悪魔令嬢はその肩に、苛酷な印を背負っている 〜聖女など、おとぎ話だと思っていました〜
「俺は真実の愛を知ってしまった。申し訳ないが、へスター・ワナメイカー侯爵令嬢。貴女との婚約は解消する」
ルパート王子にそう告げられたへスターは、ギリッと眉を吊り上げた。
凛然としているルパート様の隣に立つ私を指差し、怒髪天を衝く勢いで彼女は言葉を荒げる。
「この汚らわしい女!! わたくしの王子様を奪う泥棒猫!! あばずれ!! ルパート王子殿下は騙されているのですわ!! この女は、この女は!!」
へスターは私に飛びかかってきたかと思うと、左の袖を引っ張られてビリビリと破かれた。
強制的にあらわにされた素肌に、魔法陣の痣がさらけ出される。
「この女は、悪魔の申し子なのですわよ!!!!」
へスターは勝ち誇ったように、そう宣言した。
***
私は悪魔に呪われて生まれてきた。それとも悪魔に愛されてしまっていたのか。
左の肩には、悪魔が描いたような気味の悪い、魔法陣の痣。
生かしてはもらえたけれど、侯爵令嬢として生を受けたにも関わらず、扱いは奴隷以下だった。使用人でさえも私を見る目は冷たく、嫌な仕事ばかりを回される。
冬には氷が張ろうかというような冷たい井戸水での洗濯。御不浄の掃除や片付けはいつも私。食事は使用人の余り物を摘むくらいが関の山で。
服はどんなに洗っても綺麗には落ちず、常に薄汚れていた。
でも十六歳を迎えた私に、一筋の光が差した。
「お前の結婚相手が決まったぞ。感謝しろ」
父が私を見下し、母が汚いものを見るような目で私を見ている。ひとつ下の妹は私を見たくもないのかどうでもいいのか、この場にいなかったけれど。
私は、両親に感謝した。
結婚なんて、夢のまた夢だと思っていたから。この生活から抜け出せるきっかけになると思ったから。
「ありがとう、ございます……お父様、お母様……」
「よしてちょうだい。あんたなんかにお母様だなんて呼ばれたくないのよ。気持ちが悪い」
「……はい」
部屋を出ると、扉越しに両親の話し声が聞こえてきた。
ようやく厄介払いができるな。
貧乏伯爵に金を積ませてなんとかここまで漕ぎ着けたわね。
出戻ってきたらどうするんだ。
一度ここから出たら、うちの子じゃなくなるのよ。戻ってこないように釘を刺しておきましょう。
出てったあとなら、うちに呪いの災いが降りかかることもないだろう。
これでやっと安心ね。
楽しそうに笑う声が響いてくる。
今までは呪われることを恐れて、私を殺さなかっただけなんだ。
そう思うと涙が溢れそうになったけど、これからの未来を考えて、私は耐えることができた。
この家から出て行く日は、綺麗なドレスを用意してもらえた。
新品でも流行の形でもなかったけど、そんなことはどうだっていい。
生まれて初めて着たドレスに、私は浮かれた。
だって、ずっと憧れていたんだもの。舞踏会だなんだと着飾っては出かけて行く、妹に。
「お前は今日から婚約者の家で過ごすんだ。もう二度とこのうちを一歩だって跨ぐんじゃないよ!」
「まったく、お前はドレスを着ても醜いな! 普通は十六歳なら、肌にハリや艶があるものだが、どうしてうこう醜い姿で生まれたのか……吐き気がする」
骨の形がわかるくらいに痩せている私の肌。
憧れのドレスを着ても、妹のように綺麗になれるわけじゃない。
「ようやく出て行くんだ? 外で会っても絶対に声かけないでよね! あんたと私が姉妹なんてバレたら、私生きていけないわ!」
ホールの階段の上から、妹が叫ぶように言った。私に近寄りたくもないらしい。
少し待っていると、約束の時間通りに伯爵様が現れた。
伯爵様は、私の姿を見てぎょっとしている。
「えと……彼女が僕の婚約者でしょうか……?」
「ええ、そうよ、よろしくね!」
「まぁ一つ、これでよろしく頼むよ。これは契約だ。なにがあってもうちの娘だったとは口外しない約束を忘れるな」
そう言って両親は大きなバッグをふたつ、彼に渡している。きっと、大量の札束が入っているんだろう。
婚約者である男はニヤッと笑って、こくりと頷いた。
「確かに。それでは失礼いたします」
すぐさま背を向けて歩き出してしまった伯爵様に、私はどうすればと慌てふためいた。
「おい、早く着いていけ!」
「もう二度とここに来るんじゃないよ!!」
「キャハハ!!」
両親と妹の声に送られて、私は伯爵様を追いかける。
伯爵様はもう馬車に乗り込んでいて、私も入ろうとしたとき。
「お前は歩け」
冷たい目が飛び込んできた。
馬車は無情にも出されて、私は必死に追いかける。
私は伯爵様のお名前も、ましてやお屋敷の場所も知らない。見失ったら終わりだと、必死で追いかけた。
屋敷になんとか着いたものの、そこでの扱いは実家にいるときと変わらなかった。
婚約者である伯爵様と、目が合うたびに舌打ちをされる。
「こんな骸骨のような女、金を貰ってなきゃ婚約者になどなるものか! まったく、ひどい女をつかまされた!!」
私は、この男に希望を抱いてしまったのかと落胆した。
それでも伯爵様は、一応の婚約者として扱ってくれた。
大金をもらった手前、見せかけでもそうしなきゃいけなかっただけだろうけど。
「お前のような女を拾ってやるのは俺くらいだ! 感謝しろ!!」
そう、かもしれない。
誰も私なんて相手にしてくれない。
〝お前〟や〝あんた〟と呼ばれ続けて、私は自分の名前すら忘れてしまった。
もしかしたら、最初から名前なんてつけてもらっていなかったのかもしれない。
「感謝の言葉を!! 言わんか!!」
ガスッと音がして、お腹に痛みが走る。
今まで酷い目に遭ってきたけど、暴力を振るわれたことはなかった。
感謝の言葉なんて一言だって伝えたくない。だけど言わなきゃ、またきっと蹴られる。
私が「ありがとうございます」とこうべを垂れると、伯爵は満足したように去っていった。
