柴刑事の声を背中に浴びながら。
角を曲がった少年の姿が見えなくなると、丸柴刑事は理真に向き直って、
「で、理真、今のあの子との会話、あれってどういうことなの? 金曜日の昼に健児くんと邦夫さんが、ここで会ってた?」
少年の言葉からして、そういうことになる。
「ねえ、ちょっと入ってみてもいい?」
だが、理真は、その言葉に答えるでなく、戦災資料館のドアを指さした。「もちろん」と丸柴刑事、そして私も続き、三人は自動ドアをくぐった。長岡戦災資料館は入場無料なのだ。
館内に入ると理真は、きょろきょろと中を見回し、奥の一角に向かった。そこは、爆撃機の模型や伝単(空襲を予告するビラ)投下ケースなどが展示されたコーナーで、設えられた台の上に、なにやら奇妙なものが置いてある。理真はその前で立ち止まると、
「……これだよ」
と呟いた。どうやらこれが目当てだったらしい。恐らくパンフレットに写真が掲載されており、その実物を見たかったのだろう。その物体は、長さが五十センチ程度ある鉄製の棒状のもので、直径は七センチくらい。片方の先端からは数枚の長い布が伸びており、さらには、断面が六角形で……。
「――理真!」
丸柴刑事が鋭く呟いた。私も〝これ〟が意味するところを察して息を呑み、
「凶器……? これが?」
「そもそも、これって何なの?」
展示物の解説を読む。「長岡空襲で投下された焼夷弾M69子弾のレプリカ」と、そこには記されていた。
「形からして、これが凶器である可能性はかなり高いけれども……。でも、どういうことなの? 犯人は、これを持ち出したうえで邦夫さん宅で犯行に及び、またここへ戻したってこと? ていうか、理真、触っちゃってる」
丸柴刑事の言うとおり、理真はその六角形をした鉄製の物体――焼夷弾のレプリカ――に素手で触れてしまっている。
「違うよ、丸姉。これは凶器じゃない」
「えっ? それにしたって……」
丸柴刑事が戸惑うのも分かる。なにせ、死体の打撲痕から推察される凶器の形状と、これはそっくりだ。こんな物体が他にあるとは思えない。
「これは凶器じゃない」理真は繰り返すと、「でも、凶器はこれと同じ形をしていたはず」
「他にも……つまり、邦夫さんの家にこれと同じものがあったっていうの?」
「でなければ、死体の打撲痕に説明がつかない。あったんだよ、邦夫さんの家に、これと同じものが」
「どういうこと?」
丸柴刑事の質問に、理真は答えなかった。手にしていた焼夷弾のレプリカを置き直し、指を唇に添えて、虚空を見つめている。これは、理真が推理を廻らせているときに見せる癖だ。しばしの黙考後、ようやく理真は、
「……とりあえず、出ようか。車の中で説明する」