09.恋心
サチコとふたりきりで車の中で残されるのは、なんとも居心地が悪かった。
神社でこっそり会ったのとはわけが違う。
今にも姉や父親が戻ってくるかもと思うと、何を話したらいいのか分からない。
せっかく、気を引くチャンスだというのに。
ぶるぶるぶる。小六ボーイは顔を振った。
別に女子なんて。そんな気はない。ないったらない。
「何、顔振ってはるの?」
おかっぱ娘に覗きこまれる。
リンが出ていって余裕ができたはずなのに、サチコは席を詰めたままだった。
いや別にそれも、サチコがよそゆきの丁寧な対応をして、リンの席を取ってしまわないようにしているだけだとか、車に乗る習慣がないからだとか、昔は今よりも「人と人との距離が近いもの」だとどこかで聞いたし、他意はないに決まってる!
「もしかして、照れてはるん?」
少年の瞳の中で女の子が微笑した。
ユウキは「そんなことねーよ」と柄にもないもの言いをしたが、笑われてしまった。
「いうて、うちも恥ずかしいんやけど」
サチコが言う。彼女の時代でも、男と女がいっしょにいると、からかいの対象になったそうだ。戦争が激しくなるにつれて、イジメや体罰の対象にすらなったという。
ユウキも、低学年のころは男女に隔てはなかったが、中学年、高学年と上がるにつれて疎遠になり、女子は男をどこかバカにしているような感じがすると話した。
「うちは別にユウキくんのこと、バカにしてへんよ。感謝してます」
言いながらサチコはリンの座っていたシートへと身体をずらした。
遠ざかったら遠ざかったで惜しい気がする。
「俺も別に、なんも思ってへんし。そういえば、サチコは何十年もこの辺にいたのに、モールに行ったことなかったん?」
何が「そういえば」なのかは分からなかったが、ふたりのあいだにできた大真面目な空気を無理にでも払拭したかった。
ところが、これは失敗だった。
「んー。人が多いから……」
「寂しいって言ってなかった?」
「子どもと親が手ぇ繋いでるん見るんは、しんどいなあ」
少し考えれば分かることだった。ユウキは頭の中で自分の頭をぽかりとやった。
それからさっき、リンがサチコと手を繋いでいたことを思い出して、腹が立った。
会話の主導権も父に握られてしまっていたし。
ユウキは、いまいち整理がつかないでいた。
――俺はサチコをどう思ってるんだろう。
これが生きた女の子なら、たぶん「恋心」というやつなのだろうけど、サチコは幽霊だ。もしも死んでなかったとしたら、九十歳とか百歳の超お婆さんになっている昔の人だ。
単に、自分が見つけた面白いものを独占したいだけなんじゃないか。
でも、それは失礼だ。サチコは確かに、ここにいるのだから。
本当に、いるんだろうか。ふと、神社では写真を撮りそびれたことを思い出す。
「なあ、写真撮らへん?」
言ってから少し恥ずかしくなったものの、意外とすっと提案できた。
「写真!? ええのん? 撮りたい!」
カメラアプリを起動して、狭い車の中で腕を伸ばす。
普段はインカメラを使うことなんて滅多になく、腕が揺れ、画面の中のふたりがコマ送りにかくついた。その映像が写真になるとサチコも了解しているようで、彼女は画角に収まるように、ぐっとユウキに身体を寄せた。
シャッター音がすると、ふたりの身体はぱっと離れる。
だが、写真を確認すると、ピントが合っていなかった。
「ぼけとるなあ……」「ごめん、やり直す」
サチコはスマホの操作を待たずに、またも急接近した。
今度はピントは合っていたが、写真の中の少年が照れているのは丸分かりだった。
「なんや、恥ずかしいわあ……」
サチコもまた、写真と実像(?)の両方がほんのりと頬を染めていた。
幽霊であるはず少女はくっきりと写真に写り、七五三でおめかしした女の子と……いや、サチコはもうちょっとおとなびていた。
十歳らしいが、一輪だけ咲く花のような雰囲気があって、それがおとなに見せていて、同い年かもう少し上の子のように思わせた。
そんな子が、写真の中で自分とぴったりくっついている。
ユウキは撮り直しというか、追加でもっと撮ろうと提案しようとした。
しゃきっとした顔で写りたかったのもあったが、サチコにまたくっついて貰いたいという欲だった。
「あ、戻って来はった」
少年は心の中でツッコミを入れた。早過ぎやろ!