ここには希望の光なんてどこにもない。地獄だ。
昔、この国には聖女がいて、人々を苦難から助けたという逸話があるけれど。
そんなおとぎ話に夢なんか持てるわけもなかった。
私は息を潜めるように日々を過ごしていく。
だけどある日、私は生まれて初めて、夫婦や婚約者が同伴で出られる貴族の交流パーティーに出席できることになった。
王家主催の招待状だから出さないわけにいかないと、伯爵様はいやそうだったけど、私は嬉しかった。
一体、どんな煌びやかなところなのか、この目で見てみたかったから。
それさえ見られたら、もう死んでも悔いはないって、諦められたから。
伯爵様は私を着飾らせたけれど、やっぱり貧相なのは変わらなくて。それが少し悲しかったけど、きれいな服を着てきれいな場所に来られたのは本当に嬉しかった。
「やだ、見てあの女」
「よくあんな女を連れて歩けるもんだ」
「あの伯爵は、見る目がなさすぎるな」
クスクスと笑われている声がして、伯爵様の苛立ちが蓄積されているのを感じる。
社交界に出ることで、伯爵様の評価がぐんぐん落ちていくのがわかった。
「……もう、我慢がならん!!」
伯爵様がそう言ったかと思うと、私はドンと突き飛ばされた。
こらえきれずによろめいて、私はその場に倒れ込む。
「俺に近寄るな!! 薄汚い女め!!」
唐突のことだったけれど、いつもなら殴られているところ。さすがに人前では殴られないかとホッとする。
「お前のようなみすぼらしい女は、俺にふさわしくないというのがわからんのか! 十六歳とは思えん風貌、気味が悪い! どうせ俺の金目当てだろう! 婚約破棄してやる!!」
私は奥歯を噛み締めた。お金目当てだったのは、伯爵様の方だったのでは。
ああ、でも私は伯爵様のところを追い出されたら生きてはいけないだろう。
こんな醜い女を雇ってくれるところなんてないだろうし、雨風を凌げる家もない。
だからといって、伯爵様に婚約破棄はやめてほしいと縋るつもりもない。
死ぬなら死ぬで……もう構わない。
「目障りだ! 今すぐ消えろ!! どこかでのたれ死ね!!」
私は立ち上がると、出口に向かって歩き始めた。
私なんて生きている価値がない。どこに行ってもすべての人を不快にして、嫌われるだけの人生。苦しめられるだけの人生。
もう終わりにしよう。希望なんて、どこにもないんだから。
そう思いながら外に出ようとしたけれど、誰かに道を塞がれて、どんっとぶつかってしてしまった。
「ひ、ルパート王子殿下……!!」
伯爵様の声が聞こえて、私はその人を見上げる。
美しい蜂蜜色の髪に、目の覚めるような紺碧の瞳。
私、もう死んでしまったのかしら。この世にこんな美しい男の人がいるなんて、信じられない。
「おい、お前! 無礼だぞ、頭をさげんか!!」
伯爵様が慌ててドタバタやってきて、私の頭をむんずと掴んで頭を乱暴に下げさせられた。
「ヨーク伯爵、レディに対してその扱いは感心しない」
「は、は?! いやレディって」
ぷっ、と伯爵様が小さく噴き出す音が聞こえた。
「あ、し、失礼を。この女が王子殿下に無礼を働くので、つい」
伯爵様は私を突き飛ばすようにして手を離した。目だけで王子様を確認してみると、蔑むような瞳を……私、ではなく、伯爵様に向けられていた。
「彼女は、貴公の婚約者ではなかったのか?」
「は、そうでしたが、見ての通り酷い風貌で! 今婚約破棄を言い渡したところです」
「一部始終を見ていた。貴公の横暴が、あまりに目に余ったのでな」
伯爵様のムッとする雰囲気が手に取るように伝わってきて、私は殴られるんじゃないかと身を固くする。
「無理やりに婚約させられた俺の身にもなっていただきたいですが」
「だからといって、暴力を振るっていい理由にはならない」
「では王子殿下は、こんな女でも愛せるとでもいうんですか?」
鼻で笑う、挑戦的な態度の伯爵。
わかっている。私が誰にも愛されることはないってことは。これ以上、惨めな思いにさせないでほしいというのに……!
「それは、彼女と親しくなってみなければわからない」
王子様から発せられた言葉に、少なくとも私は驚いた。
絶対に『こんな女、無理に決まっている』という答えが返ってくると思ったのに。
「はは……! さすが王子殿下だ。じゃあぜひ、こいつと親しくなってやってくださいよ」
「わかった。そうしてみよう」
これは、一体なんなの?
伯爵様は私を厄介払いできると喜んでいるのはわかるけれど。王子様の真意は?
「住まう場所もないようだから、こちらで用意しよう。来てくれ」
そう言われてもどうしようかと迷っていると、周りにいた護衛らしき騎士の人に促されて歩かされた。
ああ、なんだ……また地獄が始まるだけだ。
あのまま追い出されて死んだ方がましだったというのに。
だけど、連れてかれたのは王宮の中で。
天井がどこだかわからないくらいに高くて、見たこともない素晴らしい絵が描かれている。
ここで私はなにをさせられるんだろう。痛いのや苦しいのだけは嫌だ。
「狭い部屋だが、ここが空いているから使ってくれ。不便があればいつでも言ってほしい」
狭い部屋? どこが?
十組くらいが軽くダンスできそうな部屋に、私はめまいを起こしそうになる。
「大丈夫か?」
そんな私を、王子様が支えてくれた。
「……軽すぎる」
骨と皮しかないような私に、王子様は眉を顰めた。
「醜くてごめんなさい。ぶたないで……!」
怖くて思わず訴えると、王子様の瞳は何故か悲しく揺れた。
「……そうか、君はそんな目に遭ってきたんだな」
そういうと、近くにいた侍女さんにリゾットと野菜スープを用意するように言いつけている。
そのあと王子様は、テーブルの椅子を引いていた。自分で座るのかと思ったら、「どうぞ」と促される。
座った途端に、〝俺より先に座るな〟って、殴られない……?
