08.幽霊
木々を流すカーブを抜けると、一気に視界が拓けた。
田園の向こうには、人家や背の低いビルを寄せ集めた町の風景。
コンクリートとアスファルトが、大自然に追い詰められるように密集している。
子どものころはこの片田舎を「街」と呼んでありがたがっていたのが懐かしい。
ここから先は人の目や自動車の往来も増えるが、このころにはサチコがシートを突き抜けてしまうことはなくなっていた。
ダイスケはバックミラーの中に、「ふたりの幽霊娘」の手が握り合っているのを見て、頬を緩めた。
――リンにこんなところがあるの、知らなかったな。
リンは幼少時はどこにでもいる明るい子どもで、わがままも多くおねだりも上手な娘だった。ダイスケは「お父さん」ではなく「パパ」で、アイも「ママ」だった。
呼称にこだわりがあるわけではないが、彼女が小学六年生の終わりごろに赴任から戻ると突然に「お父さん」に変わっていたから、嫌われたのかと思った。
アイに教えられ、二年のあいだにおとなに足を踏み入れてしまったのだと知り安堵をしたが、変化の過程に一緒に暮らしていなかったのは残念だと思った。
リンは東京で生まれ、小学校の半ば過ぎで和歌山へ。それから卒業まで数月残してまた東京。仕事の都合でてんてんとさせたのは悪かったと思っている。
帰国後はわざわざ元の小学校の学区に越し直したが、新居は大阪に構えるために、かえって残酷なことをしたかもしれないとの懸念もあった。
だが、リンは学友と過ごせるはずの貴重な時間を、ほとんど自宅で過ごしていた。
集団登校の集合場所での様子を覗いたこともあったが、ひとりでただぼんやりと立っているだけだった。ユウキのほうはせっせと友達を増やしていたが、リンは以前のように、家にクラスメイトを呼び寄せることをしなくなっていた。
幼いころによく困らせたおねだりも消え、こちらが要るものはないかと訊ねる立場になった。家族の外出にも積極的でなくなり、泊りの旅行での反応も淡泊になっていた。おとなになったというよりは、冷たくなったという印象を受けた。
自宅では、リビングで読書をしているかゲームをしているかだった。
どちらにしろ、必ずイヤフォンで耳を塞いでいて、話しかけるなと言っているようだった。とはいえ、声をかけても無視はされない。だるそうに返されたことすらない。
風呂やお手洗いのさいにだけ立ち上がり、ふらっと廊下へと消える。
長い髪を乾かしきらないで戻ってくるので、幽霊っぽくもみえた。
あまりにも静かにしているせいで、ときおりそこにいるのを忘れることもあった。
新居に移って全員が私室を持つようになれば、食事時以外に顔を見ることがなくなるんじゃないだろうか。
当時、そう考えたアイが「普段はリビングを使うルール」を設けたがった。
ダイスケは強要はよくないと思い難色を示し、少し様子を見ることとした。
ところが、誰に命じられるでもなく、リンは新居でもリビングに居座った。
三階まで吹き抜けた天井から日光の入るリビングのソファは、授業や部活の時間を除けば、ずっと彼女の場所だった。だが、ゲーム機がスマートフォンに変わっただけで、耳を塞いでいるのは相変わらずだった。
最近は髪も伸ばしっぱなしにしているから、幽霊っぷりにも拍車がかかっている。
ユウキもよくリビングにいたが、彼のほうは「ゲーム機の持ち出し禁止ルール」でそうされたようだった。だが、ダイスケは心配性のアイを咎めることはしなかった。
ダイスケもまた、娘のことが心配だった。
だが、団欒の場では快活に話し、弟をからかう姿も見せている。
会話には学友の名前も出てくるし、三年にあがるまでは部活動にも熱心だった。
成績も問題ないというか、すこぶる優秀だ。
ただときどき、彼女が「いない」ように思える瞬間があるのが引っかかった。
ダイスケは最近になって、リンのイヤフォンにパターンがあることを発見した。
リビングで自分の時間を過ごしているさいには必ず耳を塞いでいるが、外出をするときはイヤフォンを持ち歩かないのだ。彼女が不在のときには、身代わりのようにテーブルの上にイヤフォンが転がっている。
学校にもスマホは持っていくが、イヤフォンは持っていかない。
自家用車での移動では、家族が沈黙していれば使う。
アイが口うるさくしたのだろうか。いや、歩きスマホや音楽を聴きながらの移動は確かに危険だし推奨されないが、リンのそれが議題に上がった記憶はない。
これだけでは常識的なだけだといえるが、意外なことに会話が悪徳とされる混んだ電車内でも使わないし、自室に引っこむさいにもイヤフォンは置き去りなのだ。
なんの法則なのだろうか、このアルゴリズムが算出する結果は、何を意味する?
