呪いはひな鳥のように
彼らが依頼人に使う決まり文句がある。
「命を奪う以外の呪いであればなんなりと」
人を呪うということは、自らも痛手を負う可能性が高い。けれど、もしも金銭を支払うことにより痛手を負うこともなく憎い相手に報復することが出来ると言われたらどうだろう?
裕福な家に生まれた貴族の中には、金銭で自分の望みが叶うのならば喜んで支払おうとする者が多い。そして、そういった依頼を受けて豊かな生活を送る魔術師が国内の至るところにいるのは防ぐことが出来ない事柄だった。
呪いを生業とする魔術師達を【闇落ち】と人々は呼び、恐れていた。
黒猫の姿をした魔獣ジャックは幼い頃、ずっとその【闇落ち】に飼われていた。食事は生きる為に必要な最低限の分量を与えられ、首輪によって行動を制限されていた。主である【闇落ち】から一定の距離を離れると爆発する魔法の首輪だ。
「ジャック、この男の足を折れ」
「ジャック、この女の肌に醜い痣をつけろ」
「ジャック、この老人に病をもたらせ」
残酷な命令でも自分が生きる為には拒否することは出来なかった。反抗すれば蹴り飛ばされ、食事も与えられない。
それとは逆に、望んでもいない禁忌とされる呪文の知識を与えられた。
そもそも魔獣は呪文を唱えない。体内にある魔力を目標物に向かって放つだけだ。しかし、やろうと思えば詠唱魔術も使うことが出来る。そこに目を付けた【闇落ち】達は魔獣を捕獲し始めた。
森で暮らしていたジャックにとって人間は時々見かける攻撃的な生き物だった。けれど、近付かなければ他の動物と何ら変わらないため、怯えることも厭うこともなかった。
しかし、今は人間がいかに危険な生き物なのか身を持って知っている。動物は皆自分のために行動する。それなのに人間は他者を自分のために動かし、後始末までやらせようとする。
まだ幼いジャックは寝ている時に捕獲されてしまった。成獣であれば強固な結界を張り身を守ることが出来るのだが、ジャックの結界は弱すぎた。
(もっと魔力があればこんな目に合わなかったのに!)
幾度も悔しい思いをした。とにかく一日でも早く成獣になれることだけを願った。そうすれば目の前の人間を殺し、自由になれると信じた。いや、信じるしかなかった。そうしなければ心が壊れてしまうと本能が教えてくれた。
毎日強要される仕事は人を呪うことだ。初めの頃は躊躇っていたが、徐々に何も感じなくなっていった。
【闇落ち】は自分で誰かを呪うことをしなかった。それは呪詛返しによって呪いを我が身に受けてしまう危険があるからだ。
代わりに呪いをかける仕事を請け負うのは魔獣だ。【闇落ち】は出来るだけ魔力が多く知能の高い魔獣を捕獲し、無理やり魔獣契約を結ぶ。そして、魔獣が倒れて動かなくなるまで魔力を搾取する。
彼らにとって魔獣は金を稼ぐ為の道具でしかなく、使えなくなれば別の魔獣を捕まえればいいという程度の価値しかないのだった。
その日も跳ね返された呪いのせいで、ジャックは口をはくはくと動かし必死で空気を身体に入れていた。どんなに息を吸い込んでも肺がまともに働かず、苦しみは続く。金色の瞳からは涙が零れ落ち、床に刺さる爪からは血が滲んだ。
「ジャック、死ぬなよ。お前のことは気に入ってるんだ」
居間にあるソファーにゆったりと背中を預け、うたた寝から目を覚ました主が薄目を開けて足元の黒猫を見た。
どうせ呪いをかけるのならば、主に死に至る呪いをかけてやろうと試したことがある。たとえ跳ね返されて自分が死んでもかわないとさえ思い挑んだのだが、呪いは発動しなかった。
「ジャックはバカなのかなぁ?主である私に害を与えるような呪文が上手く働くと思ったのかい?そんなことを考える使い魔には罰を与えないとねぇ」
ジャックは十日間、水だけしか与えられず蹴り飛ばされた。しかし、主は死ぬギリギリ手前で暴行をやめる。お気に入りの商売道具を失うのは困るのだろう。
最悪の主と契約させられてからどのくらいの時間が過ぎたのかジャックには分からなかったが、季節は本格的に暑い夏を迎え室内の不快さは増していた。
古い屋敷は埃の臭いが充満している。呪いの仕事で大金を手に入れても、主は住環境を整えることには全くの無頓着で、使用人を雇い入れることも修繕することもしなかった。
主の身の回りの世話は人型になれる魔獣が行っていた。もちろん爆弾の仕掛けられた首輪をつけられており、逃げ出すことは不可能だ。
いつ終わるかもしれない苦しいだけの生活に、心が悲鳴をあげていた。しかし、そんな生活に突然終止符が打たれた。
(何か来るな)
居間の片隅でぐったりと身体を横たえていたジャックは、耳だけをピクリと動かした。
人間よりも鋭敏な魔獣は、膨大な魔力を有する生き物が屋敷に向かっていることを主よりも先に察知した。
(この気配は複数の魔術師か?しかも移動のスピードが尋常じゃない)
ジャックはソファーでうたた寝をしている主の方を見た。深夜まで酒を飲んでいたため、この異常事態に気付いてはいないようだ。まだ目を覚ます気配はない。
(あっ!気配が消えた!?)