恐る恐る座ると、王子様はにっこり笑って私の対面に彼も座った。
「改めて、ようこそ王宮へ。俺はルパート・スティーヴン・メレディウス。知っているとは思うが、この国の第一王子だ」
もちろん、名前くらいは知っている。でもそんな人が私の目の前にいることが、理解できない。
「王子殿下、お会いできて光栄です……」
「ルパートでいい。名前呼びというのは、人との距離を近くさせるものだ」
「ルパート……さま……」
「ああ。貴女の名前は?」
「わ、私は……」
自分の名前を知らない。それが、こんなにも恥ずかしい。
「あの……覚えてないのです。もうずっと名前を呼ばれたことがなくて、自分の名前を知らないんです」
勇気を出して伝えると、ルパート様は少し驚いたような顔を見せた。
「……そうか、これは困ったな。名前がないと不便だろう。俺がつけても構わないか?」
王子であるルパート様自ら?
私は驚きながらもコクコクと頷くと、ルパート様はうーんと悩み始めた。
「ローズ……マリア……うーん、そうだな。アンジーなんてどうだ?」
「アンジー……?」
「ああ、天使という意味だ。貴女の無垢さが天使のように見えた」
天使なんて、私のどこを見てそう思うのか……。だけど、そんなイメージを抱いていてくれたのだと思うと、胸の内側からなにかが溢れ出しそうになる。
「気に入らなかったか?」
「いいえ……いいえ、逆です……そんな素晴らしい名前を、本当に私に……?」
「ああ、もちろん。気に入ってくれたなら嬉しいよ、アンジー」
不覚にも、私の目から熱いものがこぼれ落ちる。
涙なんてとっくに枯れたと思っていたのに……まさか、嬉しくて泣いてしまう日が来るだなんて。
「ルパート様……ありがとうございます……」
「……ん、よかった」
ルパート様は、それから食事を出してくれて、私はそれをいただいた。
生まれて初めてこんな美味しいものを食べたというと、「そうか」と目を細めてくれる。
「どうしてこんなに良くしてくださるのですか? 私はどうすれば、ルパート様に報いることができますか?」
食事を終えても不思議でならなくて、私はルパート様のお顔を見る。
するとルパート様は、当然のことのように答えてくれた。
「人は皆、人らしく生きる権利がある。その権利を俺は君に与えただけだ。アンジー、俺に恩を返す必要はない。ただ自分のために食事を摂り、しっかり勉強をするんだ。人らしく生きるために。一年の間だけは、その環境を俺が与える」
「……ありがとう、ございます……」
ルパート様こそが、本当の天使だわ。
私は生まれて初めて人に優しくされた。嬉しくて温かくて……これが人を好きになるって気持ちなのかしらと思った。
でも、だからこそ。
私は左肩をぎゅっと握った。
この悪魔の刻印とも言われる魔法陣を、絶対に隠さなきゃ。これを見られたらきっと、ルパート様にも嫌われてしまう。
人らしく生きるのは人の権利だと、ルパート様は言った。悪魔の子である私に、人の権利なんてないのだから。
ルパート様はそれから、私に衣食住を与えてくれて、勉強も学ばせてくれた。
専門の家庭教師が教えてくれるけれど、ルパート様も暇を見つけては来てくれて、食事のマナーやダンスに作法も教えてくれる。
私は今までやったことのなかった勉強に夢中になった。
海外情勢を学び、私はいかに小さな世界で生きていたかを知った。文字を学び、知識を得て、立ち居振る舞いを習得し、〝人〟として生きる喜びとはこんなに素晴らしいものだったのかと震えた。
毎日ちゃんと出る食事には、ありったけの感謝をして、残さず美味しくいただいた。
最初はリゾットばかりだったけれど、一年経った今ではもう、お肉もお魚も食べられるようになった。
骨と皮だけだった私の体は、ハリと艶を得て生き生きとし始めた。
「アンジー!」
「ルパート様!」
ほんの少しの時間でも会いに来てくれるのが嬉しい。
ルパート様のお顔を見るだけで、私の心は羽根のように軽く舞い上がる。
「今日は二人で食事をとれそうだ。俺の部屋に用意してもらうから、後でおいで」
「はい、ありがとうございます!」
ルパート様はまだ仕事が残っているとすぐ出て行ってしまわれて、私はまた勉強に精を出した。
夕食の時間になり、一緒に食事をしようと、私はルパート様のお部屋に向かう。
「っち。どこの娘かもわからん女が、調子に乗りおって」
ビリッと背中に突き刺さる視線。この声は……いつも私を目の敵にしている、ルパート様の秘書官の補佐である、ボット様だ。
どうやら私がルパート様と仲良くさせてもらっているのが気に食わないみたい。
私は彼のことを無視して、ルパート様のお部屋に入る。
「待ってたよ、アンジー。遅くまで勉強ご苦労様」
「ルパート様も、本日のご公務お疲れ様でございました」
二人で微笑み合いながら、食事をとる……この瞬間が、最高に幸せ。
「アンジーがここに来て、一年が過ぎたな」
「……はい」
ルパート様の言葉に、私の胸はざわついた。
この幸せは長く続かないと、わかっていたから。
〝自分のために食事を摂り、しっかり勉強をするんだ。人らしく生きるために。一年の間だけは、その環境を俺が与える〟
私はその約束を思い出して、夢のような一年を振り返る。
たった一年だったけど、その間に私は……恋を知った。人として扱ってもらえる幸せを知った。
ここから離れたくなんかない。けど……これ以上、ルパート様にご迷惑はかけられない。
「家庭教師から、アンジーは優秀だと聞いている。普通なら何年もかかる勉強を、たった一年ですべて自分のものにしてしまったと。俺もそう思うよ」
「ありがとうございます。勉強をする環境を与えてくださった、ルパート様のおかげです」
「アンジーの努力の成果だ。よくがんばった」
褒められると嬉しくて、勝手に顔が綻んでしまう。
ルパート様が目を細めていて、胸は大暴れを始めているんじゃないかと思うくらいにドクドク鳴った。
「それで、今後のことなんだが」
今後のこと。私の鼓動は不安へと切り替えられる。一年という約束は、もう終わっている。
私はここを出て、働かなくてはいけない。そのために教養を身につけていたのだから。
ここを出れば、もう二度と……ルパート様と食事できることはないだろう。それどころか、お目もじすら叶わなくなる。
