第一章 謎の凶器
新潟県長岡市内で変死体が発見された。後頭部に受けた打撲が致命傷と見られ、他殺の線で警察が捜査を開始したのだが、状況が芳しくないらしいことは、新潟県警捜査一課の丸柴栞刑事が、こうして素人探偵である安堂理真に捜査協力を求めてきてることから明らかだった。
「有力な容疑者が二名挙がってるんだけど、決め手に欠けているのよ」
県警の応接室で、丸柴刑事はテーブルに資料を広げた。その対面に座る理真と私――江嶋由宇――は書類に視線を落とす。
安堂理真は作家を生業としているが、不可能犯罪など警察が手を焼く類いの事件が発生した際には、警察の要請により〝素人探偵〟として捜査協力を行うことがままある。そのときには、私、江嶋由宇も〝助手〟として同行することがほとんどだ。私は理真とは高校時代からの友人であり、彼女が住まうアパートの管理人という関係でもある。対面する丸柴刑事も、理真とは素人探偵として活躍する以前からの友人同士だ。プライベートでは友人であり、いざ、事件捜査となると、それぞれが探偵、ワトソン、刑事になるという特殊な関係性を持つ二十代の女性三人組であるのだが――それはともかく、事件の概要を把握していくことにしよう。
「まず、死体発見の経緯からね」と丸柴刑事の話が始まった。「三日前、土曜日の午前九時五分、長岡市内に住む長屋邦夫さんから、『自宅の物置に死体がある』と110番通報があったの。死体の身元はすぐに割れたわ。長岡市内の不動産会社に勤めていた黒田周吾さん。死体の懐の財布に入っていた免許証と、それに、通報者の長屋邦夫さんの証言から判明したの」
「発見者が証言って、ということは?」
「そうなの」丸柴刑事は、理真に頷いて、「二人は知り合い同士だったのよ。黒田さんの勤めていた会社で聞き込んだところ、長屋さんの土地と自宅をその不動産会社が買い取る計画があって、黒田さんが担当だったそうなの。だから、二人は何度か顔を合わせていたのね」
「黒田さんの死体が自宅敷地内で発見されたことについて、長屋さんは何て言ってるの?」
「まったく分からないと。でもね、その前日に二人は会う約束をしていたんだけど、結局顔は合わせられなかったみたい。長屋さんの証言による経緯は、こう……」
死体発見の前日、金曜日の午前十一時頃、長屋は黒田のスマートフォンに連絡を入れた。自宅と土地を売る件について詰めた話をしたいから自宅に来てもらいたい、という内容だったという。両者のスマートフォンの使用履歴により、この発着信が実際にあったことは確認されている。正確な発着信時刻は午前十時五十七分。通話時間は二分三十秒。その通話を終えると黒田は、長屋からこういう電話があったので、外回り営業の予定を変更してこれから長屋宅へ向かう、と会社に連絡を入れた。電話を受けた事務員の話によれば、午前十一時二十分に長屋宅を訪れる約束をしていたという。
「その約束時間って」と理真が、「黒田さん側の都合で決定したってことだよね。長屋さんは自宅にいるんだから、黒田さんがその時点で到着できる時間が、十一時二十分だったと」
「それが、違うみたいなの」
「どういうこと?」
「その電話をかけたとき、長屋さんのほうも外出していたのよ。長屋さんの証言によれば、黒田さんはたまたま長屋さん宅の近くにいて、十分くらいで訪問できると言ったそうなんだけれど、長屋さん自身のほうが、これから家に戻るのに二十分くらいかかるから、と」
「長屋さんは、どこに?」
「長岡駅周辺。電波を拾った基地局の情報からも間違いない。実際、長岡駅周辺から長屋さんの自宅まで、車で二十分程度かかることは確かね」
「でも、さっきの話だと、二人が会うことはなかった」
「そう。長屋さんの証言を続けるわね……」
黒田に電話してすぐに、長屋は自宅に戻ろうとしたが、その道中で渋滞にはまってしまったという。往路ではまだ始まっていなかった道路工事が開始された影響だった。のろのろ運転を続けているうちに気が付けば、時計は約束時間を五分ほど過ぎた十一時二十五分を示していた。一報を入れておこうと――運転中だが渋滞でほとんど停車しているも同然だからと自分に言い訳をしながら――長屋は黒田のスマートフォンにかけたが、電源が切られているか電波の届かない場所にいる、というアナウンスが流れるばかりだったという。
「この証言も間違いないわね。死体発見時、黒田さんのスマートフォンは電源が切られていたし、発着信記録からも確認は取れているわ。ついでに言うと、黒田さんの死亡推定時刻は午前十一時から午後十二時の一時間のあいだと見られているから、その時点ですでに、黒田さんは長屋さんの家の物置で死体となっていた可能性もあるわね。死体には動かされた形跡がないから」
わかった、と理真が頷いたところで、丸柴刑事の説明は再開される。
結局、長屋の帰宅時刻は、約束の十一時二十分に十五分遅れるところの十一時三十五分となった。自宅には誰もおらず、改めて黒田に電話をしたが、電源が入っていない云々のメッセージが変わることはなかった。腑に落ちないものを感じつつも長屋は、その日は黒田と連絡を取ることを諦めて、夜になり床についたという。
そして、翌朝。長屋は最近になって庭の一角を畑にして野菜の栽培に凝るようになり、その朝もさらに畑を広げるべく、農作業用具をしまってある物置を開けた、そこで……。