ジャックが心の中で叫んだ時だった。
屋敷の床から一気に冷気が天井に昇り、壁が凍りついた。ミシミシと軋む音と共に氷柱が主の周りを囲むように幾重にもそそり立つ。
ジャックの視界は氷で埋めつくされた。呆然としているところにバキバキッ、ドォーンと轟音が響く。居間の扉が破壊され室内に倒れ込んだのだ。
「全員、捕縛準備!」
屋敷に転移してきた魔女が扉を踏みつけて叫ぶと、彼女の後ろから走り込んできた男達が氷柱の周りを取り囲んだ。
「氷解!」
再び魔女が叫ぶと、複数の氷柱がバシャーンッ!!という激しい音とともに床に流れて波を作った。
消えた氷柱の代わりにジャックが目にしたのは、全身ずぶ濡れでボタボタと水滴を垂らし鎖で拘束されている主の姿だった。あまりにも突然の出来事であり、目を見開き茫然自失となっている。
「グレン、ロイドは【闇落ち】を連れて転移!その他の者は魔獣の保護にあたれ!」
『了解!』
次々と指示を出す魔女に従い、男達も藍色のマントを翻して行動に移す。最初に二人の青年が主と共に転移して消えた。次に三人が部屋を出ていき、最後に残った一人がジャックの元に寄ってきた。
「もう大丈夫だ。君達は我々魔術師団が保護することになっている」
「………魔術師団」
ジャックが掠れた声で言葉を発すると、魔女もジャックの元にやってきた。
「ああ、なんてことを」
グレーがかった髪を結い上げた壮年の魔女は、ひざまづいてジャックの首元に手を伸ばした。ひんやりとした冷気が首まわりに広がるのをジャックは身動きせずに受け入れた。
すると、ガシャッという音とともに凍りついた首輪が床に落ちた。
「私の名前はイザベラ・フランです。あなたの名前を教えてくれますか?」
「………ジャック」
「では、ジャック。あなたには今、治療と休息が必要です。これから病院に連れていってもいいかしら?」
「………どうでもいい」
最悪な主が消え、首輪も外れた。やっと自由になれたというのに、ジャックには気力が残っていなかった。今、どうしたいのか判断することなど出来るわけがない。心の中は空っぽなのだ。
下を向き、目線を合わせようとしない黒猫をじっと見つめた魔女はなんと声をかけるべきか逡巡したが、ふと古い諺を思い出した。
「呪いはひな鳥のように塒に帰る――――という古い諺があります。呪いは必ず戻ってくるという意味です。あの男は今までの報いを受けて二度とあなたの前に現れません。ジャック、まずは私達の元で治療を受け、新しい生活を初めてもいいのではないかしら?」
(新しい生活?)
ぼんやりとした頭には何のイメージも浮かばない。ただ、あの男に二度と会わなくて済むのはいいと感じた。
「連れていって」
とにかく頭が痛くて身体も重い。この屋敷から離れられるならどこでもいい。ここより酷い場所なんてあるはずがない。
「ええ、もちろんです。では、病院に転移しますので眠って下さいね。今の体調で転移魔法に包まれたら酔ってしまいますから」
ジャックが小さく頷くと、魔女の手が瞼にそえられた。
「良い夢を」
優しく囁かれた眠りの呪文にジャックは意識を手放した。
「ジャック!薬草取りに行こう!」
玄関で小さな魔女が使い魔の黒猫を呼んだ。
大きな玄関扉を開き、若草色の瞳を輝かせながら黒猫がやってくるのを待っている。
黒猫は新しい主の声を聞きつけ、階段を駆け下りた。
「デイジーは薬草を集めるのが楽しいの?ものすごく嬉しそうに見えるけど」
「えっ、違うよ。私の使い魔と一緒に出掛けられるのが嬉しいの。今まではお父様の使い魔をお借りしていたから、ずっと自分だけの使い魔が欲しいと思ってたのよ」
デイジーは足元にやって来た黒猫の頭をなでる。
「今日はジャックの初仕事よ。一緒に頑張ろうね」
「僕の初仕事が薬草集め………」
魔術師団に保護された日から三年が過ぎた。今はあの頃と比べて身体も魔力も成長している。もう自分が弱いが為に無理やり働かされることなどないだろう。
一時は、使い魔の契約など二度とごめんだと思っていたが、世の中何が起きるか分からないものだ。なんと再び契約をすることになった。しかも、新しい主は十二歳の少女で、主な仕事は護衛。森や町に行く時に付き添って歩く。そして、頼まれれば薬草を集め、夜は一緒に眠る。
「いいね」
ジャックはしつこく撫でまわす主の手から逃れ、屋敷の外に飛び出した。もう首輪は必要ない。自分が選んだ主の側はとても居心地がいいからだ。