「……どうして泣いている? アンジー」
ルパート様に言われてハッと気がついた。私が涙を流していたことに。
「いえ……もう二度とお会いできないと思うと……申し訳ありません……」
「出て行くつもりか?」
「いえ、出て行きたくなどありません……! 私、ここを出ていけば、また一人ぼっちになってしまう……」
「じゃあここにいればいい」
「え?」
顔を上げると、ルパート様はにっこり笑っていた。
「これからはアンジーにも仕事をしてもらいたい」
「仕事……ですか」
「ああ。俺の秘書官の補佐の補佐……まぁ雑用のようなものにはなってしまうが、それでもよければアンジーを雇いたい。今まで通り、ここに住んでくれても問題ない」
まさかの提案だった。仕事を与えてくれる上に、ここを出なくてもいい。
最高の条件に、私は「ぜひよろしくお願いします」と頭を下げた。
ルパート様の秘書官はスウィフト様という方で、その補佐をしているのがボット様だ。
私はそのボット様の下で仕事をさせてもらうことになったのだけど。
「ボット様、この書類はこちらにまとめておいた方がよろしいのでは。なぜこのようなやり方をするのですか?」
「うるさい、こうするのが慣例なんだ! お前は黙って言われたことをやっていればいい!」
頭ごなしにダメだと言われる毎日。
どう考えてもやり方が非効率で、無意味な労働も多いように感じてしまう。
スウィフト様にお尋ねしたくても、「余計なことをするな」とボット様に邪魔されて、話しかけることさえ許されない。
私が現状に不満を募らせていると、ルパート様が「仕事はどうだ」と聞いてくださったから、すべてありのままに話した。
ルパート様は私の提案を喜んでくれて、今後はそのようにするようにとボット様に伝えてくれた。
私は直接スウィフト様と話せるようになり、あれこれ改善点を提案する。半年もするとスウィフト様の信頼を得て、私の方を秘書官補佐、そしてボット様を私の補佐へと、立場を逆転させた。
「はは、とうとうやったな、アンジー! いつかこうなるとは思っていた!」
今でも私はルパート様と、たまにだけど一緒に食事をする。
その席で、ルパート様は痛快だとでも言うように笑っていた。
「こうなるとわかっていたのですか?」
「まぁわかっていたというよりは、そうなってほしいという願望だった。ボットは父上の恩人の息子なのだが、俺もスウィフトも手を焼いていてな。アンジーの有能さを俺とスウィフトで陛下に説いたんだ。ボットをクビにはできなかったが、それでもアンジーが上になってくれてほっとしたよ」
「そうだったのですか」
たしかにボット様は自分の思うようにやりたい放題だった。
義理がたい陛下が、恩もあって仕方なく雇い入れたんだろうけれど。王家のしがらみって、色々大変なのかもしれない。
そう考えていると、ルパート様は急に真顔になった。
「すまない、アンジー。君を利用するみたいになってしまった」
その言葉に、私は思わず微笑んでしまう。
利用だなんて瑣末なこと。私を信じてくれたからこそなのだから、嬉しくてたまらないくらい。
「いいえ、これくらいなんともありません。私、ルパート様のお役に立てて光栄です」
「そうか、ありがとう……でもこれからもボットはいる。困ったことがあったら、すぐ俺に相談してくれ」
「ありがとうございます、ルパート様」
私のことを考えてくれているのがわかる。大切にしてくれているのがわかる。
だからこそ、私もルパート様のためになんだってしたい。なんだって──
それからの私は仕事に邁進した。スウィフト様が大切な仕事を回してくれることもあって、やりがいは十分に感じている。
ボット様は毎日のように嫌味を言ってくるけれど、その程度じゃ私はビクともしない。もっと抉られるような言葉や暴力を受けてきた私には、耐性ができていた。
でもそんなある日、私は今まで受けたことのないダメージを心に受けることになる。
「今度、俺は婚約することになった」
婚約。
ルパート様の言葉に、私は身体中を引きむしられる以上の痛みを感じた。
いつかはこんな日が来るんじゃないかって、わかっていたけれど……。
だってルパート様は私より二つ年上の十九歳。今まで婚約者がいなかったのが不思議なくらいだったもの。
「おめでとうございます……お相手をお伺いしても……?」
「ワナメイカー侯爵家の、へスター嬢だ」
「ああ……おきれいな方ですよね」
「知っているのか?」
私はその問いには答えず、にっこりと微笑みを見せた。
知っているもなにも……私は彼女の美しさに、ずっと憧れていたから。
「これからはその令嬢との時間をとらなければいけなくなった。残念だが、アンジーとは……」
「わかっています。今までたくさん私に時間を割いてくださってありがとうございました。どうぞこれからは、そのご令嬢と仲良くお過ごしください」
「……すまない」
私は唇を噛んで、自分の涙に泣くなと言い聞かせる。
でも……ルパート様も唇を噛んでいるように見えるのは、どうしてだろう。
それからはルパート様と会う回数がグッと減った。
仕事上で顔を合わせるくらいで、プライベートの時間に会うことはなくなった。
そのかわり、ルパート様のご公務がスムーズに行くように、仕事を頑張った。私にできることは、もうこれしかなかったから。
「アンジーちゃんの仕事は早くて正確だし、助かるよ。僕が引退したら、次の秘書官はアンジーちゃんだね」
スウィフト様がそう言って笑っている。
そんな風に評価をもらえることが、私の今の生きがいだ。
背中にボット様の突き刺さるような視線を感じたけど、気にせずに仕事を続けていた。
ルパート様とへスターは逢瀬を重ねているようで、ご公務が終わると護衛騎士と共にいつも王宮を出ていく。
みんな帰っていなくなった秘書専用の執務室で、醜い嫉妬の炎が私の心の中に渦巻いた。
へスターと婚約して半年が経っても、私の中でいつも同じ疑問が舞っては消えていく。
どうして私じゃなかったんだろう。
暇を見つけては、へスターのところに通うルパート様。
相手が私であっても、おかしくはなかった。
だって私は、ワナメイカー侯爵家の長女だったんだから!!
ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
わかってる、すべての原因はこれのせい。
私は一人、服を滑らせて左肩を睨みつけた。
この気味の悪い魔法陣のような痣のせいで、私の人生は全部狂ってしまった。
ようやく人並みの幸せを手に入れているとは思う。でも、それだけじゃ足らないと感じてしまうのはいけないことだろうか。
へスターが羨ましい。
お父様とお母様の愛情を一身に受けた上、ルパート様の愛までも……。
「へスター……」
悔しかった。
私はへスターに憧れていたけれど、彼女は私をゴミクズ同然にしか見ていないことを知っていたから。
明るくて華やかで、美しくてすべてを手に入れられる妹。
醜い私を見ては、甲高い声で笑っていた妹……。
「憎い……っ!」
ドス黒い感情が渦巻いて、私の意志とは関係なくそんな言葉が溢れ出す。
左肩が熱い……苦しい……っ
「うわぁああ!? なんだ、お前の肩は……!!」
後ろからの声に驚いて、私は慌てて振り向く。
そこには帰ったはずのボット様がいて、私は言葉を失った。
気をつけていたというのに、肩の痣を見られてしまった。
でも、いつもの痣じゃない。赤黒く光ってる……うそ……!
「お前、あ、あ、悪魔だったんだな!!」
「誰にも言わないでください!!」
「や、やめろ、近寄るな!! この化け物め!!」
どうしよう、知られてしまった……
このままじゃ、ルパート様にご迷惑をかけてしまう!
「ボット様、どうかこのことはご内密にお願いします……! どうか……なんでもしますので!!」
「な、なんでも……だとう?」
私の言葉を聞いていくらか平静を取り戻したのか、ボット様は少し考えたあとニヤッと笑った。
「じゃあ、死ね」
「……え?」
いきなりの乱暴すぎる発言。死ねって……何度も言われてきた言葉だけど、王宮に来てからは一度もなかった。
「そ、んな……それは……」
「できないのか?」
「だって、死ぬだなんて! いやです! 私は……」
生きたい。
だって、生きる喜びを知ったから。
労働の楽しさを知ったから。
──そして、人を愛する幸せを知ったから。
たとえ叶わぬ恋だとしても、それらを放棄して死にたくなんてない。
「だったら、陛下や王子殿下に報告するしかないな。この女は悪魔だったと。どっちにしろお前は捕らえられて殺される。王子殿下がお前をこの王宮内に連れてきたということは、第二王子を呪い殺す算段だったんだろう? ああ、それとも陛下の方か?」
私は顔から血の気が引いていくのがわかった。
ルパート様に人を呪うつもりがなかったことは、誰より私がよくわかってる。
だってルパート様は、私が悪魔の刻印を持っているなんて知らなかったんだもの。
でも実際に私を連れてきた時点でそう思われても仕方のない状況なのは間違いない。
私のせいで、ルパート様が疑われてしまう……今までずっと、王となるべく頑張ってきたルパート様の未来が……閉ざされてしまう……!!
「わ、私が死ねば……このことは黙っていてくれるんですね……?」
「ああ、別に俺はお前がいなくなればいいだけだからな」
ボット様にとっては、どっちに転んでも私が死ぬからかまわないのだろう。
ある意味、見られたのがボット様で良かったのかもしれない。忠義に厚いスウィフト様だったなら、私がどう頼んでも報告されていただろうから。
「わかりました……では……死にます」
「はは! 見届けてやるよ!」
いつの間にか肩の痛みと赤黒い光は消えていた。いつもの痣に戻っている。
私は服を戻すと、王宮を後にした。後ろからはボット様がついてくる。
「どこで死ぬつもりなんだ?」
「……海です」
「入水自殺か、悪くねぇな」
この辺は海流の関係で、遺体が打ち上げられることはまずない。
だから、この肩の痣を誰にも知られずに死ねるはず。
私は海を目指して歩いた。
私の生まれ育った家……つまりワナメイカー侯爵家の目の前には、美しい海がある。
死ぬならばこの海にしようと思った。
生まれてきた意味がわからず、愛されることを欲していたとき、いつもこの海へ来て波の音を聞いていたから。
ざざーん、ざざーんと波の音が聞こえてきた。
薄い月明かりだけの海は、黒檀のように真っ暗で。ゾクリと背筋に冷気が走った。
「靴は脱いでおけよ、お前が自殺した証拠になるからな」
そう言われて、私は靴を浜辺に置いた。
細かな砂がまとわりついて、私の足を沈める。
さようなら、ルパート様。
あなたと過ごした二年間は、本当に楽しかった。
あなたは私に、人として生きる権利を与えてくれた。
衣食住、知識と教養。
生きる楽しさと幸せを。
たくさんたくさん与えてくれたのに、私はなにもお返しできなかった。
こんな痣を持って生まれて、ルパート様の足を引っ張ってしまうだけ。
これ以上の迷惑をかけないためには、死ぬしかないから……。
ざざーっと波が押し寄せて、私の足がくるぶしまで濡れた。
冷たい。
今からこの中に入らなければいけないと思うと、心底恐ろしい。
暗い海は、生き物すべての命を奪っていく悪魔のように、黒く大きく押し寄せてくる。
「早くしろ! こっちはもう帰りたいんだ!」
後ろから響く、ボット様の声。
でも怖くてなかなか一歩が踏み出せない。
「王子殿下がどうなってもいいのか?!」
その言葉に、私はようやく一歩を踏み出した。
さぶ、さぶんと、私の体を黒い悪魔が飲み込んでいく。
これでいいんだ。
生きていても、迷惑をかけるだけの私は、さっさと死ぬべきだったのだから。
でも。
私はルパート様のお顔を思い浮かべた。
私の中のルパート様はいつも楽しそうに笑っている。
最後にあなたと出会えてよかった。
優しくて、いつも褒めてくれて、気にかけてくれて。
あなたを、愛せてよかった。
私の人生は、それだけで意味があったと思える。
ありがとうございます、ルパート様……
そしてさようなら……どうか、どうかお幸せに……
闇に足を奪われていく。
私の中にあるのは、悲しみと恐怖だけだった。
もしも生まれ変わることがあるなら、今度こそ普通の人として生まれたい。
そう思いながら足を進めていたとき。
「ボットか? こんなところで何をしている?」
ルパート様の、声。
振り返ってはいけないとわかっていながら、私は足を止めて振り返ってしまった。
暗くて姿は見えない。けれど、人影がふたつあるのはわかる。
「この女物の靴は……まさか!!」
顔を上げた影と、目があった気がした。
そのまま彼は私目掛けて走ってくる。
「アンジー!! アンジーなのか!!」
ルパート様が来てしまう。
私は早く死ななければと、沖に向かって歩き出す。
「待て!! どうしてだ!! なぜ……!!」
バシャッとルパート様が海に入る音がして焦ったけれど、護衛の人たちに「おやめください」と止められていてホッとする。
今のうちに、私は海の藻屑と消えてしまわなければ。
「アンジー!! 待ってくれ……待ってくれ!! 離せ、お前たち!!」
ザブンッと私の頭の上を波が通った。
苦しい。もう、足もつかなくなった。泳ぎ方なんて知らない。
「アンジー!! アンジーーーー!!!!」
ルパート様の声だけが、なぜかよく聞こえる。
ああ、最後に愛する人の声を聞けるなんて。
「アンジーーーーーーー!!」
ルパート様の悲痛な声が聞こえた瞬間。
なに? 左肩が熱い……!!