「死体を発見したそうなの。死体はうつ伏せで顔が見えない状態だったから、それが黒田さんだとは分からなかったそうだけれど、ともかく、すぐに警察に通報したと証言しているわ。で、駆けつけた警察が免許証から死体の身元を確認して、念のためにと、通報者である長屋さんにも免許証を見せて、この人物を知らないか、と尋ねてみると」
「知り合いの不動産屋だった、と」
「そういうこと。それで警察が詳しい話を訊いてみたところ、さっきの話を証言したというわけ。黒田さんの勤め先にも連絡を入れて、長屋さんの話は補完されたわ」
「前日の午前中に、外回りの予定を変更して長屋さん宅へ行く、って話だね」
「そう。それきり――その直後に死んでいるから今となっては当たり前なんだけど。スマホの電源も切られていたしね――黒田さんと連絡は取れなくて、結局、商談のためにスマホの電源を切ってそのままにしていて、外回りを再開して直帰したんだろう、って思って、会社側では特に怪しんだりはしなかったみたい。それで翌日、始業時刻の八時半になっても黒田さんが出社してこなくて、そこで初めて、おかしい、って思ったそうなの。で、とりあえず九時まで待ってみよう、となっていたところに、当人が死体で発見された、と警察から連絡が来たそうなの」
死体発見の経緯までを話し終えて一段落したところで、丸柴刑事はアイスコーヒーをすすった。理真と私も紙コップを手に取る。ミルクが投入されているのは私のコーヒーだけだ。
「その、亡くなっていた黒田さんなんだけど」テーブルに紙コップを置いて、理真が、「他殺であることに疑いはないの?」
「ない」同じく紙コップを置いた丸柴刑事が応じて、「それじゃあ、死体の所見に移るわね。と言っても、こちらは単純なものよ。外傷は後頭部に一箇所だけ。頭蓋骨が陥没していて、これがすなわち致命傷ね。ほぼ即死と見られている。さっきも言ったように死体に動かされた形跡はないけれど、死んだ直後、まだ死斑が現れる前に短い距離を動かしたということはありえるけどね。死亡推定時刻は午前十一時から午後十二時までの一時間。傷の位置からして自殺ということは考えられないと思う。事故でもないわね。というのもね……」
一度言葉を止め、丸柴刑事は深いため息をついた。察するに恐らく、ここがこの事件の肝であり、素人探偵、安堂理真に出馬要請がかかった理由にもなっているのだろう。
「現場に凶器がなかったのよ。もし、足を滑らせるなんかの事故で頭を打ったのだとしたら、その打ち付けた物体が残るはずでしょ。自殺であればなおのこと、即死してから凶器を始末できるわけがない」
「そこまで言い切ると言うことは、凶器がどんなものだったかは判明してるんだね?」
「してない」
「はあ?」
「おぼろげながら凶器の形状は把握できる。でも、それに相当する物体が、現場のどこにもない、と、そういうわけなのよ」
丸柴刑事がめくった先のページには、死体を撮影した数枚の写真があった。その中には死体の後頭部を接写したものもあるのだが、頭髪と血痕によって、素人目には傷口の形状まで見て取ることは出来ない。
「これだけ見ても分からないわよね。傷口の形状から科捜研が割り出した凶器は、こういう形状のものだと思われるの。多角形――たぶん六角形――の固い棒状のもので、直径は五から八センチ程度。一撃で頭蓋骨を砕けたことから、硬くて重量のある鉄製の可能性が極めて高い」
「多角形の鉄棒? 四角形じゃなくて?」
「傷口に凶器の角が命中してるんだけれど、その角の角度からしてね、四角形ということはないと。角の角度は九十度よりももっと鈍角のはずだと」
「六角形って、鉛筆みたいなものってこと?」
「そうね。鉛筆をイメージしてもらうと分かりやすいわね」
「それでもって人を殴ったとなると、それなりに長さも必要になるよね」
「うん。三十センチとか……五十センチもあれば凶器としては使い勝手がいいかもね」
直径八センチ近く、長さ五十センチ程度の、六角形をした鉄の棒? 何だそれは?
「長屋さんにも当然訊いたけれど、そんな形状のものは物置にはない、って」
「硬い棒状のものってだけなら色々とあるだろうけれど、ほとんど断面は四角形か円形だよね。六角形となると、レアだね」
「でしょ。そういうもの、何か知らない? 理真」
「それこそ鉛筆なんじゃ。恐ろしく巨大な鉛筆」
「バカ言わないでよ……」
本日二度目のため息を、丸柴刑事はついた。
「凶器がない……」理真も、うーん、と深い息を吐き出すと、「ということは、犯人が持ち去ったんだろうね」
「それだけ特徴的な物体なら、現場に残しておいたらすぐに足がつくでしょうしね」
「というかさ、そもそもの話、なんでそんな奇妙なものを凶器に使ったの? 始めから物置になかったのなら――あくまで長屋さんの証言を信じるならだけど――それは犯人が持ち込んだことになるよね。どうしてもその巨大鉛筆的なもので殺さなきゃならない理由があったってこと? 凶器の正体と、それを使った理由、不可解な謎が二つも重なってる」
「厄介よね。理真を呼んだ事情が分かったでしょ」
「期待には応えたいけど、なにせ取っかかりがなさすぎるって」
「じゃあ、この謎はひとまず置いておいて、容疑者を見ていこうか」
「二人いるんだっけ」
「そう。その前に、コーヒーのお代わり、持ってくるわ。由宇ちゃんはミルク入りね」
「ありがとうございます」
頭を下げた私に微笑み、丸柴刑事は空になった三つの紙コップを手にひとまず応接室を出た。