「リン。アイから返信はあった? 怒ってたりしない?」
「怒ってるかは微妙。珍しいって言われてる」
「誘わなかったことは?」
「二日酔いで頭が痛いって言ってるから正解だと思う」
バックミラーで盗み見る。
娘のスマホにはリボンのように束ねられたままのコードがくっついていた。
リンはいまどきでもコード付きのイヤフォンを愛用している。
新しいガジェットを見ると欲しくなるのがダイスケの性分だったから、彼女にも無線を勧めていたが断られていた。
ともかく、二年近く住んだはずの祖父母の家では「耳を塞がない」。今のお出かけでは「グレー」の判定だ。
「姉さん、その紐はなんなん?」
サチコが当の白いケーブルを指差す。
「これはイヤフォンといって、ここから音が出るの。蓄音機のラッパみたいな部分とか、ラジオのスピーカーと同じ役割。耳の中に入れて使うから、電話をほかの人に聞かれないようにしたり、音楽の音で周りに迷惑をかけたりしないで済むよ」
誰かに丁寧に説明をしている姿を見たのも初めてだ。
リンはスマホを操作すると、サチコにイヤフォンを付けてみるように促した。
幽霊少女は何度か耳からぽろりとやったが、目をまんまるにして「耳を塞いでるのに音聞こえんで!」と声をあげた。
「ねーちゃん、サチコの耳が悪くなるよ」
ユウキが苦情を言った。
サチコの頭部からは聞き覚えのあるアニメソングが漏れ出している。
「あれ? そんなに音量大きくしてないのになあ」
音量が小さくなる。
「っていうか、なんで“ペディキュア”の曲なんて入ってんの?」
ユウキがからかうように言う。ペディキュアは女児向けのアニメだ。
リンは「懐メロだよ」と言い、曲を止めてしまった。
そういえば、娘の音楽の趣味を知らない。
気になったことはあったが、ダイスケは自分から訊ねたことはなかった。
田舎にありがちの、ずけずけとなんでも聞いてくる、パーソナルスペースを半強制的に共有されるスタイルは嫌いだった。
――空気を読んで察するのが、いまどきの常識、だろう?
しかし、親としての領分ではどうだ?
好みを知るのも義務ではないのか?
――ちょっと待てよ。普段はずっとリビングにいるのに、スマホと読書以外に何かをしているのを見たことがないな。曲の好みどころか、趣味もあるかどうか知らないぞ。
やはり何か、大きな見落としのようなものがある気がした。
だが、すぐに思い直す。考えすぎだ。
今日日、スマホに関わらない趣味を持たなくてもなんの不思議もない。
イヤフォンも行動をパターン化するほうが落ち着くというだけだろう。
学校での好成績はそういう几帳面さを上手く反映したものとも考えられる。
それか、思春期特有のなんとやらだ。
男親に娘の気持ちは分からないもの……。
男女平等だといっても、これだけはどうしようもならないものだ。
――それより、目下の問題は「こっちの幽霊」だ。
まっかな着物に身を包んだおかっぱの娘。
物理的な干渉ができる以上、心理的な錯覚ではないのは認めざるを得ないのだが、開発部長はいまだにかたくなにサチコの存在を疑っていた。
その姿は「佐藤家」以外の者にも見えるのか、見えたとして、同じ姿に映るのか。
そして、サチコの存在が真実ならば、彼女がこの世に残るに相応しい理由、「未練」……つまりは、幽霊としての目的はなんなのか。
彼女は本当に悪霊ではないのか?
今は違っても、あとから悪霊と化すことは?
「僕の家族」に害をなす可能性は?
他人のこしらえたコメントの無いスパゲティコードのような謎。
目的の分からないモジュール。
仕込まれたバックドアか、はたまたウイルスか。
ダイスケのスマホには彼らしくない検索履歴が紛れこんでいる。
お祓い、悪霊退治、魔除け。
害をなすのならば修正、必要ならばデリートも辞さないつもりだった。
バックミラーでサチコを盗み見る。
人間の女の子にしか見えない。ちょうどダイスケの知らない、リンの空白の年頃の。
車はただっぴろい駐車場へと入る。
幽霊なんて不釣り合いな真昼間のモール。
車と人は多いが、それ以上に土地に余裕がある。
この近辺に暮らす人間には、この大きな総合商業施設か、手のひらに収まる端末にしか娯楽はないと揶揄される。
バック駐車のさなか、幽霊娘の姉役が尻を浮かせ、窓の外に何かを探した。
「ユニムラがある。サチコちゃんが出歩けるようにするから、お父さん、お財布係お願い」
お願いを述べたリンの表情は明るかった。
勝手についてきて、当然のように決めてしまい、幽霊のためにカネまでせびるか。
そのわがままな姿に、遠い日の愛娘の帰還を見た。
ユウキが「服買ってもらえるって、よかったやん」と、なぜか自分の手柄のようにサチコに告げ、サチコもまた「そんな、悪いわ」と言いながらも、にやけていた。
子どもたちが、笑っている。
今のリンは、確かにここにいる。
ダイスケは車を降りると、駆け足でファッションセンターに向かう娘の背を見ながら、スマホの検索履歴を消し、フォトアルバムを開いた。
赴任先で何度も繰り返し見た写真。
そこに写る家族はみんな、笑顔だった。
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