パァーッと目の前が明るくなる。
白い、光……どこから? 私の……肩……?
「アンジー! そこにいるのか?!」
海の中にいるのに、ルパート様が護衛を振り切ってやってくるのがわかった。
信じられない……ルパート様が目の前にいる。海の中に潜って、私に手を差し出している。
ルパート様の目が、〝手を掴め〟と言っている気がした。
その必死さに、私は思わず手を差し出す。
ぎゅっと掴まれたかと思うとそのまま引き寄せられて、私はルパート様の腕の中にいた。
「ぷはっ!! 大丈夫か、アンジー!!」
海の上に出た時には光は消えていて。ルパート様が私の名前を呼びながら、岸まで泳いでくれる。
「アンジー……アンジー……! どうして自殺なんか……!!」
浜辺に着くと、私を抱き上げたまま……ルパート様は泣いていた。
私のために泣いてくれるなんて……嬉しくて、申し訳なくて……。
「無事で、良かった……」
「ルパート様……」
「自殺なんて馬鹿なことはするな……二度と……っ!」
真剣な言葉に、私の涙腺も壊れた。
そしてルパート様は、私の耳元に口を寄せて。
「愛しているんだ……」
誰にも聞かれることのない、小さな声だった。
一瞬、なにを言われたのかわからなくて。
でも直後、凍えていた体が燃えるように熱くなる。
「私も、です……!」
「アンジー……!」
強く、強く抱きしめられる。
信じられない。けど、夢じゃない。
私も力一杯、ルパート様を抱きしめた。
翌朝、私は自分の部屋で左肩を確かめた。
なにも変わらない、いつもの魔法陣のような痣。
赤黒く光ったり、白く光ったりもしていない。
ただ一つ、気になることがあった。
あの場にいたボット様が、動けなくなったことだ。
近くにいた御者の証言では、海が白く光った瞬間、ボット様は急に苦しみ出して倒れたのだという。
彼は喋れなくなり、手足も動かなくなった。
まさか……私のせい?
私には、本当に悪魔の呪いの力があるの?
やっぱり私は悪魔なの……?
ルパート様に相談すべきかとも思ったけれど、まだ勇気が出なくて言えなかった。
いつかは、言わなくちゃいけないことだとわかっている。
それでルパート様自身に処刑を言い渡されることになっても。
でも、今は……今だけは、幸せの中に浸っていたい。
証言されることがないとわかって、私はボット様にいじめられて自殺を強要されたのだと説明した。
大きく嘘はついていないし、あの男ならあり得ると納得してくれた。
そういうことは早く言わないかと、ルパート様には怒られてしまったけれど。
部屋の扉がトントンと鳴り、私は慌てて服を戻した。
「アンジー、入ってもいいか?」
「ルパート様! どうぞ」
一夜明けて落ち着いたルパート様は、今日も美しく凛々しい。
「風邪など引いてはいないか?」
「はい、ルパート様は?」
「俺も大丈夫だ」
そう言うと、ルパート様は紺碧色の瞳を細めた。
そして私をゆっくりと抱きしめてくれる。
「ルパート様……」
「いけないか?」
「……」
答えない私を見て、ルパート様は抱擁を解いた。
「……俺の婚約者のことを気にしているなら、心配いらない。へスターとは婚約解消しようと思っている」
「ほ、本当ですか……?」
「本当だ。これが王家のためと我慢していたが……真実の愛を知ってしまった俺には、もうへスターとの結婚は考えられない」
「ルパート様……」
「求婚は、ちゃんとへスターとの婚約を解消してからするよ」
求婚……
なんて嬉しい言葉、嬉しい響き。
でも、私の中に疑問が残った。
まさか、ルパート様……白い光を浴びたせいで、私の思い通りに動いてしまっている……?
愛していると言ってくれた言葉も。
私の〝呪い〟の力だったのだとしたら。
だけど確かめる術はなく、私はルパート様の言葉にこくんと頷くしかなかった。
翌週、ルパート様はへスターと両親を呼び出した。
陛下に先に相談した方がいいのではないかとも言ってみたけれど、どちらにしろ陛下を説得するにはワナメイカー家に納得してもらわなくてはいけないからと、却下された。
なにを言われるか知らずにやってきたワナメイカー家は、るんるんと機嫌が良さそうだった。
久しぶりに見るお父様とお母様、それに妹のへスター。
相変わらずきれいに着飾っているけれど、ルパート様を見た後ではえらく霞んで見える。
双方挨拶を終わらせると、へスターたちは訝しげに私を見た。
「ルパート様、その隣にいる女性は……」
「気が付かないか?」
「なにが、でしょう?」
へスターの言葉同様、私も心の中で首を傾げた。ルパート様の『気が付かないか?』の意味が、わからない。
「この女性の名は、アンジーだ。名前を覚えていないという彼女に、俺が名付けた」
「名前を覚えていない? 記憶喪失かなにかですの?」
「いいや。物心ついてからずっと、名前を呼ばれたことがないらしい」
「はぁ? そんな人、いるのかしら」
フフフと可笑しそうに笑っているへスターに、ルパート様は。
「貴女の姉だよ。アンジーは」
そう言い切った。
「「「「えっ?!」」」」
四人分の驚きの声が部屋に広がる。
どうして私がワナメイカー家の長女だと知っているのだろう。
私は一言だって言ったことはないのに……!
