第二章 二人の容疑者
二杯目のアイスコーヒーを前にして、丸柴刑事がめくる資料に理真と私は目を落とした。
「さっき言ったように、捜査で浮かんできた有力な容疑者が二人いるわ。どちらも被害者――黒田さんに恨みを抱いていて、さらに、死亡推定時刻にアリバイがない。
まず、ひとり目は、庄司力也さん。小学校の教師。死亡推定時刻は平日金曜日のお昼前だけど、その日、庄司さんは学校を病欠しているの。午前の早い時間に病院で受診したんだけれど、帰宅して、あるいは帰宅途中に犯行現場――長屋さん宅に寄って犯行に及ぶことは可能だと見られているわ。被害者とは大学時代からの知り合いで、その頃から黒田さんに細々と借金をしていて、それが結構な額に積み重なっていたのよ。黒田さんのアパートの家宅捜索で借用書が見つかって、それで発覚したの」
「金銭トラブルってことだね」
「そうね。庄司さん、最初はとぼけていたんだけれど、黒田さん宅で見つけた借用書を突きつけてやったら、あっさり認めて、学校には言わないでくれって泣きつかれたわ」
「でも、殺人の自白はしていない」
「もちろん。で、二人目は、野本直人さん。市役所の職員。市のホームページの運営、管理を主に担当しているわ。野本さんのほうは、ホームページ作成、更新用の資料を集めるために、金曜日の午前十時からひとりで外出していて、市役所に戻ったのは午後一時半だったそうなの。だから、その間に犯行現場に立ち寄ることは可能ね。被害者との関係はね……ちょっと複雑というか……。実はこの野本さん、元々は市の土木課にいたのよ。で、その土木課時代に、市道の拡幅、延伸工事や、市に届け出が必要な大規模商業施設なんかの工事計画を、こっそりと黒田さんに漏らしていたのではないか、という疑惑があって……」
「それって、工事区域にかかる土地を前もって安く買い取らせておくとか、そういった類いの?」
「そうだったみたいね。それで稼いだ利ざやからマージンを受け取っていたとか、なんとか。確固たる証拠があったわけじゃなく、あくまで噂の段階に過ぎなかったから表沙汰にはなっていなかったんだけど、野本さんが土木課からホームページ担当に異動になったのは急なものだったらしくて、証拠が出てきてしまう前に、という上の思惑があったのではないかと、まことしやかな噂が流れていたそうよ。その噂の出所が黒田さんだったという話もあるの。どこかの酒の席で、うっかり口を滑らせてしまったのでは、という」
「賄賂を断たれた恨みから、ってわけか」
「本人からは即座に否定されたわ。当たり前だけどね。でも、その否定の仕方が凄い剣幕でね、刑事の勘としては、後ろ暗いことがあるからこその躍起としての反論っぽいかな、っていう。もちろん、殺人も否定されたわ」
「うーん……。その二人のどちらかが、例の謎の凶器を所持しているかもしれず、かつ、どうしてもそれを使って黒田さんを殺す必要があったんじゃないかと……」
お代わりのコーヒーに口をつけた理真に、丸柴刑事は、
「さらに言うとね。実は、第三の容疑者というのもあって」
「誰?」
「死体発見者の長屋邦夫さん」
「第一発見者を疑え、っていうセオリー?」
「それもないじゃないけど、長屋さんが、自宅土地を黒田さんの会社に売る計画があったって、さっき話したじゃない」
「うん。その商談をするため、長屋さんは黒田さんを自宅に呼んだんだよね」
「その計画が、どうも上手く行っていなかったらしいと。会社の同僚に訊いたところ、長屋さんに土地を売る気はないようだったそうなの。黒田さんのほうから、一方的に長屋さんに土地を売ってほしい、と持ちかけていたんじゃないかと」
「その土地売買の話がこじれて?」
「動機としては薄いし、蓋然性も低いことは承知してるけど……」
「まあ、分かるよ。死体の第一発見者だし、長屋さんの敷地内で殺されているんだからね」
「長屋さんは、さっきも言ったけど、自分の敷地で黒田さんが殺されていたことについて、まったく意味が分からないと言うだけなんだけれど。それとね、あとひとつ、長屋さんの証言で引っかかるというか、変だなと思うところがあって」
「それは私も思った。土地売買の相談をしたい、っていう黒田さんへの電話でしょ」
「さすが理真。そう」
「自宅じゃなくて、外出先からかけたんだよね。長岡駅周辺から」
「変でしょ」
「帰宅して、ゆっくりと話の内容をまとめてからかけたっていい電話だよね。土地の売買なんていう大きな取り引きなんだから」
「急に思い立って電話した、っていう感じよね」
「そもそも、長屋さんは、なんの目的で外出していたの?」
「外食のためだったって。その日は金曜日だけど、今月中に取得しないとなくなっちゃう有給があって、それを消化するために休んだそうよ。で、午前中の涼しいうちは自宅庭で畑仕事をして、お昼は駅近くの好きな洋食屋で食べようと思って、車で出かけたとか」
丸柴刑事が出した洋食屋の名前は、私も――当然、理真も――知っていた。地元テレビ番組でもちょくちょく紹介される、長岡では有名な店だ。
「ちょっと待って」と理真が、「長屋さんが電話をかけた時間って、十時五十七分って言ってたよね」
「そうね」
「お昼ごはんには早いんじゃない? というか、そもそもその時間だと、お店はまだ営業開始前という可能性も」
「確かに」
丸柴刑事はスマートフォンを取りだした。当該店舗の営業時間を調べているのだろう。
「……理真、当たり。お店の営業は十一時半からよ。昼食どころか、店に入れてもいない」
「わざわざ車で出かけたのに、目的のランチを中止してまで、土地売買の商談を優先したってことになるね。しかも、長屋さんは土地を売る気がなかったそうなのに」
「何かあったとしか思えないわね」
「死亡推定時刻のアリバイは、ないよね」
「……そうね。長屋さんが帰宅したのは、十一時三十五分。死亡推定時刻の下限である午後十二時までは、二十五分も猶予があるわ。帰宅してから黒田さんと合わなかった、という証言は虚偽で、本当は黒田さんを殺害していた、ということも……。言ったように、今のところ強い動機面は浮かんできていないけれど、土地売買の件で、当人たちの間でしか分からない何かトラブルが起きたという可能性も考えられるわね」
「とにかく、詳しい話を訊きたいね」
「オーケー。これから長岡まで行きましょう。もちろん、覆面パトで送るわよ」
私たちはアイスコーヒーを飲み干すと、空になったカップを手に応接室を出た。冷房の効いていた室内から廊下に出ると、一気に湿った生暖かい空気に晒される。冷房のない空間とはいえ屋内でこれなのだ。いざ外に出たらどんなことになるのか……。しかも現時刻はまだ午前九時。暑さのピークに達するお昼頃には、私は溶けてなくなってしまっているかもしれない。