普段なら、母親と姉が服を選ぶのを待つのに、フードコートやベンチでスマホの充電を気遣わなきゃいけないのに、と心の中で苦情を叩きつける。
「プリント……えっと、現像はどこかのお店でできると思うから、あとで」
返事は「ん……」と短く返された。
ガラスがノックされる。紙袋を持った姉は珍しくハイテンションだ。
ドアを開けると「降りて」と言われ、ユウキは追い出されてしまった。
父親がこっちを見て苦笑している。
ユウキも合わせて笑い――こちらは姉の態度よりも、さっきの写真の一幕のことがあったのだが――車中を振り返った。
「こら、覗くな!」
姉からのくぐもった苦情。ユウキは慌てて背を向ける。
いっしゅん、目の端に映ったサチコの背中は赤だったろうか、肌色だったろうか。
「へえ、そういう仕組みなんだ」
ダイスケが何か言った。
彼は運転席側のドアのそばに立ちながら、普通に車中を見ていた。
少年は「ずるいぞ!」とも思ったが、うしろを向かないことが、サチコに対して真摯なのだ、男らしいのだと言い聞かせた。
「ど、どやろか……」
車から出てきたサチコは、さらに一年ぶん成長したかのようだった。
薄手の長袖の白いブラウスに、同じく丈の長いクリーム色のカーディガン。
長ズボンは白と黒の糸を交互に織りこんだちかちかするグレーで、靴は紺と白のスニーカーだった。
クラスにもこういう格好をしている子はいたはずだが、サチコは妙におとなっぽく思えた。夏の学校で見る女子は、肘や膝を出してるし、男子が指差し「腋毛」とささやくことだってあるくらいだった……。
ゲームキャラの装備品以外で服装に見入るなんて、生まれて初めてのことだ。
長ズボンよりも丈の長いスカートにして、ふわりとしたらもっといいなと考える。
だが、視線を照れた顔へやれば、綺麗に切りそろえられた髪は不釣り合いだ。
それに、色が違うだけで、リンとほとんど同じ服装になっているのも引っかかった。
姉への抗議の意味合いもこめて「似合ってない」と言ってやりたかったが……。
「おとなっぽいと思う」
と、頬を掻いて誤魔化しておいた。
無難な答えは「おおきに……」と同じ仕草とともに返された。
本目的であるモールに入るまでに、すっかりくたびれた気分になってしまった。
だが、ここからが本番だ。
自身の気持ちを素直に認め始めていた小学六年生の頭脳は、財布の中の小遣いをどう使ってやるかとか、父と姉の目を盗んで写真をプリントアウトするにはどうするかとか、なんなら手を繋ぐ方法はないかと計算を始めていた。
まあ、すでにそのお相手の右手はリンに奪われていたのだが……。
サチコいわく、誰かと触れ合っておけばすり抜けにくいことが分かったらしい。
いきなりサチコの服が脱げても可哀想だし、ここは我慢だ。
昼食にはまだ早いから、ウィンドウショッピングと洒落こむことになった。
モールにはやたらと服屋が多い。ブランドによっていろいろ違うらしいが、ユウキにはよく分からない。リンは先ほど、モールの建物の外に併設されている全国チェーンの量販店でサチコの服をそろえたばかりなのに手当たり次第に店に入って、サチコを着せ替え人形にした。
ユウキもコメントをしたり、下着売り場から目を逸らしたりして頑張ったが、さすがに連続で服屋はつまらないと思った。
サチコ当人も、遠巻きにほかの店を見ながら「ええにおいがする」とか「あの赤いほっぺの黄色いのんは鼠? 兎?」などと、ユウキに小声で言っていたし、案外リンに気をつかっているようだった。
それから、四軒目に連れこまれそうになって、とうとう「服はもうけっこうやわ」と辞退した。
「ごめんね、ちょっと夢中になっちゃった。妹がいたらいいなって思ってて」
リンも自覚があったようだ。
「うちも、姉さんがおったらええなって思うとった」
「へへ……昼からはサチコちゃんの見たいところに行こ」
姉の気色の悪い笑みだ。サチコは可愛らしくはにかんでいる。
サチコは服を買ってもらったのがよっぽど嬉しかったらしく、試着巡りとは別口で、鏡やショーウィンドウに自分を映してはちょっと気取ってみたりしていた。
それはいいが、家族がずっとついてくるとなると、やっぱり印刷などの計画に差し支える。
ユウキは、ゲームセンターを当てにすることにした。
あそこなら筐体や景品を目当てにばらばらに動くこともあるだろうし、ユウキの小遣いでもサチコに何かプレゼントができるだろう。
ちゃんとした店に入って望みの物を買ってやりたい気もしたが財布は寂しく、サチコの眩しいリアクションに耐えられるか不安だったし、家族に冷やかされるのにも勇気が足りない。
ふたりきりなら映画でも見るものだろうかとも思ったが、それもやはり届かない。
――はあ、勇気って名前のくせに。
やっぱり、川に飛びこむくらいやったほうがいいのだろうか。
ところが、思いのほか早くに「チャンス」が巡ってきた。
「ちょっとお手洗い、いいかな?」
ダイスケが言った。リンも「私も」と追従する。
ユウキは思案する。さすがにこの隙にプリントアウトは難しいだろうか。
サチコに待ってもらって、ダッシュで行けば間に合うか?