「この女が、あいつだっていうんですの?」
へスターは信じられないというように私を見た。
あの頃と比べると肉付きも血色も良くなっているし、一目で私とはわからなかったのだろう。
「あいつ? では姉がいたことは認めるんだな」
「それは──」
「いや、それよりもまず、伝えたいことがある」
「なんでしょうか……」
訝しむへスターに、ルパート様は目を逸らさず告げた。
「俺は真実の愛を知ってしまった。ここにいるアンジーを、心から愛しているんだ」
ストレートなルパート様の言葉に、私の顔は熱を持つ。きっと赤くなっているに違いない。
それとは対照的に、へスターたちは顔をどんどん青くさせていった。
「申し訳ないが、へスター・ワナメイカー侯爵令嬢。貴女との婚約は解消する」
ルパート様にそう告げられたへスターは、今度はギリッと眉を吊り上げた。
凛然としているルパート様の隣に立つ私を指差し、怒髪天を衝く勢いで彼女は言葉を荒げる。
「この汚らわしい女!! わたくしの王子様を奪う泥棒猫!! あばずれ!! ルパート王子殿下は騙されているのですわ!! この女は、この女は!!」
へスターは私に飛びかかってきたかと思うと、左の袖を引っ張られてビリビリと破かれた。
強制的にあらわにされた素肌に、魔法陣の痣がさらけ出される。
「この女は、悪魔の申し子なのですわよ!!!!」
へスターは勝ち誇ったように、そう宣言した。
私は、魔法陣を隠そうとして……やめた。
いつかは告げなければならなかったこと。それが今になっただけの話。
ルパート様は驚いたように私の左肩を見ている。
「……これは、もしかして」
「そうですわ!! 悪魔の刻印ですのよ!!」
「悪魔の?」
「そうですわ! この女の周りで、おかしなことはありませんでしたの??」
「おかしな……」
ルパート様は、言葉を詰まらせている。きっと、ボット様のことを思い出しているに違いない。
「それに、王子殿下が急にこの女を愛しているなんていうのはおかしいですわ! きっと呪いをかけられたに違いありませんことよ!」
今度は私がドキリとする。
告白されたのは、あの光の後。その可能性は捨てきれなかったから。
「それはない」
だけどルパート様はさらりと言い切った。私は不安を抑えられないまま、ルパート様を見上げる。
「どうしてそんなことが言えるんですの?!」
「我が王家はその昔、偉大なる聖女が王妃となった。その血を受け継ぐ者に、呪いの類は効かないからだ」
呪いが……効かない?
なら、私を愛していると言った言葉は……本心……
そう思うと、涙がポロリと流れ落ちた。
私がルパート様を操って言わせているんじゃなかった。心からの言葉だったんだ……!
「まさか、アンジーも俺の言葉を疑っていたのか?」
私に目を合わせてくれたルパート様は、困ったように微笑んでいる。
「はい……だって私、こんな痣持ちで……」
「ああ、これはおそらく……天使と悪魔、表裏一体の魔法陣」
「え?」
「一歩間違えば、アンジーは本当に悪魔になっていた」
言葉が出てこない。やっぱり私、本当に悪魔だったの……?
「これは、憎悪を募らせれば募らせるほど、悪魔に近づき恐ろしい力を手に入れる。そして最終的には……本当に悪魔になるという話だ」
ぞくっと私は身震いした。
赤黒く光ったとき、私はものすごい憎しみで満たされていた。あれが続いていたら……
「逆に愛されれば愛されるほど、光の力を発揮する。弱きを助けて、悪を滅する力を手に入れる。それが聖女だ」
「せい……じょ……それって、おとぎ話では……」
「アンジー……その肩に刻印を背負いし運命の子。聖女は、おとぎの国の話ではない」
本当に……? 私は聖女の可能性を秘めているということ……?
「嘘よ!! そいつが聖女だなんて有り得ないわ! 聖女になれるとしたら、そいつじゃなくてわたくしよ!!」
「なら、アンジーが聖女だということを今から証明しよう」
へスターを一瞥したあと、ルパート様は私に優しい目を向けてくれる。
「アンジー。愛している」
「えっ」
いきなりの言葉に、私は驚いて声を上げる。ルパート様はそれすらも愛おしいと言わんばかりに、優しい目をさらに細めた。
「空よりも広く、海よりも深く、星の数よりも多く、アンジーを愛している。なにをされても憎むことなく、今まで人でいられたことは素晴らしいことだ。アンジーでなくてはできなかった」
慈しむような瞳。柔らかな言葉。
私のことを理解してくれていると思うと、胸の内からなにかが込み上げてくる。
「頑張ってくれてありがとう。今まで耐える人生でつらかったな。本来なら、家族からの愛情を一身に受けて、聖女の力を発揮していてもおかしくない年だというのに……」
手が伸びてきたかと思うと、私の頬にルパート様の手が乗せられた。
ああ、ドキドキする。ルパート様に少し触れられるだけで、こんなにも。
「これからは、俺がその分を愛するよ。誰よりも深く、広く、たくさん。アンジーのことを、生涯かけて愛すことを誓うよ」
「ルパート様……っ」
ルパート様のお顔が近い、と思った時には、唇と唇が優しく触れ合っていた。
生まれてはじめての、キス。
それも、大好きな人との。
あ……熱い。
左肩が。
「きゃああ!」
「なんなんだ?!」
私の肩の魔法陣が突如白く光り始め、へスターたちが驚きの声を上げている。
目の前にいるルパート様は、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ほら。俺の愛は本物だっただろう?」
目の前には、ちょっと得意顔したルパート様。
愛で聖女の力が開花するなら、ルパート様の私への気持ちは本当に……
私はこらえきれなくなって、こくりと頷いた。その拍子に透明の液体がころりと転がっていく。
「はい……はい、ありがとうございます……」
「泣いている顔もかわいいが、笑ってくれ」
「……はいっ」
私は笑った。きっと、泣きながら笑うひどい顔だったと思うけど。
それでもルパート様は、かわいいって笑ってくれた。
そんな私たちの隣で、両親と妹が苦しみ出して倒れた。一体、どうして……。
「ボットの時と同じだな。聖女の光の力に、悪の心が耐えられなかったんだ」
三人はボット様と同じように声を出せず、手足も動かせないでいる。
「一生、このままなのですか?」
「いいや、ボットは今朝治ったそうだ。聖女の力に殺す力はない。〝なにもできずに考える時間〟を与えるだけだ。最初のうちはな」
「考える時間……」
ボット様が倒れたのは、悪魔の呪いの力じゃなくて、聖女の光の力だったのね……
よかった。私は悪魔になっていなかったんだわ。
「考える時間を与えて、更生してくれるのを待つという力だったのですね」
「それじゃあ生ぬるい」
「え?」
「残念ながら、犯した罪というのはいくら更生しても変わらない。それ相応の裁きは受けさせる。それが王家のつとめでもあるからな」
「……はい」
凛としているルパート様は美しくかっこよくて。
ルパート様は三人とボット様、それに伯爵様に、非人道的な扱いをした罰として厳しい処分を下した。
貴族の家督を剥奪し、私と顔を合わせることのないように王都から追放してくれたのだ。
でも私には、一つの疑問が残っていた。
「どうして私がワナメイカー家の長女だって気づいたんですか?」
その質問に、ルパート様は元々私の出自を調べていたんだと教えてくれた。
けれど伯爵は口を割らず、そこからは辿れなかったと。
お金をもらっているようだったのでどこかの貴族か商家の娘だとあたりはつけていたけれど、どこの娘も身元はきっちりとしていて該当する者がいなかったそうだ。
それはそうだろう。私は生まれた時からいなかった子にされていたから。
「俺の婚約者がへスターだと言った時、アンジーはこう言っただろう。『きれいな方だ』と。それに違和感を覚えて、アンジーはへスターを知っている立場の娘だと確信した」
ルパート様は婚約者という立場を利用して、ワナメイカー家に足繁く通い、密かに調査していたんだと教えてくれた。
その帰りに、王子殿下がどうという声が聞こえて、入水自殺をしようとしている私を見つけたのだ、とも。
「あの時は、心臓が止まるかと思った」
「申し訳ありません……あの時、本当はボット様に肩の痣を見られて、脅されていたんです」
「そうだったのか……」
私はルパート様にぎゅっと抱き寄せられた。とくんとくんと鳴る心臓の音は、安らぎを与えてくれる。
「次からは相談してくれ。俺は、アンジーとなんでも話せる夫婦になりたいと思っている」
「ふう、ふ……?」
ルパート様と、夫婦になる。考えただけで舞い上がってしまいそうな話だけれど。
「……いやなのか?」
悲しそうにうるむ瞳を見ると、私の胸はズキンと痛んだ。
「いえ、でもワナメイカー家はなくなり、侯爵令嬢という立場を利用することもできませんし……国王陛下が何者でもない私なんかとの結婚を、お許しになるかどうか……」
「なるさ。聖女だからな」
私がルパート様を見上げると、自信ありげな顔で笑っている。
「我が国はその昔、聖女を王妃に迎えて大きく発展したんだ。だから次に聖女が現れた時にも、王家に迎え入れられるよう、聖女の知識は受け継がれている」
それでルパート様はあんなに聖女に詳しかったのかと、私は納得した。
「でもそれなら、どうして国民に〝魔法陣のような痣がある子が生まれたときは知らせよ〟としなかったんですか?」
もしもそうしていてくれたら、私があんな目に遭うことはなかったのに。そう思うと、どうしても言わずにはいられなかった。
「したくてもできないんだ。王家が求める人物と知られれば、必ず狙われてしまう。身代金程度ならまだいいが、育てようによっては悪魔になってしまうその子を悪用されては、国は滅んでしまうからな」
私は、国をも滅ぼす力を秘めていたのね……
自分自身の恐ろしさに、思わず身震いしてしまう。
「私……もしも悪魔の力に目覚めてしまったら、どうすれば……っ」
「そんなことはさせない。俺が一生、アンジーを愛していくからな」
「ルパート様……」
「それに聖女は王家のものと交われば、さらなる光の力を手に入れられてコントロールも可能になる。悪魔に落ちることはないし、絶対にさせない」
「ま、交わ……」
その意味を考えると、私の顔からは火が吹くほどに熱くなってしまった。
「結婚してくれるか、アンジー。いや、結婚してほしい」
私の肩が、熱く光る。
聖女の力が溢れるくらいの愛を感じ取れて、私はルパート様を見上げた。
「こんな私を愛してくれてありがとうございます。私も……ルパート様が世界一、誰より大好きです! 結婚、してください!」
「アンジー!!」
ガバリと情熱的に抱きしめられて、私も大きな背中に手を回す。
こんな幸せが訪れるなんて思ってもみなかった。
つらかった日々を耐えた私に、がんばったねと褒めてあげたい。
「アンジー」
「ルパート様……」
私たちは互いに目を合わせると。
愛情を確かめ合うようにキスをする。
肩の魔法陣は、柔らかな白い光を放出し続けていた。
★おまけ★
「わー、聖女様が光を垂れ流しながら歩いているぞー!」
「あっちでもこっちでも人が倒れた、捕らえろ!」
(ひー、早く王子殿下と交わって、コントロール力をつけてくれー!)
王宮内は大混乱に陥りましたとさ。めでたしめでたし⭐︎
★おしまい★
お読みくださりありがとうございました。
★★★★★評価を本当にありがとうございます♪
「ドアマット大好き企画」については、ぜひ下のリンクから飛んでみてくださいね!