「あ、そうだ。サチコちゃんの手、握っててあげて」
ダメそうだ。
言ったときの姉の笑いが意味深だったことに抗議をしたかったが、流れるように逃げられてしまって、お手洗いの前のスペースで棒立ちになってしまった。
子どもがふたり、おててを繋いで棒立ち。何かのピクトグラムみたいだ。
かなりバカっぽい構図だし、父親もすぐに出てこないあたり、印刷のチャンスもあったかもしれなかったが、もはや走りだす気勢も、手を振りほどく根性もゼロだ。
「なんや、恥ずかしいなあ」
同意を求める声。言われると余計にそうなる。
思わず、「サチコのせいだろ」と悪態をついてしまう。
謝られるかと思い、申しわけなくなったが、サチコは意外な「反撃」をしてきた。
「……なあ、痛いんやけど」
ユウキ少年は口頭で抗議するので精一杯だった。
サチコの手が、ぎゅっと強く自分の手を握っている。
握りかたも手のひら同士から、指と指ががっちりと絡みあったものに変わっている。
繋がった部分が熱くなって、じっとりと汗ばんできた。
この汗は自分のものだろうか。よもや、おばけが発汗?
「手ぇ離さんとってな。離したら服、脱げそうやさかい」
そんなわけあるかい! と関西弁で、もちろん胸の中でツッコミを入れる。
「なんや、悪いこと考えてはるやろ」
悪霊め。横を見れば「にしし」と笑う女子の顔。
もういい、プリントアウトは後回しだ。これはこれで悪くないし。
そう思った矢先だった。
「手ぇ繋いで、青春やなぁ~?」
不満をいっぱいに蓄えた鼻声が飛んできた。
階段のほうから、誰かがやってくる。
重力に任せた気怠そうな足取りで、大きな音を立てながら階段をおりる少年。
高校生くらいだろうか。
ぼさぼさの髪は色が抜けてるのか染まっているのか、素行不良を示す色合いをしている。
無造作に手が突っこまれたズボンもずり下がっており、ひとことで言えば「不良」に区分けされるものだった。
両親が最も嫌う……というか、誰もが近寄りたがらないタイプの人間だ。
どうしよう。ユウキの心臓が高鳴る。
「はあー。ライオンみたいな人やなあ……。ズボンずれとるし……」
サチコがなんか言った。しかも、当のライオンの耳はそれをしっかりとキャッチしてしまい、いらだった猛獣は、ずいと近寄って「ガン」をつけ、「メンチ」を切った。
うっかり言ってしまったのだろう。
サチコの手の握りかたが変わった。
さっきまでの力任せなたわむれの握りではなく、確かに女の子が助けを求めていると感じられる、たおやかな力加減になっていた。
「昼間っからいちゃつきおって、手ぇ離せや」
殴られるということはなかったが、年上の男の発する言葉は確かに暴力だった。
ユウキは足がすくみ、声なんて出せそうもない。
情けないことに手の力が緩んだが、サチコのほうが離さなかった。
「うざいわぁ、ガキが!」
語彙の欠片のない、知の底が見えた罵声。彼は何に怒っているのだろう。
続けざま、もうひとつふたつ下品な言葉で罵ったようだったが、ユウキはただ目を見開いて相手を見るほかに何もできなかった。
周りには、ほかにも多くの買い物客がいる。
その多くが大音量の罵声を聞いてこちらを向いたのに、そっと目を逸らすのを見た。
ユウキはそれにイラついた途端、サチコの身体を引いて、彼女の前へ出ていた。
「なんや、やるんか?」
不良少年は嬉しそうだった。
勝てるだろうか、守れるだろうか。
殴られたっていい。それが男だろ? 男なんだから!
ユウキは腹をくくり、くちびるもぎゅっと結び、さらに強い睨視で応えてやった。
声を出すと震えがバレそうだったし、目の奥もやや熱くなっていた。
ほんのひとさじの、けれども精一杯の勇気だった。
ふいに、ライオン青年の表情が凍りついた。
ユウキの気迫に恐れをなしたから? お手洗いから保護者が戻ってきたから?
そのどちらでもなかった。
ユウキの足元に、ばさりと服が落ちた。
それから不良くんは「き、消えたぁぁはぁ~っん!?」と、珍獣のような雄たけびをあげ、だぶついた腰パンにつまずきながら、一目散に逃げていったのだった。
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